【柳生一族、そして宗矩】その25:柳生但馬守宗矩(13)「江戸柳生の人々(3):その後の江戸柳生」

 長々と書いてきましたが、
今回でようやく江戸柳生家、そして宗矩の話も終わりです。
ちょうど1クール分で砂(まあ、ナンバリングしてない分もありますが)


■宗冬以降の江戸柳生家

 さて、話は本題に移りますが、
宗冬以降の江戸柳生家は、端的に言えば、パッとしません。
理由は2つ。


 1:宗矩の直系が途切れた
 2:将軍家に剣術を指南しなくなった


 なんかどっちも江戸柳生家の存在を根本から覆すような話ではありますが、
宗矩が、あるいは(宗矩の直接の薫陶を受けた)宗冬が亡くなった時点で、
ある意味、江戸柳生家は既にその役目を果たし終えた、と言えなくもないので、
もうただの大名家になってしまった、ということなのかもしれません。


 結論を書いてしまったので、簡単にまとめますが、
宗冬には二子があり、兄が宗春、弟が宗在といいました。


 このうち、兄の宗春は、父や祖父に並ぶと言われるほど剣才に恵まれ、
また、性格も「人鑑(模範青年)」と称えられる程の人物だったのですが、
厳勝、純厳、十兵衛、清厳など柳生家の代々の長男と同じく、
家を継ぐことなく、延宝三年(1675年)に早逝してしまいます。
死因は病死だそうです。享年27歳。


 そのため、宗冬の跡を継いだのは、次男の宗在でした。
後に対馬守となり、六代将軍家宣の剣術指南役を勤めた後、
元禄二年(1689)に亡くなります。
享年36歳。これも早逝で砂。


 宗在の跡を継いだのは、宗春の息子、俊方でした。
俊方が家督を継いだのはまだ14歳の時です。
後に備前守となり、享保十五年(1730)、亡くなります。
享年58歳。


 さて、俊方には家を継ぐ子供がおらず、
これにより江戸柳生家の宗矩の直系は絶えてしまったため、
(厳密には、宗在の子や俊方の弟がいたのですが、
 二人とも三田藩九鬼家の後嗣になっているので砂)
以降の江戸柳生家は、全て養子によって相続されていきます。
最初の養子は松平家の定重(のちの越中守)でアリマス。
これで、せめて剣術の腕を理由に選んでいたのであれば、
まだ剣術指南役としての矜持も保たれていたであろうに、というところなのですが、
困ったことに、その辺は不明なので砂。


 何故なら、先ほどの俊方の記述では、わざと書きませんでしたが、
宗在以降、江戸柳生家は剣術指南役ではなくなったためです。


 何故、江戸柳生家が剣術指南役ではなくなったのか、その推測は後述しますが、
実際、8歳で亡くなった七代家継はともかく、次の八代吉宗ならば、
剣術指南として召し出されたであろうと想像するところなのですが、
史料によると、特に吉宗相手に剣術指南をすることもなく、
たまに剣技の上覧をして、服を下賜された、とあるくらいなので砂。


 そんなわけで、剣術指南役としての江戸柳生家は、
宗在が亡くなった時点で終わったものと考えてよろしいかと。
(一応、飛び飛びで指南役となった当主も出たようですが)


 ただ、「じゃあ、柳生は江戸時代を通じての将軍家剣術指南役じゃなかったの?」
というと、これが実はさにあらず、なので砂。


  江戸柳生家は剣術指南役ではなくなりましたが、
 柳生は相変わらず将軍家剣術指南役だったのです。


 これが、先ほど書いた「江戸柳生家が剣術指南役でなくなった理由」に
繋がるお話なのでアリマス。


■「もうひとつの江戸柳生」村田柳生

 宗在には、一人の弟子がいました。
名を、村田十郎右衛門久辰と言います。
柳生四高弟の一人、村田与三と苗字が同じなため、直系では、とも言われてますが、
その辺の詳細は不明です。
ただ、相当な腕前であったらしく、正徳二年(1712)、
俊方は(宗在の後の)家宣の剣術指南役として、この村田久辰を挙げています。
ここで推測できるのは、俊方は剣術の腕は今ひとつであり、そのために、
前当主の弟子のうち、最も技量に優れた者を自らの替わりとした、ということで砂。


 そして、ここからが肝心なのですが、
この一件で、久辰は俊方より柳生姓を名乗ることを許され「柳生久辰」となり、
江戸柳生家とは異なる旗本の柳生家を興すことになります。


