【柳生一族、そして宗矩】その28(終):過去と現代(いま)と未来と柳生但馬守宗矩

 さて、今まで延々書いてきた、この「柳生一族、そして宗矩」ですが、
今回を以って最終回でアリマス。
てなわけで、この最後のテーマとして、


 「結局、柳生一族と宗矩ってなんだったの?」


 という話をする事で、当初の疑問であった、


 「柳生一族、そして宗矩は何が特異だったのか?」


 に対する結論をまとめて、この長い話を締めくくろうかと思います。


■歴史における柳生一族、そして宗矩

 まず、先にも述べた通り、
柳生一族と宗矩、それぞれの特異性は以下のような塩梅なわけです。


【柳生一族の特異性】
 ・「無刀取り」に象徴される護身を目的にした技法と思想の確立
 ・卓越した剣士を一族・一門から短期間に大量に輩出した


【宗矩の特異性】
 ・一剣士の身から統治者(=惣目付・大名)に出世した
 ・剣と禅、能、政治などを統合して新しい概念を生み出し、剣の意味を変えた
 ・剣を社会体制に組み込んだ


 こうして見ると、それぞれ属人的な要素、
即ち、一族から大量に名剣士が出たとか、大名に出世したとかを除けると、
「柳生一族が歴史において果たした役割」が浮き上がってきます。


 それは、以降の剣術に「剣は護身のための術である」という属性を付与し、
また、社会に「剣の修行は武士として、人としての修養のためのものである」、
「刀は武士の魂であり、剣術は武士に欠かせぬものである」
という価値観と、
それに伴う社会制度の変革(武士の子弟は学問の他に剣術を学ぶことを)を与えた、
ということでアリマス。


 さて、ここに至って結論を言えば、


 「柳生一族、そして宗矩は、日本の剣の歴史にパラダイムシフトを起こした」


 これこそが、柳生一族、そして宗矩の特異性であった、ということなのです。


■剣のパラダイムシフト

 さて、宗矩が日本の剣の歴史にパラダイムシフトを起こした、と書きましたが、
実を言えば、日本の剣の歴史において、パラダイムシフトと呼べるものは
宗矩のものも含めて、少なくとも、3度は起こっているので砂。


 即ち、


 1:剣術の誕生−「関東七流と京八流。そして念流」
 2:剣術の思想化・社会化−「剣禅一如」
 3:剣術の普遍化・スポーツ化−「剣術から剣道へ」


 この3つでアリマス。
これより規模は小さいながらも、無視の出来ない要素も多々ありますが、
歴史規模で見た場合、パラダイムシフトと呼べるものはこの3つだけで砂。


 で、このうち、2の部分については今まで散々書き倒してきたことですから、
ここでは割愛して、この1と3のパラダイムシフトについて簡単に説明をば。



■剣術の誕生−「関東七流と京八流。そして念流」

 そのまんまで砂。
日本において「剣術」と呼ばれる技術・概念が確立した、ということです。


 『それまで個々の人間が経験として得ていたに過ぎなかった剣を使った動きを、
  系統立てて整理し、他者が学ぶことができるようにし、
  更にそれを「剣ノ術」という技術であることの概念を打ち立てた』


 これが、日本の剣の歴史における最初のパラダイムシフトです。
これがなければ、そもそも日本における剣の歴史というものは、
存在しなかった可能性すらあります。


 そして、これを成し得たものとして、最初に挙げられるのが、
「関東七流」「京八流」と呼ばれる謎の流派でアリマス。
「関東七流」は常陸(現在の茨城)の鹿島神宮の祝部(神官)、
国摩真人(くになずのまひと)なる人物が編み出したという「鹿島の太刀」と、
それを受け継いだ七人の祝部の家に端を発し、
京八流」は京の一条堀川にいた陰陽師、鬼一法眼が編み出し、
これを伝授した鞍馬山の八人の僧に端を発す、というのが大まかな説であり、
両流の成立は平安時代後半頃ではないかと言われておりますが、
詳細は不明なのです。


