【柳生一族、そして宗矩】その12:剣術としての柳生新陰流

 さて、石舟斎、利厳と語ってきたところで,
いよいよ宗矩の話に移りたいところなのですが、
その前に、ひとつ書いておかねばならないことがありました。


 それは「剣術としての柳生新陰流についてです。


 以前、柳生新陰流の特異性は「無刀取り」にあり、と書いたわけですが、
実際のところ、それは新陰流の秘奥なわけで、
誰でも無刀取りの境地に辿り着けたわけではありません。
もっと言えば、思想としての「無刀取り」ならまだしも、
技法としての「無刀取り」については、
その技法を下支えする各種技術が必要になるわけです。


 また、如何に「無刀取り」という思想を含んでいるとは言え、
柳生新陰流があくまで剣術である以上、その技は、刀を使うための技術であり、
更に言ってしまえば、殺傷のための技術でもあるわけです。


 その上で、この刀を使うための技術であるところの剣術、
即ち「刀法」を枕詞としたのは、前回まで話題に挙げていた尾張柳生なわけですが、
では、それと対になる、これから話に挙げる江戸柳生の枕詞、「心法」とは何か。
刀法を下地にした心法とは如何なるものなのか。


 それを説明する為の前提知識として、
剣術−即ち、刀による戦闘技術−としての柳生新陰流
どのようなものであったか、書いていこうかと。


 尤も、当方はあくまで知識のみなので、真に知ろうと思ったら,
やはりちゃんと稽古してナンボだと思うので、話半分程度にお聞き頂ければ重畳ー。
(つか、解釈間違ってそうでしたらご指摘ください)


 さて、その上で、柳生新陰流の基本についてですが、


         「相手を動かして勝つ」


 というのが基本であり、根本概念であります。


 話は少し反れますが、その昔、柳生新陰流の祖流たる新陰流の、
更に祖流となる流派として、「陰流」という流派がありました。
これは、中条流、天真正伝香取神道流と並ぶ、日本三大源流の一つです。


 この陰流、特徴としまして、
相手の動き(=心)を読んで、これを打つ」というものがあり、
これ即ち、表に見える体の動き=「陽」に対する、
表には見えない心の動き=「陰」を以って要と為すので「陰流」だそうです。


 そして話を戻して、柳生新陰流の基本たる「相手を動かして勝つ」が
どういうものであるか、ということですが、これは、陰流の特徴を更に進め、
「相手を動かす=相手の動き(=心)を操作する」ということであり、
即ち、


 「相手を自分に都合のいいように動かすために様々な技法を駆使し、
  そうして自分の望み通りに動いた敵を、然るべき技で打つ」


 ということなのでアリマス。
単純に考えると、それじゃ単なるカウンターなのか、ならば相手が動かなければ
待つだけなのか、という話も出そうですが、その場合は、
相手が動かないのであれば、「相手が動かない状態」というものに対して、
そこを打つ、ということになります。


 これを更に進めると、


 「相手がどう動こうと、自在に対応し、これを打つ」


 という話になります。
もはや、相手を操作するまでもなく、相手がどう動こうが、
いちいち思いを向けるまでもなく対応する、ということで砂。


 この境地を「転(まろばし)」と言います。
「相手に応じて円転自在の剣」だから「転」というわけで砂。


 そして、これに対応する術理として、
柳生新陰流には、構えのない構え、即ち「無形の位」と呼ばれるものがあります。
要するに、刀を構えない構え、といったところでしょうか。
刀は持つけど、力まず、自然に持ったまま、という体勢なのではなかろうかと。
概念としては、


 「刀を構えることで、自らの動きが、その構えに縛られる。
  だから、構えない。
  そうすれば相手の動きに対応して自在に動ける」


 ということになるようです。
まあ、ここまでくると、技がどうこうという話じゃない気もしますが、
ともかくこれを突き詰めた先が「無刀の位」であり、
いわゆる無刀取りの体勢となるそうです。
(「無形」と「無刀」が同一なのか別なのか未確認なのでご注意をば)


 ちなみに、柳生新陰流は新陰流と同一にして支流なので、
上に挙げた概念や「転」などは、新陰流にも存在します。
無刀取りから先が柳生新陰流の独自部分なんで砂。


 さて、その上で、その祖流にして同一たる新陰流からの思想である
「殺人刀(せつにんとう)」「活人剣(かつじんけん)」を紹介致します。


 まず、世間一般で「活人剣」といえば、
「人を生かす剣、不殺の剣」などという受け止め方が一般であり、
実際、無刀取りはその考え方の究極の形のひとつなわけですが、
実はこの分類、もうひとつの意味があるので砂。
それは、


  殺人刀=構えを持って威嚇し、自ら動いて敵を斬る
  活人剣=敵(=人)を活かして(=動かして)、斬る


 という区分けでアリマス。
「人」を「動かす(=活かす)」から「活人」てなわけで砂。
身も蓋もなく言えば、自分から攻めるか、カウンター待ちか、ってだけで、
結局斬るには斬るという点では同じという「技法としての区分け」なんで砂。
(まあ、この「動かす」は、例によって「相手を思う通りに動かす」の意なので、
 えらい高等技法になるわけですが)


 さて、剣術としての柳生新陰流については概ねこんなところでアリマス。
自ら積極的に斬りかかるよりも、まず相手の動き(=心)を読み、
これを動かし、その動きに応じて、これを打つ、というのが
そのスタイルであり、概念としては護身術に近いものがあり、
確かに前線で戦う兵士よりも、指揮をする人間に向いた剣術だと言えます。
逆にいえば、ある一定以上の洞察力や技術が必要なため、
前線で戦う兵士には不向きである、とも言えます。
そういう意味で対極に浮かぶのは島津の示現流になるのでしょうか。
(尤も、示現流示現流で、鍔に針金で鞘止めをつけて、
 迂闊に抜かないようにした、などの逸話もあり、
 とにかく全力で斬れればいい、などという単純な流派でもないのですが…)


 さて、一通り説明したところで、再度ご注目頂きたいのは、
新陰流より引き継いだ「殺人刀」「活人剣」でアリマス。
このうち「活人剣」については、


 1:相手を動かしてそこを打つ、という「技法」
 2:人を殺さない剣、という「思想」


 という二つの面があることは述べた通りなわけですが、
ここに、第三の意味を付け加えた人物がいるのでアリマス。
その男こそ…。


 てなところで、皆さんお待ちかね、
「さあ、次はいよいよ宗矩が登場するぞ(by一然太師)」でアリマス。