【柳生一族、そして宗矩】その26:「第三の柳生」仙台柳生

 さて、前回でやたらに伸びた宗矩と江戸柳生家の話も終わりましたが、
今回は、「第三の柳生」と題打った、宗矩の江戸柳生、利厳の尾張柳生以外の
「もうひとつの柳生家」についての話と、
柳生一族とは異なる「柳生一門」の話をしようかと。


 …と、思ったのですが、書いてみたらやたらな長文になってしまったので、
今回は「第三の柳生」の話だけにしようかと。
「柳生一門」は明日、別に挙げます。


■「第三の柳生」仙台柳生

 柳生家には、江戸柳生と尾張柳生の二つがある、とは既に書いた通りですが、
実はもうひとつ、柳生一族の家があるので砂。


 その名は仙台柳生。
仙台伊達藩五十五万石で剣術指南役として伊達政宗に仕えた柳生権右衛門の家です。
…まあ、この「仙台柳生」ってのは通称というか、全然正式名称じゃないのですが、
わかりやすいので使ってみただけです。すいません。


 さてこの権右衛門は利厳の弟、即ち、石舟斎の孫です。
(正確な名は不明で、厳倚(よしより?)とも厳重とも言われているのですが…)
長男厳勝の三男であり、血筋で言えば、これも宗矩の甥であり、
十兵衛の従兄弟でありま砂。
この権右衛門も、何気に石舟斎直々に教えを受けており、
免許も貰っているのでアリマス。
つまり、技量的には十分なものであっただろうと。


 石高については不明であり、百石とも七百石とも言われてま砂。
また、逸話の類もなく、というか、全然記録が残ってなくて、
途方に暮れるものがあります。
(ただ、探ってみたらこの権右衛門の子孫を名乗る人が出てきてちょっと吃驚)
なお、後に仙台には柳生四高弟の一人、狭川助直(新三郎?新左衛門と
同一人物か不明)も来て、新陰流狭川派を開き、これによって新陰流は
伊達家の御流儀となった、と言われております。


 ちなみに、後に仙台には柳生心眼流という流派もあるのですが、
発祥についての関係性は不明なものの、流祖竹永隼人が宗矩に新陰流を学び、
そこから発祥したとか、一部流派では、流派の発祥そのものには関係ないけど、
法祖に十兵衛、流祖に荒木又右衛門を奉っており、
影響を受けている、としているところなどもアリマス。
(他にも、心眼流のルーツは中国武術にあり、としてるとこもあって、
 面白いでアリマス)


 【柳生心眼流】


 【荒木堂(柳生心眼流)】


 【柳生心眼流の謎(心眼流中国武術説)】
 

 あと、余談ですが、仙台にも「柳生」という住所がありま砂。
何か関係性でもあるんでしょうか喃。


 【「仙台 柳生」-google】
 

 もひとつ余談を重ねますが、「十兵衛ちゃん2」の北柳生のモデルって、
もしかしたらこの権右衛門の一門のことかもしれんです喃。
あれは柳生家の影響力の要因たる一族の流派を、何故か宗矩が焼き討ちするという
相当不思議な脚本だったのですけど、まあ、シベリア柳生の時点で、
そういうことを言うのは野暮で砂。


 さて、斯様なわけで、柳生の家は、この三家(江戸、尾張、仙台)になります。
これが、石舟斎を祖とする「柳生一族」の全てです。
(あとは宗章や純厳のように討死か、久斎、徳斎のように出家しているかなので)


 しかし、話を「一族」に限定しないのであれば、
柳生は更にその数を増してしまうので砂。
即ち、「柳生一門」でアリマス。


 てなところで、今日はここまで。
ちょっと短めですけど、その分、明日のテキストが
やたら長文になるので、ご容赦ください。
ではー。

【柳生一族、そして宗矩】その25:柳生但馬守宗矩(13)「江戸柳生の人々(3):その後の江戸柳生」

 長々と書いてきましたが、
今回でようやく江戸柳生家、そして宗矩の話も終わりです。
ちょうど1クール分で砂(まあ、ナンバリングしてない分もありますが)


■宗冬以降の江戸柳生家

 さて、話は本題に移りますが、
宗冬以降の江戸柳生家は、端的に言えば、パッとしません。
理由は2つ。


 1:宗矩の直系が途切れた
 2:将軍家に剣術を指南しなくなった


 なんかどっちも江戸柳生家の存在を根本から覆すような話ではありますが、
宗矩が、あるいは(宗矩の直接の薫陶を受けた)宗冬が亡くなった時点で、
ある意味、江戸柳生家は既にその役目を果たし終えた、と言えなくもないので、
もうただの大名家になってしまった、ということなのかもしれません。


 結論を書いてしまったので、簡単にまとめますが、
宗冬には二子があり、兄が宗春、弟が宗在といいました。


 このうち、兄の宗春は、父や祖父に並ぶと言われるほど剣才に恵まれ、
また、性格も「人鑑(模範青年)」と称えられる程の人物だったのですが、
厳勝、純厳、十兵衛、清厳など柳生家の代々の長男と同じく、
家を継ぐことなく、延宝三年(1675年)に早逝してしまいます。
死因は病死だそうです。享年27歳。


 そのため、宗冬の跡を継いだのは、次男の宗在でした。
後に対馬守となり、六代将軍家宣の剣術指南役を勤めた後、
元禄二年(1689)に亡くなります。
享年36歳。これも早逝で砂。


 宗在の跡を継いだのは、宗春の息子、俊方でした。
俊方が家督を継いだのはまだ14歳の時です。
後に備前守となり、享保十五年(1730)、亡くなります。
享年58歳。


 さて、俊方には家を継ぐ子供がおらず、
これにより江戸柳生家の宗矩の直系は絶えてしまったため、
(厳密には、宗在の子や俊方の弟がいたのですが、
 二人とも三田藩九鬼家の後嗣になっているので砂)
以降の江戸柳生家は、全て養子によって相続されていきます。
最初の養子は松平家の定重(のちの越中守)でアリマス。
これで、せめて剣術の腕を理由に選んでいたのであれば、
まだ剣術指南役としての矜持も保たれていたであろうに、というところなのですが、
困ったことに、その辺は不明なので砂。


