【柳生一族、そして宗矩】その11:柳生兵庫助利厳(4)「江戸柳生と尾張柳生の仲は実際どうだったのか?」

 さて、尾張柳生について、一通り書いたわけでアリマスが、
では、この尾張柳生と江戸柳生の関係はどうだったのか、
という点について書くことで、兵庫助利厳と尾張柳生、
即ち、"普通の"柳生の話を締めようかと。


 まず、端的に言えば、あまり仲はよろしくなかったそうで砂。
ただ、調べた感じだと、お互いに嫌いあってた、というより、
尾張柳生が江戸柳生を嫌っていた、という風ではあるのです。


 その理由として、まず、その不仲の発端として挙げられるのは、
宗矩が利厳の妹の婚姻を勝手に決めてしまった上に、
その相手が朝鮮人・佐野主馬であった、という一件で砂。
念の為、一応注意しておきますが、相手が朝鮮人であることは然程問題ではなく、
まず、兄である自分(利厳)に断りなく妹を嫁がせた、というのが第一、
次に、その相手が何処の誰とも分からない人間である、というのが第二なわけで砂。
朝鮮人云々、というのは、ここに掛かるわけで砂)
まあ、そりゃ怒るよなあ、普通。


 これはむしろ、宗矩がなんで一言言わなかったのか、という話で、
推測するに、これは「柳生の長たる自分が、何故一族の者の婚姻に、
いちいち断りを入れる必要があるのか」という宗矩側の意識があったのでは、と。
この辺、気遣い足りなかったんじゃないの、と思いますが、
実際問題、当時の武家の婚姻がどういうものであるかを考えると、
単純に宗矩を傲慢と言うのも難しいなあと。


 つか、宗矩自身はいいことをしたつもりだったのかもしれませんな。
実際、この佐野主馬ですが、非常に優秀だったらしく,
この婚姻を機に柳生性を名乗ることを許され、柳生主馬となります。
また、役職も老職まで登り、ついでに言えば肝心の夫婦仲も良かったらしく、
子供も生まれ、嫡子の八郎左衛門は山崎甲斐守、後に有馬氏に仕えた、とのこと。
案外、当人同士が望んでいたので、宗矩は気を利かせたつもりだったのかもで砂。


 ともあれ、これで江戸と尾張の当主同士の間で遺恨、というか、
利厳の宗矩に対する怒りが残ったわけですが、
(というよりこれで宗矩が怒ったら逆ギレ以外の何物でも…)
難儀なことに、この諍いが宗矩も利厳も亡くなった後も続いてしまうので砂。
そして、先に述べた通り、江戸柳生と尾張柳生が、
それぞれが柳生の家と新陰流正統とを継いでいる、という状況が、
ここでややこしさに加速を掛けます。


 単に弟が本家を継ぎ、兄の子である甥は分家する、ということだけであれば、
ここまでこじれなかったのでしょうが、困ったことに柳生は剣の一族であり、
その分家側に流派の正統がある、というのが、
江戸柳生と尾張柳生の状況なわけです。


 つまり、江戸柳生側からすれば、
「将軍家指南役たる家が新陰流の正統ではないってどうよ?」という不満が、
尾張柳生側からすれば、
「新陰流の正統はこっちなのに、なんで分派の連中が偉そうな面してんの?
 大体、あいつら元々は嫡流じゃないじゃん」という不満が出るわけで砂。
このお互いの不満こそが、不仲説のもうひとつの理由であろうと。


 しかし、宗厳と利厳が生きている間は、
この点については、お互い、触れていないわけです。
(その理由については既に述べた通りであり、もし当方の推測通りなら、
 そりゃ口に出せるわけ無いシロモノなわけですが)
不仲になったのは、あくまで利厳の妹の婚姻の件であり、
この本家分家・正統分派の問題は関係ない、と。


 ところが、宗矩と利厳が亡くなった後、
この当人同士の遺恨が、江戸柳生と尾張柳生の反目になってしまうので砂。
先に当方が、石舟斎と当人同士の合意の上でこの状況を作り上げたのでは、と
推測してる理由のひとつは、この当人が亡くなった後の反目の発生でアリマス。
つまり、他から見ておかしな状況であるのに、当人同士が生きている間、
なんら問題が起きてない、というのは、当人同士の間で何かしらの合意が
あったからであろう、と。


 そして、この合意のことなどわからない、または知らない身からすれば、
このおかしな状況に不満を持ち、これを変えよう、または意趣を返してやろう、と
考える者が出るのも仕方のないことだと言えます。
それが端的に現れたのが慶安四年(1651)の将軍上覧演舞の一件でアリマス。


 この時期、既に江戸柳生は宗冬(宗矩の三男)が、尾張柳生は厳包が継いでおり、
この二人が、将軍の前で新陰流の型を披露したところ、
将軍より木刀を以って試合せよ、という命が下ります。
そして、かねてより江戸柳生の傲慢に怒りを持っていた尾張柳生側の厳包が、
既に確立していた(尾張柳生独自の)「直立たる身の兵法」による一刀で、
宗冬の親指を砕いて勝利する、というのが顛末でアリマス。


 ただ、この話は、怪しいところが存在し、
記録によると、この試合の1週間後、宗冬は別に剣技の披露をしているので砂。
そうなると、親指砕かれた1週間後に、また出てくるってのはおかしかろうと。


 そして、この話は、尾張柳生側にのみ伝わっており、
江戸柳生側では、今のところこのような話はないそうです。
ただ、この時の宗冬の血が付いた木刀が、尾張柳生家には伝わっているとの由。


 このことを考えると、尾張柳生の方が不満が強く、
それの意趣を返すがために、こういう話が作り出されたのではないか、
というのが当方の推測でアリマス。
だから、尾張柳生が江戸柳生を嫌っているのでは、と書いたわけで砂。


 尤も、尾張の不満が当然と思えるような何事かがあった可能性もありますし、
それでなくとも「本家・分家」「正統・分派」の問題もある上に、
地位の差(大名と陪臣、従五位下と無官)や石高の差(一万石と五百石)、
流派としての差(変化の無い江戸と進化し続ける尾張)などもありますから、
これでお互い、何の軋轢もない方が不思議ですから喃。


 まあ、実際どうだったかは推測するしかないのですけど、
勿体無くもあり、また、面白くもある話ではありま砂。
なんというか伝奇力エンジンフルドライブな感じで。


 てなわけで、これで利厳と尾張柳生の話は終わりでアリマス。
さあ、そろそろ僕らのアイドル宗矩くんの話が近づいてまいりましたよー!