【柳生一族、そして宗矩】その19:柳生但馬守宗矩(7)「心法の江戸柳生:その二つの源流(1):柳生石舟斎「兵法百首」」

 さて、ちょいと補足が続きましたが、今回から改めて本題の話をば。
宗矩の思想である「活人剣・治国平天下の剣」について解説を行いたく。


 ただ、前の刀法の説明の時もそうでしたが、まだまだ当方自身の勉強が
足りていないところもありますので、話を丸のみにせず、
「大体こんなもんか」程度に読んで頂ければ重畳ー。


 さて以前、江戸柳生と尾張柳生のことについて述べた際、
尾張柳生は「刀法の尾張柳生」と称されている、と書いたわけですが、
これに対し、宗矩の江戸柳生がどのように称されたのか、といいますと、


          「心法の江戸柳生」


 というのが、その名となります。
むしろ、江戸柳生(というか宗矩)が「心法」を唱えたことが、
普通の剣術流派たる尾張柳生をして「刀法」の枕詞をつけさせたのではないかと。
それくらい、宗矩の唱えた「心法」というのは目を引いていたわけで砂。


 さて、その上で、なのですが、この江戸柳生の心法というものは、
元を辿れば二人の人間の思想に行き着きます。


 ひとつは宗矩の父、柳生石舟斎の「兵法百首」。
もうひとつは、三代将軍家光が師僧、沢庵宗彭の「不動智神妙録」です。


 今回は、この「江戸柳生の心法」の源流たる二人のうち、
石舟斎の「兵法百首」について書いてみようかと。


 そもそも、剣術は単なる戦場での実用技術だけのものではない、と称したのは、
実は宗矩が最初ではなく、遥か以前、室町時代初期からあった思想なので砂。
即ち、中条流の祖・中条兵庫頭長秀と、
天真正伝鹿取神道流の祖・飯篠長威斎家直であります。


 中条長秀は、自らの流派を「中条流平法」と称していました。
曰く、「平らかに一生事なきをもって第一と為す。戦いを好むは道に非ず」と。
つまり「兵法ではなく"平"法である」と言っていたわけで砂。


 飯篠長威斎は「熊笹の対座」という謎の術を使って、
立会いを希望する武芸者達を追い返していました。
具体的な中身は不明ですが、なんでも長威斎が熊笹の茂みの上に座ると、
笹は一本も折れもせず、まるで笹の上に浮いているように見えたので、
これは何事ぞ、と驚いた武芸者たちが戦わずして去っていったというので砂。
そして、彼もまた己の流派のことを「平法」と称していたそうです。


 つまり、二人とも己の剣術を戦のための実用術であるとする前に、
「兵法は平法である。平時の術であり、平和の術である」としていたわけで砂。


 しかし、彼らのこの思想も、その政治的立場の弱さや、
その後の戦乱によって剣術の実用性の面の優先度が上がり、
それによって派生した、より実戦的な諸流派の登場によって埋もれてしまいます。


 そして、戦乱の時代を越え、この二人の思想的後継者となったのが、
新陰流の流祖・上泉秀綱、そしてその後を継いだ柳生石舟斎宗厳でありました。
元々、新陰流自体が陰流だけではなく、上記の二流派のエッセンスも
取り入れた流派であり、また、秀綱の「活人剣」の思想や、
それを更に発展させた石舟斎の「無刀取り」の思想などによって、
石舟斎は「兵法(剣術)は単なる剣術に非ず」ということを軸に、
柳生新陰流の思想として纏め上げます。


 それがどういうものであるかについてですが、
石舟斎は、己の思想を語るに際し、歌を詠みました。


    これが「兵法百首」です。


 以下に挙げる歌が、石舟斎の思想の要点になるかと思われますので、
原文と意訳を並べて挙げてみようかと。
(意訳は当方の超訳なので「意味が違うよ!」というツッコミがあれば是非)


 まず、石舟斎の兵法歌といえば、最初に挙げられるのが、


 『兵法の かちをとりても 世のうみを わたりかねたる 石のふねかな』
 (意訳:剣術でいくら勝っても、世の中どうにもならんよね)


      r ‐、
      | ○ |         r‐‐、
     _,;ト - イ、      ∧l☆│∧   良い子の諸君!
   (⌒`    ⌒ヽ   /,、,,ト.-イ/,、 l
    |ヽ  ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒)  兵法が上手くなっても
   │ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /|  それで世渡りできると思ったら大間違いだ!
   │  〉    |│  |`ー^ー― r' |
   │ /───| |  |/ |  l  ト、 |  立合いに勝っても世の中どうにもならないぞ!
   |  irー-、 ー ,} |    /     i  勉強になったな!!
   | /   `X´ ヽ    /   入  |
  柳生石舟斎(イメージ) 柳生松吟庵(イメージ)


 この歌で砂。
これは、柳生庄という領地、及び、そこに住む一族に対する責任を
石舟斎が持っていたからこそ、という部分もあったと思いますが、
この時点で、既に、単なる実戦技術としての剣術、
単なる立ち合いの勝ち負けなどに対する無常観が浮かんでま砂。
作られた時期も相まって、これって単に石舟斎がヘコんでるだけじゃないの?と
思われがちですけど(まあ、そういう心情もあったでしょうけど)


 そして、そこに畳み掛けてくるのがこれらです。


 『兵法は 知りても知らぬ よしにして いる折々の 用にしたがえ』
 (意訳:剣術なんかひけらかすもんじゃないよ。
     その時々にあわせて具合のいい対応しなされ)