 何故なら、先ほどの俊方の記述では、わざと書きませんでしたが、
宗在以降、江戸柳生家は剣術指南役ではなくなったためです。


 何故、江戸柳生家が剣術指南役ではなくなったのか、その推測は後述しますが、
実際、8歳で亡くなった七代家継はともかく、次の八代吉宗ならば、
剣術指南として召し出されたであろうと想像するところなのですが、
史料によると、特に吉宗相手に剣術指南をすることもなく、
たまに剣技の上覧をして、服を下賜された、とあるくらいなので砂。


 そんなわけで、剣術指南役としての江戸柳生家は、
宗在が亡くなった時点で終わったものと考えてよろしいかと。
(一応、飛び飛びで指南役となった当主も出たようですが)


 ただ、「じゃあ、柳生は江戸時代を通じての将軍家剣術指南役じゃなかったの?」
というと、これが実はさにあらず、なので砂。


  江戸柳生家は剣術指南役ではなくなりましたが、
 柳生は相変わらず将軍家剣術指南役だったのです。


 これが、先ほど書いた「江戸柳生家が剣術指南役でなくなった理由」に
繋がるお話なのでアリマス。


■「もうひとつの江戸柳生」村田柳生

 宗在には、一人の弟子がいました。
名を、村田十郎右衛門久辰と言います。
柳生四高弟の一人、村田与三と苗字が同じなため、直系では、とも言われてますが、
その辺の詳細は不明です。
ただ、相当な腕前であったらしく、正徳二年(1712)、
俊方は(宗在の後の)家宣の剣術指南役として、この村田久辰を挙げています。
ここで推測できるのは、俊方は剣術の腕は今ひとつであり、そのために、
前当主の弟子のうち、最も技量に優れた者を自らの替わりとした、ということで砂。


 そして、ここからが肝心なのですが、
この一件で、久辰は俊方より柳生姓を名乗ることを許され「柳生久辰」となり、
江戸柳生家とは異なる旗本の柳生家を興すことになります。


  これが世に言う「村田柳生」です。


 つまり、大名家の柳生家は剣術指南をしなくなったけど、
それとは別の柳生が剣術指南をしていた、というわけで砂。


 ちなみに余談ですが、後の天明四年(1784)、田沼意知の刺殺事件時、
犯人の佐野政言脇差を打ち落としたのは、当時、目付をやっていた久辰の曾孫、
柳生主膳正久通であった、というネタがあったりします。
なお、この久通、後に勘定奉行となり、
その就任期間は歴代最長(28年強)だったそうでアリマス。
(息子に卍兵…ゲフンゲフン)


 あと、更に余談を重ねますと、
大名の柳生家の方の十一代目の藩主として養子になったのは、
田沼家より入った意次の孫、俊能でアリマス。
因縁ですかね。


 そんなこんなで、結果的に江戸柳生家は、太平の江戸時代において、
ただ藩と流派の命脈を保つことに終始する結果になりました。
そして、柳生新陰流そのものも(他流試合を禁じられた)御流儀であることが災いし、
尾張柳生家と異なり、剣術流派としては完全に時代に取り残されます。


 そして、時は幕末を迎えます。


■幕末の江戸柳生家

 幕末の時代には、ご存知の通り、多数の剣客が登場しました。
北辰一刀流、天然理心流、示現流神道無念流直心影流鏡新明智流
多彩な流派が名を連ね、名剣士も続々と輩出されていましたが、
その中には、柳生新陰流も、柳生の姓を持つ剣士もいませんでした。


 事実、幕府が設けた講武所において、
教授方として名を連ねたのは、直心影流の男谷精一郎を筆頭に、
同流の榊原鍵吉や心形刀流の伊庭秀俊など、いずれも当時名高い剣豪ばかりでしたが
その中にも、柳生新影流の剣士の名は見当たりません。


 柳生は、より厳密に言えば、大名の江戸柳生家は、
剣の世界からはとっくに時代遅れの存在に成り果てていたのです。


 そのような状態の中、この江戸柳生家、もとい、柳生藩で起きた事件があります。
これが「紫縮緬事件」です。


 簡単に説明すると、当時の時勢を受け、
柳生藩も佐幕か勤皇かで大きく揺れていました。
このうち、問題をややこしくしたのは、柳生家が定府大名の家であったことです。
つまり、参勤交代の無い、当主がずっと江戸にいる大名家ということで砂。


 そのため、柳生藩では、江戸詰の藩士と、国詰の藩士の間に、
他藩以上の溝がありました。
これは当然、この佐幕勤皇の議論にも影響します。


 京に近い柳生庄にいる国詰の藩士達は、時勢を見て勤皇寄りに、
江戸詰の藩士達は当然のように佐幕側です。
こうして柳生藩も例に漏れず、どちらにつくかで大揉めに揉めます。
更に、定府大名であるが故に、藩主が国許へ戻れず、
両方の話を満足に聞けないことも状況の悪化につながります。


 そんな具合に藩論が決着しない中、遂に王政復古令が出されたことで、
全藩主が召集を受け、当時の藩主俊益も京へ向かうことになりました。
それに従い、江戸詰の藩士達も供となり、帰国します。
この際、江戸詰藩士達は藩論の統一の為、
国詰藩士達を「説得」にかかろうとしました。


 この「説得」には、当然のことながら、刀が使われる訳で、
その際、斬った後の血糊を拭う為、刀の鍔に巻いた紫縮緬を使う、ということから、
対立する国詰藩士を斬る隠語として「紫縮緬を用いん」と称したことが、
この事件の名前の由来でアリマス。


 まあ、江戸柳生家が完全に形骸化したことのわかりやすい象徴で砂。
ここで刀を使うという選択はない、と言うのが
宗矩の「活人剣・治国平天下の剣」のはずだからです。


 なお、この事件の結末ですが、偽文書(藩主暗殺計画書)による讒訴で、
国詰家老を追い込もうとした江戸詰藩士達でしたが、逆にその偽文書を利用され、
藩主暗殺の首謀者にされてしまい、慶応四年(1868)二月、
江戸詰藩士達9人は「藩主の命により」殲滅されてしまいます。
ああ黒い。


 結果、藩論は統一、勤皇に与することとなった柳生藩は、明治維新をやり過ごし、
その後、柳生藩は柳生県に、柳生家は柳生子爵家となりました。
そして、柳生県は奈良県に統合され消滅、
柳生子爵家は戦前まで残っていたようですが、その後の詳細は不明です。
(子孫の方はおられるので、家は残っていたのでしょうが)


 さて、ここまでが宗矩の、そして江戸柳生の話です。
なんだか予想以上に長くなってしまいましたが、
これで、長かった宗矩についての話も一段落、ということになります。
如何なものでしたでしょうか?


