【柳生一族、そして宗矩】その22:柳生但馬守宗矩(10)「心法の江戸柳生:解説・兵法家伝書(2)「活人剣(かつにんけん)」」

 さて、当初の予想以上に長くなってしまいましたが、
今回で「江戸柳生の心法」について締めるでありますよ。
てなわけで、「兵法家伝書」の最後の一篇「活人剣(かつにんけん)」の説明と、
まとめをばー。


■「活人剣」


 殺人刀と比して、内容的にまったく違うことが書いてあるわけではないです。
基本的に言ってることは同じなのですが、ポイントとなるのは、
やはり最後の方にある「無刀之巻」で砂。


 最初の方で「柳生新陰流の特異性は無刀取りにあり」と書いたわけですけど、
その特異性が、更に柳生一族最大の特異点たる宗矩の手に掛かった時、
一体どうなってしまうのか、そこが見所のひとつでアリマス。


 てなところで、お楽しみはもう少しだけお待ち頂いて、
先に、それ以外の箇所での「活人剣」の項目の抜粋と概要を。


『百様の構えあり共、唯一つに勝つ事。
 右きはまる所は、手字種利剣、是也』

概要:構えなんかいくらあっても関係ないよ。
   相手の動き読んで、それに合わせりゃいいんだ。
   そうすりゃ相手がどう動こうが対応できる。
   「相手の手の内を読む」これが大事なの。


『一去と云ふ心持の事』
『空の心持の事』
『棒心の心持の事』

概要:あれこれの悩みや執着をまとめて吹っ切って、
   相手が何を考えてるのかだけ見抜くことに集中しろ。
   相手の考えが見抜けりゃ、どう動くかもわかるでしょ?
   まあ、そこまで至るのはそう簡単にできることじゃないから
   だからこそ禅をやりなさい禅を。


 「無刀之巻」までで要点になるはこの2つで砂。
なお、『手字種利剣〜』の後には「有無の拍子」「水月」「神妙剣」「是極一刀」とか
あれこれカッコイイ言葉が入るのですけど、その辺を書くとますます延びるので、
今回はスルー(まあ、個別の剣術技法を統治に応用する際の心得、てな内容で
アリマス)。
いずれ現代語訳「兵法家伝書」でもやるべきなんでしょうか喃。


 さて、お待たせしました。
ようやく「無刀之巻」のところまできましたので、
宗矩が言う「無刀取り」とは何ぞや、というのがわかるものを
抜粋&意訳するでアリマス。
ちょいと長いですけど、面白い部分でもありますので。


【無刀之巻】


『無刀と云は、人の刀を取ル藝にはあらず、諸道具を自由につかわんが為也。
 刀なくして人の刀をとりてさへ、我が刀とするならば、
 何か我が手に持て用にたたざらん。
 扇を持てなりとも、人の刀に勝べし。無刀は此懸りなり。かたなもたずして、
 竹杖ついて行く時人寸のながき刀をひんぬいてかかる時、竹杖にあしらひても、
 人の刀を取り若し又必ずとらずとも、おさへてきられぬが勝也。
 此心持を本意と思ふべし』

(意訳:無刀取りってのは、別に刀取ることじゃないんだよ。
    杖でも扇でも何使ってもいいから、斬られないように持ち込めばいいんだよ。
    とにかく斬られなきゃいいんだよ。それが大事なの)


『無刀とて、必しも人の刀をとらずしてかなはぬと云ふ儀にあらず、
 又刀取て見せて是を名誉にせんにてもなし。
 我が刀なき時、人にきられじとの無刀也。
 いで取て見せるなどと云事を、本意とするにあらず』

(意訳:なんか誤解あるみたいだから言っとくけど、
    無刀取りって刀取ることじゃないよ?
    要は獲物が何も無い時に斬られないためにやることが無刀取りなんだよ。
    だから、無刀取りなんかわざわざ自分からやるもんじゃないよ)