 実際、この「関東七流」「京八流」自体、今に伝わっていない為、
その流祖と言える国摩真人、鬼一法眼ごと、実在したのかどうかわからんのですよ。
特に京八流の場合、この八人の僧の一人が源義経である、なんて話もあって、
何処まで信じていいのやら、というところなので砂。
ただまあ、剣術という技術体系、及び概念自体は、
この頃にはあったであろうという推測自体は、それほど間違ってなさそうで砂。


 そして、時は下って14世紀後半、南北朝時代の頃、念阿弥慈恩を名乗る人物が、
実在が確認できる最古の剣術流派「念流」を打ち立てます。
ここから、「剣術」は確立し、念流を祖とする三大流派、
即ち、天真正伝鹿島神道流、中条流、陰流が生まれ、さらにそこから支流が発生し、
またそれとは別に新たな流派が誕生し…、となっていったので砂。


 てなところで、本来なら次になる「剣禅一如」をスルーして、
一気に3、剣術の普遍化・スポーツ化についての話をば。


■:剣術の普遍化・スポーツ化−「剣術から剣道へ」

 こちらは少し話が込み入りますが、
平たく言えば、


 『剣術が誰でも学べるものとなり、
  剣術をすること自体が目的化した』


 ということで砂。
これが3番目のパラダイムシフトであり、剣術の現状でもアリマス。


 さて、時代は一気に飛んで、幕末からの話になります。
宗矩が起こしたパラダイムシフトにより、剣は武士の学ぶ"道"と化し、
弓馬刀槍の四芸のうちでも、別格といっていい扱いを受けるようになったわけですが
時代が流れ、武士の困窮と商人の隆盛が進み、
武士の身分そのものが売買されるようになってくると、
当然のことながら、剣術もその影響を受けることになります。


 まず、武士が学ぶものであった剣術を、町人や農民も学び出すようになります。
これに伴い、昔ながらの剛直な流派や、逆に、平和な時代が続いたことによって、
秘伝が増えたことで複雑怪奇な技術体系を持つようになった流派は、
その人気を落とし、誰でも気軽に学ぶことができる流派が人気を博すようになります。


 それは、直心影流の長沼四郎左衛門国郷、中西派一刀流の中西忠蔵子武が発明した
竹刀や胴、面、小手の防具の発明に伴う試合稽古中心の流派であり、
そのような流派の隆盛の中で、ひときわ目立っていたのが、
北辰一刀流千葉秀作でした。


 千葉秀作の、そして北辰一刀流の特徴は、その合理性にありました。
簡単に言えば、従来ややこしかった部分を簡略化したり、再編したりしたので砂。
前者の場合、(北辰一刀流の祖となる中西派一刀流では)八段階あった段位を三段にし、
後者の場合、従来の技法を「剣術六十八手」としてまとめ直し、
簡単明瞭に教授した、という具合に、


 「誰でも簡単に学べて上達できる剣術(無論、従来と比較しての話ですが)」


 を編み出したので砂。
この簡単明瞭さは、以下をお読み頂ければ納得頂けるかと。


【剣法秘訣北辰一刀流 (千葉周作述) 第六節 剣術六十八手】
 

 これにより、北辰一刀流は江戸の三大道場の一つに数えられ、
また、ここから幕末の名剣士が数多く輩出されたことも知られている通りですが、
ここで打ち立てられた合理性は、後の大難から剣術を救うことに繋がります。


     そう、廃刀令です。


 元々、四民平等や国民皆兵に伴う武士階級の凋落によって、
当然、剣術流派の担い手(学ぶ方はともかく、教える方は大部分が武士)も
困窮していたところに、「刀を持ち歩くな」という直接的この上ない令であり、
維新の影響による西洋文化に比しての日本文化(即ち剣術含む)への蔑視を加速し、
剣術は従来無いまでに危機的状況に陥ります。