 さて、次は、江戸、尾張以外の柳生、
言うなれば「第三の柳生」について書くでありますよー。

【柳生一族、そして宗矩】その24:柳生但馬守宗矩(12)「江戸柳生の人々(2):友矩、宗冬、列堂」

 さて、宗矩を祖とする江戸柳生家の人々について語るこのお話、
前回は十兵衛だけで1話使ってしまったので、今回は残り三兄弟をまとめて紹介。


  次男:柳生刑部少輔友矩
  三男:柳生飛騨守宗冬
  四男:柳生義仙列堂


 これら3人の話をしていくでアリマスよー。


 てなわけで、まずは宗矩の次男にして、
柳生随一の美形、と謳われた友矩の話から。


■「美人薄命」柳生刑部少輔友矩

 慶長十七年(1612)、十兵衛より年後に友矩は生まれました。
幼名は左門。宗矩42歳の時の子で、十兵衛、宗冬と違い、妾腹と言われていますが、
実際、誰が母親であるか不明なので砂。
一部では、母親は列堂と同じく近隣の農家の娘、お藤であると言われているのですが
一説には、若い頃の宗矩が出入りしていたという烏丸少将の娘こそが
友矩の母ではないか、とも言われており、この辺は謎でアリマス。
(石舟斎の遺言状に"おはねのひいさまの屋敷"なる言葉があり、
 これがその事を指しているのでは、と言われてますが…)


 ともあれ、正妻腹の兄、十兵衛がいる以上、
妾腹の友矩は陽の目を浴びることもなく終わる可能性もあったわけですが、
寛永四年(1627),宗矩は友矩も家光の近習として城へ上げます。
前年、家光の勘気により、十兵衛が致仕したのも一因だったと思われます。


 ここで友矩の運命は大きく変わります。


 家光は一説によると衆道の趣味があり、
美形の寵童を複数持っていた、と言われているのですが、
その中に、友矩が含まれていた、というので砂。


 実際、寛永十一年(1634)の家光入洛参内の際、家光は徒歩頭として友矩を抜擢、
その後、山城にて友矩を従五位下刑部少輔に叙し、友矩個人に二千石を与えます。
位階だけなら父たる宗矩と同格ですよ。


 ここでどのような経緯があったのか、推測はいくらでも出るわけですが、
柳生家どころか幕府内でも随一の美形と呼ばれていたこと、
そしてあまりにも早すぎる昇進を考えると、やはり、俗に言う


      「尻一つで!(bySAMON)」


 ということがあったのではないかなあ、と思われても仕方ないのではと。


     )                      ィ─;;;-..-..--、〈
     )                   ,,...-= ̄ ̄ /::::::::::::::〈
友 あ  )                  /       ̄ヾ::::::::::/ 上 某 今
矩 あ (_ヽ:r‐'、  ___       /          |::::::::::,'.  様 の 度
よ あ  /〉‐‐r '´      `丶    /     _     |::::::::::{.  ! 番 は
・  っ  (:::::::::::ヽ         ヽ  |_.. -'_"-'´   r'⌒ヽ::::::::{     で 
・  !!   )::::::::::::::::::ヽ        '、 ゙i`'''Tjフ    } ミトー:::::::}     す
・    (:::::::::::::::::::::/  ’- 'ノノ 冫=} ,' ,.‐'"    { {い) /::::::ノ_     ぞ
Vヽハj⌒:::::::::::::::::/〃ー_''ニ ,、:: {ニ'”,'        ゞ゙ f クァ ―`‐- 、.._,、-'´
   l.:::::::f⌒ヽ::::l ”´-'' "    `、 ',〈.、,..        ,.‐'´      `' 、``丶、
    i、::i ⌒>:::!   l!   r, ノ  l  )__.. -ァ   /
    i:::::\((::::!   lj  , ‐--.ィ. !   Y´_   ./   \    \\
     `、:::: こ、:i.      {    j. i j  ゙i゙   {     \    \\
      ヽ:::リ `'.    `_'二. ,' /ノノ  丶、,、イ       \    \\
       V    ヽ       /         {        \    \\
                   若竹る二人(イメージ図)


 ただ、『玉栄拾遺』に「性質無双文才に富み、又新陰の術に長じたまう」、
「時の人称して曰く、後必ず股肱の臣たるべし」とまで言われていたことを考えると
一概にそれだけと言い切るのも難しいのですが、この話に対応するかの如く、
家光が、友矩を四万石(一説には十三万石)の大名にする書付を与えた、
という話もあり、真実は謎のままでアリマス。


 ただ、家光との関係がどうあれ、史実によると、
その後、友矩は「病を得て致仕」し、兄・十兵衛と同じく柳生庄へ逼塞した後、
寛永十六年(1639)、「病死」します。
享年27歳。


 …なんというか、あまりにもタイミングがタイミングなので、
後々まであれこれ言われる話となり、宗矩暗黒説の一因ともなっているのですが、
それだけに、これまた伝奇ネタとしてはこれもよく扱われます。
こないだだと「SAMON」で十兵衛とガチ立ち合いやって実質自刃ENDでしたし喃。


 なお、例の家光からの大名取立ての書付については、
これに気づいた宗矩がこっそり返した、という話もあります。


 これが柳生家の次男、友矩です。
若くして亡くなった美形、ということで人気もあり、
剣士としての才能は不明ながら、剣豪の一人として挙げられることがよくありま砂。


 てなところで、お次は、
なにかといらない子呼ばわりされてしまう三男、宗冬です。


■「幸運の男」柳生飛騨守宗冬

 慶長十八年(1613)、友矩とは1つ差で宗冬は生まれました。
幼名は又十郎。宗矩43歳の時の子で、母親は十兵衛と同じく正室のおりんです。
長じてからは主膳宗冬を名乗り、そして叙任後は従五位下飛騨守となります。