 『無刀にて きわまるならば 兵法者 腰の刀は 無用なりけり』
 (意訳:強まるだけ強まったらそもそも戦わないんだから刀なんぞ使わんよ)


 なんか剣術そのものを全否定するくらいの勢いであり、
そもそも剣を抜くような事自体、まだまだ未熟である、ってことですか喃。
ただ、あくまで「きわまるならば」なので、
その域に達するまで、厳しく長い修行がいることは否定してませんな。
単に「戦わない(戦えない)」ではなく「戦う必要がない」ことの実現の困難さと、
その領域に至った時の「活人剣」「無刀取り」があっての歌である訳で砂。


 ここまで読むと、まるで石舟斎が剣術を
全否定してるみたいに読めますが、まあ、そんなことはなくて、
こんな塩梅の歌も残しているわけですよ。


 『兵法は 浮かまぬ石の 舟なれど 好きの道には 捨てられもせず』
 (意訳:剣術なんかやってても世渡りの役に立たん事くらいわかってるけど、
    好きでやってんだよ。ほっとけ)


 『兵法や 腰の刀も 相同じ 朝夕いらで いることもあり』
 (意訳:剣術なんかそうそう使うもんじゃないけど、
     たまには使うかもしれんから修行はしとけ)


 前に、宗矩が剣術のために大ハッスルしてたのは、
「剣術とか!好きだから!」なんじゃなかろうかと書きましたけど、
この歌を見てると、宗矩のそれは、石舟斎のが移ったんじゃないか?
という気がしてきま砂。
もしそうなら、よっぽど楽しそうに見えたんですか喃。


 あと2つ目のは、剣術なんぞ世渡りの為にはそう役立つもんじゃないし、
役立っても多寡の知れたもんだけど、使うこともあるかもしれんから
修行自体は怠るな、という心掛けを説いてま砂。
なんにせよ、剣術の世間的な価値の低さを認めた上で、
なおやろうとするに際しての心積もりが読み取れる趣です喃。


 そして、これがキモなのですけど、
宗矩の思想の源流として、石舟斎のそれがある、と書いたわけですが、
それに対応する「治国平天下の剣」の原形とも言える概念を歌った歌があります。


 『世を保ち 国のまもりと なる人の 心に兵法 遣わぬはなし』
 (意訳:国を治める人こそ、心法として剣術を使いなされ)


 『調伏の 二字の心を 兵法の 極意と常に 工夫して良し』
 (意訳:煩悩を如何に抑えるか。これこそが剣術の極意と思えよ)


 宗矩の言う「治国平天下の剣」がどういうものであるか、
それは後に説明しますが、その概要たる「剣術を統治に応用する」、
「剣術の修行をもって精神修養に活かす」というものは、
既にここで石舟斎が示しているわけです。


 ここまで挙げたものからも分かる通り、
石舟斎の思想、即ち「剣術は単なる戦場での実用術ではない」は、
まさに宗矩の「活人剣・治国平天下の剣」の種子ともいえるものであり、
石舟斎がいてこその宗矩、と言えるであろうと。


 なお、念のため書いておきますが、上に挙げたもの以外にも数多くの歌があり、
その中には、普通に剣を使うに際しての心掛けなどを歌ったものもあり、
別に剣術や立ち合いを全否定してるわけじゃないのでご安心を。
たとえば、


 『仕合して 打たれて恥の 兵法と 心に絶えず 工夫して良し』
 (意訳:仕合で負けたくなかったら、常日頃から工夫しなさい)


 『兵法に 余流をそしるその人は 極意いたらぬ ゆへとこそしれ』
 (意訳:よその流派を馬鹿にするようなこと言ってる奴こそ未熟者なんだよ馬鹿)


 『新陰を 余流となすと兵法に 奇妙のあらば 習い訪ねん』 
 (意訳:よその流派にいいものがあれば、行って習ってきなさい)


 こんな塩梅でアリマス。割と腰が低いで砂。
この辺も含めて、原文の載ってるサイトがあったので、
もしよろしければご覧頂ければ重畳ー。


 【兵法百首(本文)】
  

 これらの歌は、石舟斎が柳生庄へ逼塞した期間に纏め上げられたものであり、
この時期、石舟斎直々に指導されていた宗矩も、この歌に示された
石舟斎の思想(=兵法観)の影響を大きく受けることになります。
石舟斎自身が試行錯誤してた時期に、その試行錯誤の様子を見ながら
薫陶を受けていたわけですから、影響は大きかったでしょうな。


 そして、若き日の柳生又右衛門宗矩は、
新陰流の修行の一環として禅寺へ赴き、修行を積んでもいました。
そして、そこで一人の若き禅僧と出会いました。


      これが後の沢庵宗彭であります。


                     あわてない、あわてない
                      一休み、一休み
         ,,-‐----‐、 , -'"` ̄ ̄"`''-,__, --‐‐-..,
        /  、゙ヽ、 ‐-'´          ヽ‐- / /   ヽ
      ,/´ .., ヽ,,l_)'    zェェェァ'  ;rfァt ヽ ,ト/ /    ヽ
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            ̄ /lr‐‐‐'--、_.....  l_,..-'''""'- "
               沢庵(イメージ図)


 てなところで、今回は終了。
次はこの沢庵という人物についての話と、
日本で初めて禅の側面から剣を語ったという書「不動智神妙録」について
あれこれ書いてみようかとー。