 これに対し、直新陰流の榊原健吉などは撃剣興行を行い、
生き残りの道を模索しますが、どうにも蟷螂の斧、という具合であり、
(それでも糊口をしのぐ一助にはなったようですが)
このままでは、というところで、思わぬ事態が発生します。


     そう、西南戦争です。


 この際の、西郷軍・政府軍両方の抜刀隊の活躍によって、結果論ながら、
剣術の有用性が証明される形になり、剣術は再評価されることになります。
そして、更に時を経て、明治二十八年(1895)には大日本武徳会が設立され、
更に明治四十一年(1908)、「体育に関する建議案」が帝国議会で可決、
学校において、剣術を学習項目の一つとなることで、剣術は一気に普遍化します。
この際、学習の基になったものこそ、北辰一刀流の「剣術六十八手」でした。


【全日本剣道連盟-歴史】


【剣道における「基本」という用語に関する研究】


 そして、大正八年(1920)、剣術は剣道として名を統合され、
更に敗戦を経て、GHQによる武道禁止令、刀狩を潜り抜ける為、
スポーツとしての側面を強調したこと、及び、戦後の日本において、
剣術の実戦における有用性に対する必要が薄れたことにより、
「剣術」は「剣道」となり、そしてまた、スポーツとして再度普遍化します。


 つまり、


 「何か(戦闘、統治、心の修養など)のためではなく、好きだからやる」


 となったわけで砂。
かつて、必要(戦闘での実用性、統治)があるからこそ修めていた剣術を、
「剣術がやりたいから剣術をやる」となったこと、及び、それが当たり前となったこと
これこそが、第3のパラダイムシフトなのでアリマス。


 てなところで、宗矩の起こした第2のパラダイムシフトの前後となる、
第1、第3のパラダイムシフトの説明をしたところで、
長かったこの話の最終結論、


    「柳生一族、そして宗矩は剣の特異点である」


 について語る時がやって参りました。


■「剣の特異点」柳生一族、そして宗矩

 さて、唐突に出たこの「柳生一族、そして宗矩は剣の特異点である」という話、
今までも、柳生一族と宗矩の特異性などについては散々語ってきたことではありますが
なおかつ、ここで更に持ち上げるのは何故なのか、


 それは、この第2のパラダイムシフトが、
第1、第3のパラダイムシフトと比較しても、なお特異だからです。


 上に述べた第1、第3のパラダイムシフトと比較し、
この第2のパラダイムシフトには、他には無い特徴が2つあります。


 1:社会的価値観そのものを変革した
 2:パラダイムシフトの中心点が明確である


 ということです。


 つまり、第1、第3は、あくまでも剣術に限定されたパラダイムシフトであり、
剣術を越えた社会全体や歴史そのものへの影響はほぼありませんでした。
そして、そのパラダイムシフトを起こした中心点はなにか、という点においても、
第1は謎であり、第3も「特定の誰が中心か?」となると議論百般するでしょう。


 しかし、第2のパラダイムシフト、
即ち、宗矩の起こした「剣術の思想化・社会化」は、
剣術そのものの変質のみならず、当時の幕藩体制化における武士の在り方を規定し、
また、「葉隠」「武士道」に繋がる武士の思想の一つとしても、
大きな影響を与えています。


 そして、この第2のパラダイムシフトは、
誰が中心にいたのかが、あまりにも明確なのです。
そう、


    柳生但馬主宗矩」


 彼をおいて他にありません。
即ち、


 「柳生一族、そして宗矩の起こしたパラダイムシフトは、
  剣のみならず、日本の歴史にも影響を与えた」


 ということであり、
宗矩が剣の歴史において、


    「宗矩以前」
    「宗矩以降」


 という基準点、あるいは特異点となった、ということで砂。
これこそが、柳生一族、そしてその中でも更に特異である宗矩の、
真の特異性である、ということなのです。


 まさに「剣の特異点でアリマス。


 そりゃー目も引くわ、と。


 てなわけで、この結論に至ったところで、
長かったこの話も、これにて終了とさせて頂きます。
ありがとうございました。




                   「柳生一族、そして宗矩」 完