 この宗冬、なにかと兄二人(十兵衛、友矩)と比べられてしまう為、


 「宗矩はとても黒い
  十兵衛はとても強い
  友矩はとても美形
  石舟斎はとても偉い
  宗冬は才能足りない」


 などと歌われてしまう有様なのですが、
宗矩の死後、旗本に戻った柳生家を大名家に復帰させた、という意味では、
柳生家中興の祖、と言えなくもない人物なのでアリマス。
(中興というには代を重ねてなさ過ぎますが)


 とはいえ、その剣才は言われている通り今ひとつだったそうで、
尾張柳生(つまり新陰流正統)の正統を継いだ柳生厳長氏曰く、
「宗冬の著作は誤伝や稚拙な点が多く、評価に値しない」と言われたりしてま砂。
まあ、これは、祖父、父、兄と歴史に名を残す剣豪が三代連続で続いたことによって、
不条理に近い比較をされてしまったのが一因であり、
実際のところ、宗矩が築いた「活人剣・治国平天下の剣」を無事に引き継いだ、
という意味では、それなりの評価が成されてしかるべきだとは思いま砂。


 さて、ちょいと話がズレましたが、この宗冬、
十兵衛とは逆に剣にはあまり興味を持たず、また、体も弱かった為、
稽古もサボりがちだったそうなのですが、
後に喜多十太夫の申楽能を見て、その芸に深く魅せられ反省するところがあり、
心機一転、新陰流の修行に精を出すようになった、という話があります。
この辺は、親父譲りといっていいんでしょうか喃。


 なお、出仕は寛永五年(1628)、14歳で家光の小姓となり、
兄二人と違い、致仕するようなこともなく、順当に仕えていたようです。
ただ、やはり何かと兄二人と比較されることが多かったようで、
例えば、宗冬に関する逸話として、家光の前で父と型を上覧した際、
さっぱり勝てなかったので、「もう少し太刀が長ければ…」と言ったのを
聞きとがめられ、「倅、推参なり」とか言われて気絶するくらいキツい一発を
食らったりしてるくらいでしょうか。
…やっぱり微妙で砂。


 あと、もうひとつ有名なのが、入歯の件で砂。
まあ、この辺は「宗冬 入歯」でぐぐってもらえれば、あれこれ出てきますが、
せっかくなので、細かめに紹介してるサイトから引用。


【世界最古の入れ歯は日本製?〜今日は入れ歯の日】
 

>東京の広徳寺にある柳生宗冬さんのお墓から、
>遺体とともに上下顎の総入れ歯が発見されたのですが、
>これは、寛永十二年(1635年)に、口中医として活躍していた小野玄人さんが
>製作した物で、技術的にも極めてすぐれた逸品だそうです。

>床の部分はやはり黄楊でできていて、歯の部分は天然歯、象牙
>ろう石、獣歯、黒柿などを駆使して作られています。

>仏姫の場合もそうですが、口中に直接触れる部分の材料に黄楊が使われているのは、
>黄楊は割れにくく、それでいて彫刻がしやすく、肌触りも良いのだそうです。
>(黄楊と言えばくしを思い出してしまいますが・・・)

>しかも、その黄楊を、24時間煮て、さらに水中に保存した物を使用したそうで、
>以外と思っているほど痛くないかもしれませんね。

>「食紅などを使って、噛みあわせも調節していた」というから、たいしたモンですね〜


 寛永十二年ですから、24歳の頃で砂。
何があってその若さで総入歯なのか、これは謎のままであり、
五味先生は「女装の為に総入歯にしたのだ」とカマしてましたが、
詳細は不明でアリマス。
まさかこんなことでも歴史に名を残すとは、で砂。


 さて、そんな塩梅で、相変わらず微妙な立ち位置であった宗冬ですが、
異腹の兄・友矩の「病死」、父・宗矩の死去などを経て、
大和柳生家一万二千五百石のうち、四千石を引き継ぐことになります。
ちなみに、宗冬は友矩を慕っていたらしく、南大河原に十輪寺を建立して
菩提をとむらった、と言われております。


 さて、こうして旗本として一家を持つことになった宗冬ですが、
今度は慶安四年、兄・十兵衛の急死により、その遺領八千三百石と
柳生家の家督を継ぐことになります。
ただ、この時、自身が受けていた四千石と引き換え、という形になりました。
つまり、相変わらず柳生家は旗本のまま、ということで砂。


 そして、家光も亡くなった後の明暦二年(1656)、宗冬44歳の時、
柳生家の当主にして四代将軍家綱の剣術指南役となった宗冬は、
その翌年、従五位下飛騨守を叙任、更に寛文元年(1661)には、
後の五代将軍となる館林綱吉からも新陰流誓紙を入れられ、
天下一の流派、柳生新陰流としての名をあらためて固めます。


 その後、寛文八年(1668)に千七百石の加増を受け、
翌年一万石の朱印を賜り、ようやく念願の大名家への復帰を果たします。
この時、宗冬54歳。


 こうして、柳生家の幕末まで続く大名家としての基を固め直した宗冬は、
晩年にはぼうふらの動きを見て剣の極意を悟り、柳陰斎と称したそうです。
そして、延宝三年(1675)4月、江戸柳生家全盛期・最後の一人たる宗冬は
癌で亡くなります。
享年61歳。


 あれこれ言われている宗冬ですが、
柳生家からすれば、宗冬がいたからこそ、柳生家は大名に復帰できた、
という部分もあり、また、良くも悪くも特異な資質を持った兄二人と比べると、
比較的凡庸であるが故に、家を守ることができたのでは、という考えもできま砂。
それに、こういう言い方をするのもアレですが、本来なら部屋住みの身のところが、
とんとん拍子に一家を立て、本家を継ぎ、大名に復帰して、と進めていったわけで、
そういう意味では、やはり幸運の人と言えるのではないかなあと。


 さて、これで宗冬の話も終わり。
そして、柳生四兄弟最後の一人、末っ子の義仙列堂の番でアリマス。


■「江戸柳生を看取った男」柳生義仙列堂

 列堂は寛永十二年(1635)、これまた柳生庄にて生まれています。
幼名は六丸。時に宗矩65歳。母親は近隣の農民の娘、お藤。
十兵衛とだと28歳差、宗冬とですら22歳差であり、かなり晩年に生まれた子ゆえ、
実は宗冬の子供とか友矩の子供とか、ネタはあれこれ出てま砂。
まあ、実際のところは不明ですが。