  これが世に言う「村田柳生」です。


 つまり、大名家の柳生家は剣術指南をしなくなったけど、
それとは別の柳生が剣術指南をしていた、というわけで砂。


 ちなみに余談ですが、後の天明四年(1784)、田沼意知の刺殺事件時、
犯人の佐野政言脇差を打ち落としたのは、当時、目付をやっていた久辰の曾孫、
柳生主膳正久通であった、というネタがあったりします。
なお、この久通、後に勘定奉行となり、
その就任期間は歴代最長(28年強)だったそうでアリマス。
(息子に卍兵…ゲフンゲフン)


 あと、更に余談を重ねますと、
大名の柳生家の方の十一代目の藩主として養子になったのは、
田沼家より入った意次の孫、俊能でアリマス。
因縁ですかね。


 そんなこんなで、結果的に江戸柳生家は、太平の江戸時代において、
ただ藩と流派の命脈を保つことに終始する結果になりました。
そして、柳生新陰流そのものも(他流試合を禁じられた)御流儀であることが災いし、
尾張柳生家と異なり、剣術流派としては完全に時代に取り残されます。


 そして、時は幕末を迎えます。


■幕末の江戸柳生家

 幕末の時代には、ご存知の通り、多数の剣客が登場しました。
北辰一刀流、天然理心流、示現流神道無念流直心影流鏡新明智流
多彩な流派が名を連ね、名剣士も続々と輩出されていましたが、
その中には、柳生新陰流も、柳生の姓を持つ剣士もいませんでした。


 事実、幕府が設けた講武所において、
教授方として名を連ねたのは、直心影流の男谷精一郎を筆頭に、
同流の榊原鍵吉や心形刀流の伊庭秀俊など、いずれも当時名高い剣豪ばかりでしたが
その中にも、柳生新影流の剣士の名は見当たりません。


 柳生は、より厳密に言えば、大名の江戸柳生家は、
剣の世界からはとっくに時代遅れの存在に成り果てていたのです。


 そのような状態の中、この江戸柳生家、もとい、柳生藩で起きた事件があります。
これが「紫縮緬事件」です。


 簡単に説明すると、当時の時勢を受け、
柳生藩も佐幕か勤皇かで大きく揺れていました。
このうち、問題をややこしくしたのは、柳生家が定府大名の家であったことです。
つまり、参勤交代の無い、当主がずっと江戸にいる大名家ということで砂。


 そのため、柳生藩では、江戸詰の藩士と、国詰の藩士の間に、
他藩以上の溝がありました。
これは当然、この佐幕勤皇の議論にも影響します。


 京に近い柳生庄にいる国詰の藩士達は、時勢を見て勤皇寄りに、
江戸詰の藩士達は当然のように佐幕側です。
こうして柳生藩も例に漏れず、どちらにつくかで大揉めに揉めます。
更に、定府大名であるが故に、藩主が国許へ戻れず、
両方の話を満足に聞けないことも状況の悪化につながります。


 そんな具合に藩論が決着しない中、遂に王政復古令が出されたことで、
全藩主が召集を受け、当時の藩主俊益も京へ向かうことになりました。
それに従い、江戸詰の藩士達も供となり、帰国します。
この際、江戸詰藩士達は藩論の統一の為、
国詰藩士達を「説得」にかかろうとしました。


 この「説得」には、当然のことながら、刀が使われる訳で、
その際、斬った後の血糊を拭う為、刀の鍔に巻いた紫縮緬を使う、ということから、
対立する国詰藩士を斬る隠語として「紫縮緬を用いん」と称したことが、
この事件の名前の由来でアリマス。


 まあ、江戸柳生家が完全に形骸化したことのわかりやすい象徴で砂。
ここで刀を使うという選択はない、と言うのが
宗矩の「活人剣・治国平天下の剣」のはずだからです。


 なお、この事件の結末ですが、偽文書(藩主暗殺計画書)による讒訴で、
国詰家老を追い込もうとした江戸詰藩士達でしたが、逆にその偽文書を利用され、
藩主暗殺の首謀者にされてしまい、慶応四年(1868)二月、
江戸詰藩士達9人は「藩主の命により」殲滅されてしまいます。
ああ黒い。


 結果、藩論は統一、勤皇に与することとなった柳生藩は、明治維新をやり過ごし、
その後、柳生藩は柳生県に、柳生家は柳生子爵家となりました。
そして、柳生県は奈良県に統合され消滅、
柳生子爵家は戦前まで残っていたようですが、その後の詳細は不明です。
(子孫の方はおられるので、家は残っていたのでしょうが)


 さて、ここまでが宗矩の、そして江戸柳生の話です。
なんだか予想以上に長くなってしまいましたが、
これで、長かった宗矩についての話も一段落、ということになります。
如何なものでしたでしょうか?


 さて、次は、江戸、尾張以外の柳生、
言うなれば「第三の柳生」について書くでありますよー。