【柳生一族、そして宗矩】その13:柳生但馬守宗矩(1)「柳生宗矩の誕生〜徳川家への仕官」
さて今回からは、遂にみんなのアイドル
通称暗黒野郎こと柳生但馬守宗矩という人物と、
その特異性について延々書く所存でアリマスよ!
まさにハイパー宗矩タイム!
実際、柳生を語る上で絶対外せない人物は、
・石舟斎宗厳
・但馬守宗矩
・兵庫助利厳
この3人なんで砂。
世間一般では十兵衛三厳が柳生最大のビッグネームなのですが、
実際のところ、今の柳生を形作ったのはこの3名であり、
柳生を語る上で、キモになるのはまず彼らなのですよ。
極論すれば、十兵衛も厳包も「柳生」を語る上では必須ではないのです。
そして、今、柳生最大の特異点たる宗矩について、
あれこれ書かんとする当方の心の躍りを感じて頂ければ重畳の極みでアリマス。
「歌でもひとつ歌いたいようなイイ気分だ。フフフフハハハハハ!」てな感じ。
さて今回、宗矩に関して書くことは大別して4つ。
1:柳生但馬守宗矩とはどういう人物なのか
2:宗矩の特異性とは何か
3:「心法の江戸柳生」と宗矩の思想
4:江戸柳生の人々
このうち、宗矩という人物を語るためには、
宗矩がいつ、どこで、誰を相手に、何を、どのようにやったかを語らなければ
話が進みませんので、ここで1を更に分けると、こんな按配になります。
1-1:柳生宗矩の誕生〜徳川家への仕官
1-2:柳生宗矩の関が原〜柳生家相続・将軍家指南役に
1-3:柳生宗矩の豊臣家滅亡〜坂崎出羽守事件
1-4:柳生宗矩の兵法家伝書執筆・惣目付就任〜柳生藩の成立
1-5:柳生宗矩のその後、そして…
というわけで、まずは、柳生但馬守宗矩という人物の生涯を、
時系列順に書いていくでアリマス。
石舟斎や利厳の話も結構長い方でしたが、
見ての通り、宗矩の方がもっと長くなるので、ご覚悟をば。
さて、それでは早速ながら宗矩誕生から話を進めていきましょうか。
…時に、元亀二年(1571)。
柳生家当主、柳生宗厳の五男として、
のちの但馬守宗矩となる又右衛門が生まれました。
父・柳生宗厳が、師・上泉秀綱より新陰流の正統を継ぎ、
柳生新陰流を打ち立ててから、既に6年が経っていました。
時に宗厳42歳。
まー結構年喰ってからの子供になりま砂。
宗厳にはまだ娘もいるので、又右衛門が末っ子かどうかはわかりませんが、
男子の中では一番下であります。
(ん?久三郎純厳?彼は長男厳勝の息子、初孫ですよ?)
この年、不具になった長男の厳勝とは20歳も年齢差があるわけで砂。
それからしばらくして、宗厳は柳生新陰流を極めるべく、
大勢力への臣従に背を向け、柳生庄に逼塞、剣の修行と弟子の育成に専心します。
そしてその育成は、当然、幼い又右衛門にも施されます。
かくして又右衛門こと宗矩は、24歳まで宗厳の膝下で柳生新陰流を叩き込まれます。
ただ、ずっと柳生庄にいたというわけではなく、
柳生新陰流の修行の一環として、禅寺での修行もこなすため、
京の名刹大徳寺、丹波の宗鏡寺にも赴いていたらしく、
後に将軍家光の師僧となる沢庵との出会いも、
この頃にあったかもしれない、と言われております。
ちなみに、士官先を求めて秀吉の小田原城攻めに赴いたり、
京の貴族、烏丸家のところに出入りしたりしてたという話もありますが、
この辺は今ひとつ裏が取れてないのでなんとも。
この時期、宗矩は未だ仕官しておらず、その厳密な足跡は不明なため、
可能性はなくもなかった、というところでしょうか。
そんなこんなで時は過ぎ、文禄三年(1594年)、
石舟斎の話の際にも書いたことですが、
宗矩は石舟斎に附いて、徳川家康の元に赴きます。
時に宗矩、24歳。
さて、ここで前にこの話題になった時、後回しにしていた件、
即ち、
「何故、石舟斎は家康の要請にこたえたのか。
また、何故連れて行ったのは宗矩だったのか」
という件について改めて書こうかと思います。
まず、単純に考えれば、
「いい年こいて浪人の息子を仕官させるため」というのがあります。
この時期、柳生家は石舟際本人に、不具の身の厳勝は勿論、
四男宗章、五男宗矩と、一族揃って誰にも仕えてなかったので砂。
ただ、そうすると、
「そもそも剣の修行のために自ら逼塞した石舟斎が、
息子を仕官させるためにわざわざ自ら動くものか?」
という疑問が湧きます。
何故なら、この時期の石舟斎は、まだ柳生庄二千石を領地としている上、
ようやく戦国時代も終わりを告げ、少なくとも畿内はかなり平穏な状態である為、
一族を養うのに不安は殆ど無かったと思うのですよ。
おまけに、柳生新陰流の伝播に関しては、既に石舟斎の剣名は高く上がっており、
事実、黒田長政クラスの大名すら、先方から接触をしてくる以上、
わざわざ自分から仕官させようなどと考える理由が、
この時点の石舟斎には無いのではないかと。
そうすると、答えは逆であり、
「宗矩自身が家康に仕えたいと願ったため、石舟斎が腰を上げた」
というのが実態に近いんじゃないかと。
おお、山岡荘八!