 ちなみにこの母親のお藤、川辺で洗濯をしていたところ、通りがかった宗矩が
「そのたらいの中の波は何本あるかわかるかの?」と戯れに問うたところ、
「殿様は屋敷からここまでの蹄の跡の数はわかりますか?」と切り替えしたため、
「これは面白い娘じゃ」と、そのまま貰い受けられた、という逸話があります。
(「はい、七三(なみ)は、二十一波でございます」と返したという話もあり)


  l / /
  l / /        ,,.. --‐--ニ二    ./ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    /¨i  i/!         ミ    |  お こ 屋 殿
  、、./-ソ ./ / \ 、 _二ニミ     | ぼ こ  敷 様
 ミ   / /   ! \、ヾシ;;;/        | え .ま か は
 ヽ.  !、 \ ヽ、._,,,;';;/ ,.,.レ         | て .で ら
  l.  l l゙ヽリ .,;;;;;;/__,ィイ/ミ        | い .の
. ,、/   l l/ !,,,;;;;/r'´iヘツ          | ま  蹄
 !!゙丶,,,,..ヽ,';;;// ',.-‐'" _         | す  の
 ヽミニ=;;ヽ ‐- 、  ̄ ̄         < か  跡
 . ヽヽ-ツ/    ',             | ?  を
  ヽ ', !./.:                 \______
   ヽ', / .j ,.._
     ',ヽ¨´::::ノ
     ', `¨__,.. __,.
     ',  、.ニフ'´
 .      ', ヽ_,.-‐-'
     /ミヽ、  ,       ,.. -
 .  /--' !ヽ i     /:::::;:::::
 .  /=、 /  ', ヽ    _,.!::::::':::::::
  /    i   ヽ、  _/:::::;::::::/
  /=-' ノ  _,,. ''" ̄ノ:::;::'::/:_;;;;
   / //:::::::;;:-‐':::/::/:://:::
         小粋な切り返しをするお藤(イメージ図)


 まあ、実際にこんな問答があったかどうかは謎ですが、
里歌に「仕事せえでも器量さえよけりゃ、お藤但馬の娘になる」などと
歌われたりしたそうなので、宗矩がお藤を貰い受けたことは間違いないようで砂。


 ともあれ、こうして生まれた六丸ですが、
その後、六丸10歳の時、宗矩が亡くなる際の遺言で、
「柳生に父祖のための菩提寺を建て、六丸を住職としてほしい」と言った為、
宗矩の死後、建てられた芳徳寺の住持となるべく六丸は出家し、
かつて沢庵もいた大徳寺の天祐和尚の弟子となり、名を義仙と改めます。
同時に芳徳寺の第一世座主となり、列堂和尚と称したそうです。


 さて、この後の列堂ですが、伝奇的に言えば、
ここで裏柳生とか芳徳寺衆とかがあれこれ出てくるところなのですが、
史実においては普通に坊主をやってたようで、とりたてて逸話などはありません。
ただ、一時期、仏門修行に精進せず、ぐれた時代があったそうなので砂。
まあ、家が家だけに、何故俺だけ、と思ったのかもしれません喃。
とはいえ、後に大徳寺の座主(238代)になったと言われているので、
やはり僧としてもそれなりの人物であったことは間違いないかと思われます。


 ちなみに、十兵衛も亡くなってからですと、
母を除けば肉親は宗冬だけになるはずなのですが、
宗冬の遺書を読む限り、どうもエラく嫌われていたようなので砂。
理由として、ぐれてた時期に芳徳寺を離れて放浪していたのが怒りに触れた、
などという話もあるのですが、詳細は不明でアリマス。


 で、その件の遺書なのですが、もォ凄いんですよ兄さん。
さっき書いた宗冬の人物像(比較的穏やか)からは想像できないくらい
バイオレンス風味溢れる遺言であり、というか、
遺言がバイオレンスってどうなのよと。
とりあえず、列堂に関した箇所だけ抜粋します。


『列堂儀一円心も直り不申、神文を破り、其上気違同前の体何共絶言語候間、
 もはや成間敷候。いか様に申候共、寺の為に候間、住持に直し候儀無用に可被致候。
 若気違に候あいだ申分などいたし候はば、見合わせ候而押込候欺、
 打捨にいたし候而両様のうちに相究可申候』

(意訳:あの馬鹿、住職から外せ。文句言ってきたら閉じ込めても殺してもいいぞ)


 まあ、大概な嫌われ方で砂。
ちなみに、ここまでバイオレンスなこと書いてるのは列堂だけで、
他の人物に対する言及は穏当かつ細やかな気配りのきいたものでアリマス。
一応、追補もあって、上記の処遇は最悪の場合なら、程度になってますが、
それにしても尋常ではありません。一体何があったんですか喃。
(実は密かに仕合やって負けてましたー、とかいう展開なら
 スーパー伝奇ルートなのですが)


        ,.r==:、
     ,ク::::::::::::ヾ
  ,r=-=、'|:::::::::::::::,!|
,;':::::::::::::ハ;、_::::_,.ィノ^!               _,...........,__