『とられじとするを、是非とらんとするにはあらず、
 取られじとするをば、とらぬも無刀也。
 とられじとられじとする人は、きらふ事をばわすれて、
 とられまいとばかりする程に、人を切ル事ばなるまじき也。
 我はきられぬを勝とする也。人の刀を取るを、藝とする道にてはなし。
 われ刀なき時に人にきられまじき用の習也』

(意訳:大体、別に無刀取りってったって無理に取らなくていいんだよ。
    向こうが無刀取り警戒して、斬りかけてこなけりゃそれでもいいんだから。
    こっちは斬られなきゃ勝ちって思えばいいんだよ。
    大体、見世物じゃないんだから刀なんかわざわざ取ってどうするの?
    馬鹿なの?死ぬの?
    刀がない時、斬られない為の技なんだよ、コレは)


『無刀は取る用にてもなし。人をきらんにてもなし。
 敵から是非きらんとせば、取るべき也。
 取る事をはじめより本意とはせざる也。よくつもりを心得んが為也。
 敵と我が身の間何程あれば太刀があたらぬと云事を、つもりしる也。
 あたらぬつもりをよくしれば、敵の打太刀におそれず、
 身にあたる時は、あたる分別のはたらきあり。
 無刀は刀の我が身にあたらざる程にはとる事ならぬ也。
 太刀の我が身にあたる座にて取ル也。きられてとるべし』

(意訳:なんか何回も言ってるけど、わざわざ刀なんか取らなくていいんだよ。
    要は斬られなきゃいいんだから、それこそ離れてたら済むだろ?
    それでも向こうが斬ってき時だよ。刀取るのは)


『無刀は人に刀をもたせ、我は手を道具にして、仕合をするつもり也。
 しかれば刀は長く手はみぢかし、敵の身ぢかくよりて、
 きらるる程にあらずば、成間敷也。
 敵の太刀と我が手としあふ分別すべきにや。
 さあれば、敵の刀は我が身より外へゆきこして、
 われは敵の太刀の柄の下になりてひらきて、
 太刀をおそふべき心あてなるべきにや。
 時にあたつて、一様にかたまるべからず。
 いづれも身によりそはずば、とられまじき也』

(意訳:もし、無刀取りする羽目になったら、無刀じゃなくて、
    自分の手を道具として持ってるつもりでやれ。
    で、手は刀と比べたら短いから、やるなら敵の懐に飛び込め。
    あと変に集中すんなよ?無心だ無心)


 如何でしょうか。
これが、柳生石舟斎直々に柳生新陰流印可を受けた達人、
将軍家剣術指南役・柳生但馬主宗矩の説く「無刀取り」でアリマス。
「実も蓋もない」とはまさにこのことでありま砂。
剣禅一如とかいう単語の持つ精神的なイメージが一瞬で崩壊するくらいの
合理性の塊みたいな思想でアリマス。


       、--‐冖'⌒ ̄ ̄`ー-、
     /⌒`         三ミヽー-ヘ,_
   __,{ ;;,,             ミミ   i ´Z,
   ゝ   ''〃//,,,      ,,..`ミミ、_ノリ}j; f彡  如何なされたのでござるか○○殿?
  _)        〃///, ,;彡'rffッ、ィ彡'ノ从iノ彡
  >';;,,       ノ丿川j !川|;  :.`7ラ公 '>了  武芸者が立ち合いをしつこく挑んでくる?
 _く彡川f゙ノ'ノノ ノ_ノノノイシノ| }.: '〈八ミ、、;.)
  ヽ.:.:.:.:.:.;=、彡/‐-ニ''_ー<、{_,ノ -一ヾ`~;.;.;) ○○殿
  く .:.:.:.:.:!ハ.Yイ  ぇ'无テ,`ヽ}}}ィt于 `|ィ"~
   ):.:.:.:.:|.Y }: :!    `二´/' ; |丶ニ  ノノ  それはまともに断ろうとするからでござる
    ) :.: ト、リ: :!ヾ:、   丶 ; | ゙  イ:} 
   { .:.: l {: : }  `    ,.__(__,}   /ノ   逆に考えるのでござる
    ヽ !  `'゙!       ,.,,.`三'゙、,_  /´   
    ,/´{  ミ l    /゙,:-…-〜、 ) |        「逃げちゃってもいいさ」と
  ,r{   \ ミ  \   `' '≡≡' " ノ  
__ノ  ヽ   \  ヽ\    彡  ,イ_           考えるのでござる
      \   \ ヽ 丶.     ノ!|ヽ`ヽ、
         \   \ヽ `¨¨¨¨´/ |l ト、 `'ー-、__
            \  `'ー-、  // /:.:.}       `'ー、_
          `、\   /⌒ヽ  /!:.:.|
          `、 \ /ヽLf___ハ/  {
              ′ / ! ヽ
     「柳生宗矩、無刀取りを語る」(イメージ図)