実際問題、既に老齢(68)に達していた石舟斎と違い、宗矩は24歳であり、
おまけに、大徳寺などでの修行てがら、京の賑わいを知っていたでしょう。
柳生庄は平和ですが、同時に田舎でもあるわけで、
これからもそこでずーっと剣術三昧、というのは、
いくら石舟斎本人に新陰流を仕込まれ、禅の修業も積んだ身とはいえ、
若者の宗矩にはつらかろうと。
そこに、当時の最有力大名の一人だった家康による剣技上覧の要請。
おまけに当時の家康は京にいたので、これは京で仕官するチャンス!と考えた末、
石舟斎を説き伏せて、自分の仕官の為に連れ出したんじゃないですか喃。
まあ、平たく言えば、
宗矩「オラ京さ行くだー」
というとこなんじゃないかしらん、と。
山岡先生版宗矩は、この時点で柳生新陰流の活人剣の心を胸に、
徳川様は我が柳生の剣が仕えるに値する人物か否か…?とか言ってたのですけど、
実際のところは、もっと俗っぽく、かつ、若者らしい夢や希望に
燃えてたんじゃないかと。
そう思うと、末っ子の為にてくてく京まで出向いていった石舟斎も、
稀代の剣豪とはいえ、甘甘パパさんであるのかなあと。
実際、宗厳は高齢を理由に家康からの傍仕えの要請を断っているわけですが、
もし本当にそうなのであれば、行く前の時点で、
「某は高齢のため、御前に参上すること叶いませぬ」とか言う筈ですしね。
これはもう初めから宗矩のためにやった仕官パフォーマンスであろうと。
「よーしパパ、徳川様の刀取っちゃうぞー(無刀取り)」
そんな家康の前での剣技上覧の顛末については、
既に書いた通りですので略すとして、
ともあれ、宗矩は見事に家康の近習としての仕官に成功します。
最初の禄は二百石。
そして、石舟斎が、ともあれ息子は本人の希望通りに仕官できて喜んでるし、
また孫(利厳)を鍛えてのんびりやろう…とか思ってたであろうところで、
柳生家に降って湧いた災難が!
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| ___l_,| / よし、検地するぞ!
| \__/ / < もし隠し田があったら
/| /\ \ ギッタギタだぞう!
豊臣秀長 \________
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| ⊂⊃ | / 柳生!
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/ |. l + + + + ノ |\ \ お前、隠し田持ってたな!
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_ /  ̄ <_ 領地没収だ!
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/ /⌒ヽ,| ミ } ...| /!
レ l d _}`ー‐し'ゝL _
| ヽ、_, _,:ヘr--‐‐'´} ;ー------
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ヽ/l/|` ー------r‐'"  ̄ ̄
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石舟斎
「ド、ドラえもーん!」
↓
「答え3:現実は非情である」
まあ、こんな塩梅で、いきなりピンチになる柳生一族。
この時の石舟斎のへこみっぷりについては先に書いた通りなので割愛するとして、
しばらくの間、柳生一族はえらい目に遭います。
それでもギリギリ何とかしのげたのは、羽柴秀次からの知行地百石や、
この頃には仕官していた宗章、宗矩からの仕送りなんかもあったのではないかと。
宗矩とて、実家がエラいことになってるだけで落ち着かないのに、
そこに柳生新陰流流祖たる父、剣豪・柳生石舟斎たる者が、
「ワシが死んだら茶道具売って葬式代にしてくれー」とか言い出してるとか聞くと
そりゃ気が気じゃなかったろうとは思いますが、
さりとていい知恵があるわけでもなく、
とりあえず仕送りするくらいしかなかったろうと思うと、
なかなか切ない感じで砂。
さて、そんな風に、柳生家がにっちもさっちもいかない状態でも、
時は過ぎ、どんどん時代はきな臭い方向へ流れていくところで
ヤング宗矩の話は一区切りでアリマス。
次はもう少し後、関が原の合戦手前のところから進めていこうかとー。