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ヾー-‐彡,. ィ" !  ':,             /  ...::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;',
  \ :ハ     '、  ':,            | ,rrェヒミ〈;;;:リナナク,;:l!
   \ '、   ,:'、  ':,         !斥y'r。xツヘ '・`,,,シミ;:;;:|   「あの馬鹿、
     \ゞ '" ::ヽ  ':,           |トニ斗テi"| :;フハコ=7-i;;|    住職から外せ!」
       ヾト、  ::::ゝ  i        :|::ll::::l!:|l|ハ::;;| | ! !| li ,l、
       `ヾ-'"  : ::|^y'ヽ、       |ト|!:::l!:||kキ;|干!,!,!ノノ:,!;l
         `yr'^! :::〈 ミシ|、  ,';,   !|ヽヾヾト'^"~'' ,'' "//;;;;'、
         r'" ヘ ヘ、:::二;;;;リ  /:;;| ,r'-:ゝ ,ィ;'  ,.-...,,;:,,' /l::::;;;`
          ゞイ..`,.>'"リ、/ -'ー-'ミ  ,:':;/ヾ、  .,,. ,,_;:' l!
         `t  ゞ.-'" y;;!rー'''''''ーミ::`:'";;,'  `:;、 :;;: ,;' .,!
          〉  〉.-‐"ノ^:,     ^:、 ゞト、  :,! ':;;, ;;'  '"!
         ,!^ヾー‐‐'"ゝ;;;ヽ'"~`ヾ、 `トr=ミ:;、 !  ':;; ;  : |
         |ハ;;;;;ミi'"~;;;;リ;;;;;;ヽ、  `、 :ハ  い `!     |
            '!ハ `ー'-'''";;;;;;;;;;;;;;;`、   :!:::::i、..,,_ノ ::;
          !ヾ;、` .....::::::;;;;;;;;;;;;;;;i   レ!
         ,ィ' ゞ=;!: : : : :::;;;;;;;;;;;;;リ、..,::; ; i
        ;!  ` l|: : : : : :;;:::;;;;;;;;;!;;::''"リ,!
        | ', `- ;! : : : :::;;;;;;;;;;;;;!/ ;: /
          ヾ  /:::::;;;;;;;;;;;;;;;;-''",!_,.-'"
         ヾ;:/        ノ
          `-^ト 、   ,r'"
               バイオレンスな遺言を残す宗冬(イメージ図)


 まあ、真相はどうあれ、この遺言の通りにはならず、
どうやら無事に芳徳寺の住持としてあり続けた列堂は、
元禄十五年(1703)、67歳をもって寂しました。
ちなみに、例の赤穂浪士の討ち入りのあった年で砂。


 ここまでが、宗矩の実子たる柳生四兄弟の物語でアリマス。
実際のところ、柳生一族として憶えておく必要があるとすれば、ここまでです。
この後、宗冬の後を継いだ宗在以降、柳生家は急速に普通の大名家と
化していくからです。
それが故に、列堂を「江戸柳生を看取った男」と名づけたのですが。
(それに坊主ですしね)


 てなわけで、微妙ではありますが、
次は宗冬以降の江戸柳生家についてまとめることで、
江戸柳生家、そしてその祖たる宗矩の話を終わらせようかと思います。

【柳生一族、そして宗矩】その23:柳生但馬守宗矩(11)「江戸柳生の人々(1):柳生十兵衛三厳、その3つの謎」

 さて、宗矩自身についての話も一段落したところで、
その宗矩を祖とする「江戸柳生」の人々について簡単に説明をしようかと。
まあ、流石に説明無しで済ますのも寂しい感じがしますし喃。


 まあ、江戸柳生といえば、まず出てくるのは十兵衛三厳であり、
彼を筆頭にした柳生四兄弟なわけで砂。
即ち、


  「十兵衛三厳」
  「左門(刑部少輔)友矩」
  「又十郎(飛騨守)宗冬」
  「義仙列堂」


 この4人でアリマス。
イメージにしてみるとこんな感じ。


【長兄:柳生十兵衛三厳】
  ミ  ,,l゙r、  ::::::::::y ツツノ/;; ツ : :::: 彡彡::::≧''" ノ     リ  」
  ゙l :ミl |;; "ヽ:::::/イ((::"/;; i"r,,彡"彡リ彡:::之彡彡ノ、ノ  ク 了
ミ ミ}}}ヽ };iiY|",,((,,、ミ_ィ:::::ェ;チ―ァヲ""}}ヽニ シ,j、゙,彡 rク .「    よ
{ (jミ;;r=ィッ-5ソ´ミ三::'-ー゙ー´'''''"´彡ニ彡:::)) イ l| ',ー < )    か
  ゙ミ Y゙`'' "´ヽ| ;;`'''Y゙,``゙::'ー、  ;;::j:::::::::ィ::| イリ ノ,リ、 ゙',ヲ`l     ろ
   ゙t ゙{;{ /::::::::j ,  {::Y:::::::" 、 :: ,,''ノ;;;;、;/::|/,/,"ミ  ヽ,, |.    う
      ヽ',゙', : :::::イ ヽ,,,__ Y'"   ゙;;X; `;;} {;; ゙'=''/ミ゙  、,,,,ノ |       /
      ヾ: : ::::`''ー、rー''´    }; ;} ;l| ゙;; '-ー''ミ    `゙'ミ 〉      (
         ', ゙::::" ゙゙ろ        {;; |;; :レ::::::l|ミ      ゙、、´゙、     /
          ', ::::: ,,ィ''ー_'''_ー;-zイ  ''' l|  :|::::: ゙' 、ハ、,, 、 乙'゙  |_  r''゙
            ',: Y :::`゙ ̄_,, ヽ;;;ll;;   {;;  l|: : :  " ゙`ツ ノヽヽ ) ´  `''"
 ;;{{   ;;   l, 、j ´ ̄' 、:::::::::||ヽ|ll;  };; ,j: : : : : :    :::ノノ ヽ    '',,/;;
  ;;ヽ  Y    |',: }}""   `''ー、}};; }"  ,、-'":::::: : : : :    ',::|  ::.ヽ、、、,, ノ)
;;}}ヽ、};;  ,,,|::', { 彡::   ..{;; ;{,、 ''´: : : :;;、-ァー-、    l|::  ::..ヽヽ、`l|''ー、
  イノ;;;、-ー ''"::|:::} ィ ヽ:::::::.../,、 '": : : : : ::/  /   `' 、   ゙、::  ゙:::l|:::::::`゙'' 、
、,,、-'"    .....::::::| ゙ヽ、,,,,,,,,_,,、-'´:: : : ::   /  |       ゙' 、 /:   /:::::::::::::::::
/;/  ......::::::::::::::l  ::::ヽ : : : : : :: : :   /    l         /  /::::::::::::::::::::