 方向性変えたら、


 「刀で敵が倒せない?じゃあ人数集めてかかれ。
  それでダメなら銃でも弓でも使え。数が足りなきゃ増やせ。
  それでダメならどこかに追い込んで火でもつけろ。
  それでもダメなら家族探して脅せ。要は倒せばいいんだよ、倒せば」


 とか言い出しかねないくらいの合理性っぷりで砂。
素晴らしい。


 とにかく、これからの太平の時代に対応した剣術とはなにか、という思案が
立ち合いの面に表れた時、「立ち合い(の価値)を否定する」という結論に至った上、
それを書いちゃう&上様に提出してしまうのが宗矩の宗矩たるところであり、
まさに面目躍如でアリマス。
実際、ここまでストレートに立ち合いの価値を否定してる剣士ってのも珍しいで砂。
これじゃ立場を別にしても、宗矩が立ち合いに応じないのも当然かと。


 これ読んで、「…なんか卑怯じゃね?」とか言う家光に対して、
「立ち合いの勝ち負けに執着するなど将軍家のなさることはでございませぬ。
 そのような小なる兵法は将軍家には相応しくございませぬ。
 家光様には是非とも大なる兵法を修めて頂きたく」とか説教モードに
入ったに違いなかろうなと。


 ちなみに、この無刀取りに直接関連する話の後、更に話が続きまして、


『大機大用』
概要:考えを「機」と言い、実際の動きを「用」と言うんだが、
   これが極まって、何をするにも道理に叶うような状態を
   「大機大用」って言うんだよ。
   そうすりゃ習ってない事だって勝手に出来るようになるよ。
   まあ、そうなるには、常々己の心を見つめる必要があるんだけどね。
   そういう積み重ねがないと、そういうことはできないよ。


『兵法の、仏法にかなひ、禅に通ずる事多し』
概要:兵法は仏法に相応しいもので、禅にも通じるところが多くある。
   特に、ひとつの物事に心が執着することを忌む点がそれで、
   これに陥ると、どんな秘奥義を持ってても無駄無駄。
   だから、執着を避けるための心の修行が大切なんだよ。


『胸を空虚になして、平生の何となき心にて、所作をなす。
 此位にいたらずば、兵法の名人とは難言也』

概要:どんな時も普段のままの心でいて、そのように動く。
   それができて初めて名人って言うんだよ。
   まあ、ウチ(柳生家)は兵法の家だから兵法で話したけど、
   こんなもん、別に兵法に限った話じゃなくて、
   なんにしたってそうなんだよ。


 と、いうところまで述べて、「活人剣」も終わります。
流石に全部はなかったのですが、「無刀之巻」のところだけ載せてるサイトが
あったので、そっちもご覧頂ければ重畳ー。