【次男:柳生刑部少輔友矩】

    ン",,,、'"   ミミ`   匁  iii'''  iiiiiハ jt,
   (ン` ":: ::''"  `ミ              -''、
    ヒメ  ヽ  r"""'''' """""'i       :::: ::  t"
   / /    | i__,,,,,,,,,,,,,,,,,,ノ|  |_|, ii, ii,  :::::  `、,,、
  (  ソ | ti'| t、t??◎??|i|  iii|; ||~' -、 :: :: ヽ、ヽ
   )  |i i'|ii | ソ――-ー ''''''''t、t,,t:t ti-,?i |i :| ヽソ
  ン,,   リ )リノ/、、,,,,,t  、、;;;;;;;;;;ニ=ー-、))ノ )    し
  (iii    ノ''z-モェテ''、'i ~i'';;rzニ'-''ニゝ'' フ"/y"  `'く
   リ  ::: ミi '~~~~::::ノ| ,i''''"'""''''''    :::メ, :::    ;; )
  `ソ ::: iii''t  ::::::::::::j,, " "     ::::::::ノ リノ ハ  `、,
   tii リ (/ );;; :::::::: 、、_,,,、:)、;;   :::::::::`'y  /  リ,,  j}リ
    )  (  リt" ::::: ,,,,;;'i、、;;"   "   (  i|}}! /'(  t、,
  /   ;;;; ソ;t   ii",;;ヨ<、:;;,,"'i!   、|i リ') i!}}i   ヽ;;,, ))
 ,/"   ノ/ ii|リ;;|!,, ii ´;;;;;;;;;;  ~'ji  ,,iijj}|ノ  亦,,, )ツ ツ (
 i|i|/|i  :::: 、|i|:::ヽ!!,iii "::(  ~'ー }} ii}|j、-''(ii   iiii ツ /   ''"、、,
 ヽ((i  ';;; iiii ):::::ヽ!!,, ;;;;;;;;  i}!i! ' ;;;;:::::`i  ノijj!} i}jjj, ::::、ヽ )
 、,,, ノ   i''"iリ:::::::::::ヽ!iiハii|ii!!|!i,r";;;;;;;;:::::::  j/   !!!ii||i  :::::: i (
  ,ゝ  ,,  / ヽi、:::::::::: """""";;;;  :::::::  /,, /"  ''::"  ::: |} ~'' 、
 (ii   iiiiソ ii  ) :::::::  ::::::::::   :::::::::  (|i  }}iiji、 iij、ハ  ヽ 、,)ヽ)
'"    iiii、  |リ  :::::::   :::::::   ::::::   :::::ヽ  ` ` !!!、\   )jj:~''- 、
 ;;、"-('   ヽ ミi   ::::::::  :::::  :::::::   :::::::::ノ/   )  、 ,, ノ" ::::::'' ~'
" '"" i// iiiハi"    :::::  ::::: ;;;;;;   :::  ヽ、,,ノj ノ) ノr"i、((,,,,,,,、、


【三男:柳生飛騨守宗冬】
                 .,. -─- 、
            /,;:;:;;;;;:;:;:;:;:`ヽ
              ,'.:..:.:.:.;;;;;;rrrr、:.:.:ヽ
            l::;ィ'´;;;;' `ヽ。-、ヽ.::!  
          {ミレ'"´. ,.. ¨¨`,ィ;;彡. 
          {ミ!. i i::i l.:::! l:l .l:! l;;彡
           iト、i i:::iノ:::l/::l/::!ノ:::|
           ヽ入     `V?           /l /l
       ト、    `1 ミヽニニ彡'´ L、、、,,_   _./ レ' ..!
    ト、. ! Vl ,..ィ´.:j! ',::,,,,,/ ,::′ ,' `ヽ`ヽ`Y´.:./l  ``ヽ
    | ヽ| 〃/.:.:.:.j!...',;,,/ ,::′,,,,,........リ ノ.:::l / .l.:.:.:.:./ト、
  ,.ィ´ヽ ノ/ /  ;;;'''゙゙゙゙`,.''''゙゙゙´    {: :i i!.::! ゝ ' /.ィ´ `ヽ
ト、/ ト、, ´/ ./:::''  .人 ..:;;′ .人   .:i: :.! i!:::!.:.;.ィ彡'´ ;;   .゙、
l ハ  V.:.:.i  / ,::   `Y´.;;;′ `Y´   .!,..ィ"´`ヽ〃;;;:;:;:;:;:;;:;゙゙゙´: .
l/.::',.:./.:.:.:j. /''"´   ....;;;;;   人    (,,、、`Y.. ):::V´     : : :
{  V「88j/     ...;;;;;;; .:.:`Y´     (´ _ノ(.. )::::::',、、、,,,__....: : : :
〉;; ぃ.::.i l..... ........:.:.:.;;;)。k、ミヽ      (´ _ノ(.. ).::::::!: : :.:.:.:.;;;;;;;``
/;;  .い.::i l;;;;;;;;,、、 '''゙""´   ..`゙゙゙゙゙'''''''''´( _ノ(.. ).::::ノ: :.:.:.:;:;;;;;;;;;;;;;;;
′ノ人 jりi ;: : : : :''''';;;;ゞ ::;;   ...:.:.:.: .: .: .;;:i1 i爪ツ"´.:.:.;:;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;


【四男:義仙列堂】
          _,.yトーゞrッヽv,、_,.
         ,rk´ミ、''ナ;;爻'、ー;;〃彡;,. 
        vf戈ハトシ〈'"リ゙、ヾ、;;jリ、〃、 
       Yメ从k;;、;;ij;;;ii;ヾ;ッ;仆、ヾくソ 
       }ソリ"i!;;;;;l;;i;;、;;:;:;;:;';;;};;iリドシゞ,
       ツ;;;;;;;;;;ト、;;_リ;;;i!;;ト;=;、t;;;l;;ヒ' 
       ヲ;i!、:::r',;、=;'、;"リ,、=;''"リ;ij´       !
        };lヾ;;j  ̄´.〃l゙ ̄´ ,';ィ′
 r‐、       7;;;;|',    =、j,.   /仆、
 } ,! _      ゞ;|:ヽ   ,:ニ> /:: レ ソ\,.、- ' "´;; ̄::
 j _,!ノ )" ̄>.ニト、:\` "'' ///,r/:::::::_,..、''' ..,,
フ ,、'-‐'l" ̄リ;/::;;/::} `:::`:ー'/'∠;:/`゙ヽ・.‐´
‐' 冫‐i '"フ:;/::;;;{! `r‐'"フ´〃シ:;;/ " ヽ、. リ'"  ,、_,
. '",.ィ/ ̄_:;/::;;イ `'ー ''/ヲリ/;/r'/,r─‐-、 (∴,、-''"
  '二⊃ヾ/.:;;/ `ー-‐/Ξ/ッ/rレヘ{ | ̄|  `''"


 なんか一歩間違うと、柳生三兄弟とか言われそうな趣ですが、
イメージとしてはこんなもんですか喃。
(一応、列堂は坊主なんですが)
つか、AAですらいらない子っぷりを醸し出す宗冬を誰かどうにかしてあげて。


 で、この柳生四兄弟中、いや、全柳生中の最メジャー柳生にして、
剣士の名前を5人挙げてみて、と問うた際、まず5本の指には入る剣士、
柳生十兵衛三厳ですが、この柳生新陰流の達人にして、
幕府惣目付柳生但馬守宗矩の嫡男たる人物には、3つの謎があります。


 ・十兵衛は隻眼だったのか?
 ・十兵衛は本当に諸国を廻ったのか?
 ・十兵衛の死の真相は?