 【兵法家伝書(無刀巻全文)】


 なお、このあと、あとがきが入るのですが、そっちでは本編の話とは裏腹に、


「いや、五十越えて親父(石舟斎)の考えてたことがやっとわかってきたので、
 ちまちまメモっといたのをまとめてみました。うん、これこれ!」


                 |     う
                 |     ん
                 |      、
         , -‐ '三ヾ、∠三z|     こ
     ,. '三三三三三r三三|       れ
.  ∠三三三三三三三!モ三|       こ
  Z三三三三三三三三|ヒ三|     れ
  〉三三ヲ´77'´77  ̄ ̄ ̄`|     !
  '.三「   〃 〃       |
   '.三}  ,.厶‐ナ‐- , -─-└┬────
   '.三〉 r=ニニユ   r=ニニユ レニヽ
  ,.- V    ィfエヌ 、 , rァエラ   |)j /
  !に>'.                  | '/
  ヽ. ゝ'.                 レ'
    `ヽ'.     〈     〉    |
        '.   、 `ー‐ ' ,. -'  /- 、
    厂.∧    ̄`ニ´    /、  ヽ
  ,. ‐7 〈 { \         / !   ヽー 、
'´  /   '. \`ヽ、_____/  l    ヽ
  /    '.  ` ー 、__,. '´    l     ヽ
. /      ,. -‐ 、 //∧     |      ヽ
     _/  i   VV///\  /-<ー─‐- '
== /  、`ー┴、 i 〉〈   ∨   〉
.  /   、  ̄ヽ  !厶 、ヽ  /   /
 /  、 丶 | i  } 、\! /   /
./    `} | / r/.,イ \\l′  /
     (__.ノ_/`´ /.ト、\\!   /
   「柳生宗矩、道の滋味を得る」(イメージ図)


 という具合に、割と生の宗矩の言葉が入ります。
「親父(石舟斎)はえらかったなー」みたいなことを書いてたりしてるので、
謙虚なのか自分ちの自賛してるのかよくわからんのですが、
とりあえず、石舟斎をリスペクトしてるのだけはよくわかるでアリマス。
ちなみに、本編の方で禅絡みの話が出る時「法の師」とか「善智識」とか
そういう呼び名で沢庵を引き合いに出してます。
まあ、この両者の影響が如何に強かったか、ということで砂。


 さて、一通り書いてきましたが、これが「兵法家伝書」であり、
宗矩の主張する「活人剣・治国平天下の剣」の中身でアリマス。
今までお読み頂ければ分かる通り、ここから読み取れるのは、


  「戦乱の時代の剣術から太平の時代の剣術への変換」


 を目指す宗矩の意思でアリマス。
即ち、


       「俺が剣を変えてやる!」


 ということで砂。
俺が強いとか優れてるとかじゃなくて、変えてやる、という意思、
これこそが、宗矩の思想の根源であるわけで砂。
そういう意味では、


     兵法家伝書とはコンバータ(変換機)である


 と言えるのではなかろうか、と。
(厳密にはその中の「活人剣・治国平天下の剣」という概念が、ですが)


 まあ、長くなりましたが、これが「江戸柳生の心法」でアリマス。
厳密に言えば「柳生宗矩の心法」で砂。
(この辺の詳細は後にまた)


 実戦技術としての剣術から完全にかけ離れたシロモノであり、
反面、剣術の持つ、実戦技術以外の要素の終着点にして、
新たなる出発点であるといえます。
また、「剣術」と「禅」と「政治」の思想的合流点でもあります。
その意味でも、これは宗矩の特異性の表れの象徴ともいえます。
当時、この三要素を兼ね備えた人物は、宗矩しかいなかったわけですから。


 当然、従来の剣術の価値をほぼ否定(というか相対的に卑小化)したことへの
反発も大きく、例えば、宗矩の高弟の一人、鍋島忠利の父、忠興(ガラシャの旦那)は


  「新陰は柳生殿(宗矩)よりあしく也申候」


 という具合に批判してたりもしてま砂。
しかし、それでも、この思想は広く伝わり、後の世にも影響していくのでアリマス。

 さて、それでは次は、宗矩以外の江戸柳生の人々についての話をば…、
と思ってたのですけど、話のタイミング的にそろそろかな、というところなので、
次回は例のアレ、


  のび太ドラえもん!どうして宗矩は暗黒野郎なの?」


 を挙げる所存でアリマス。
ふむん。


※ 先に次回の元ネタを紹介しておきます。
 こちらのび太「ドラえもん!どうして〜」シリーズを参照をば。