 細かく挙げれば他にも出ますが(荒木又右衛門との関係など)、
主だった謎はこの3点で砂。
元々のプロフィールに加え、このような謎があるからこそ、
十兵衛という稀代の剣士の魅力は更に光り輝くわけですが、
では実際、史実において柳生十兵衛三厳という人物はどういう人物だったのか、
という事を、それらの謎に関する話と絡めつつ、つらつら書いていこうかとー。


■十兵衛・その誕生
 十兵衛こと柳生十兵衛三厳は、慶長十二年(1607)、柳生庄にて産まれました。
時に父たる宗矩は37歳。母は正室のおりん。幼名は七郎と言います。
随分遅い子に見えますが、宗矩にはこの四兄弟以外にも娘が2人いたそうなので、
もしかしたら姉もいたのかもしれませんな(誰だ薔薇剣とか言ってるのは
なんにせよ、宗矩にとっては待望の嫡男であり、喜びもひとしおだったかと。
なお、十兵衛の生まれる前年、祖父たる石舟斎が亡くなっており、
天性の剣才も相まって、「石舟斎の生まれ変わり」とまで言われたそうでアリマス。


 その後、十兵衛が柳生庄で育ったのか、それとも江戸で育ったのか、
今ひとつ不明瞭なのですが、ともあれ、剣の修行は宗矩によって行われていたようで、
そう考えると、比較的早い段階で江戸に上がっていたものと思われます。



■謎その一「十兵衛は隻眼だったの?」
 さて、十兵衛といえば、まずイメージに浮かぶのが
「片方を刀の鍔で覆った隻眼」なわけで、この分かりやすい記号があったからこそ、
あの時代の剣士の中で、武蔵と並ぶ最メジャー剣士となれた部分もあったと
思われるのですが、まあ、よく言われている通り、この隻眼、虚構説もあるので砂。
しかも難儀なのは、両説とも一応の論拠を以って提示されてるのでアリマス。


 まず、隻眼肯定説の方ですが、これは、尾張柳生の方に伝わっている話のうち、
「十兵衛が七つの頃、宗矩と「燕飛」の稽古中、誤って右目に木刀が入ってしまった」
という言い伝えが論拠になってます。
また、世俗にはこれのバリエーション(訓練で礫が当たったとか)が複数あることから、
このような話が広く伝わっているということは、それだけ十兵衛の隻眼は
有名であったのだ、というのが論拠であるというわけで砂。


 で、隻眼否定説の方は、十兵衛の姿を描いた絵では両眼である、
自身の著書にも、関連する江戸柳生家の書物にも、十兵衛の隻眼を示す話は無い、
というのが論拠になっております。
また、隻眼では距離感も計れない為、剣士として大成するのは無理がある、
とも言われています。


 まあ、両方とも決め手に欠ける感じですが、
どちらかといえば両眼であった、というのが事実の可能性が高いのではないかなと。
まず、単に世間に知られてるだけで事実になるなら、
水戸黄門も諸国漫遊したってことになりますし喃。
それに、宗冬と連也斎の立ち合いの件といい、江戸柳生絡みの話になると、
微妙に尾張柳生家の伝承は信頼性が低くなる気がするので砂。
(尤も、その真否はどうあれ、伝奇ヒーローの十兵衛が
 隻眼であることには関わり無いことなのですが)


 ちなみに、どちらが開いてたのか、というのも話題に出ることがありますが、
隻眼説を取っている元の他の話を見るに、どうやら左眼だったようで砂。
つまり、右目側が隠れてた、と。
まあ、隻眼説自体が微妙なところを思うと、どっちでもいいと考える人が
出るのもむべなるかな。


        / ̄ ̄\    先生、隻眼が前作と逆なんですが…
      /    u  \      .____
      |::::::      u |   ./      \  
     . |:::::::::::     |  / ⌒   ⌒  \ そうだっけ?
       |:::::::::::u:    |/  (●) (●)   \
     .  |::::::::::::::  u  } |    (__人__)     | 
     .  ヽ::::::::::::::    } \   ` ⌒´     _/ 
        ヽ::::::::::  ノ   |           \
        /:::::::::::: く    | |         |  |

  • ―――――|:::::::::::::::: \-―┴┴―――――┴┴――  

         |:::::::::::::::|ヽ、二⌒)
      「どっちもでいい」の例:某作家と編集の会話


■十兵衛・最初の出仕
 さて、元和二年(1616)、成長した十兵衛は、10歳で宗矩に伴われ秀忠に拝謁、
2年後の元和4年(1618)、13歳にて家光の小姓として城に上がることになります。
宗矩が家光の剣術指南役となる2年前で砂。


 こうして考えると、宗矩が家光の剣術指南役として、
その心を掴むことが出来た一因には、十兵衛から家光についての
事前調査があったからではないかなあと。
実際、宗矩にすれば嫡男の初の役目、十兵衛にすれば自身の初の役目な上、
相手は次期将軍、となれば、そりゃお互い気にもなるから話もあったでしょうし。


 宗矩 「七郎よ、おぬしの眼から見て、家光様はどう映った」
 十兵衛「はい、家光様は突飛なことをなさるお方で…」


 てな具合に。


 そしてその後、宗矩の家光の剣術指南役就任、家光の将軍職就任、
宗矩の惣目付就任と、立て続けに柳生家(というか宗矩)が出世していくのですが、
寛永三年(1626)、20歳となった十兵衛にある転機が訪れます。


    そう、家光の勘気による致仕です。


■謎その二「十兵衛は本当に全国を廻ったのか?」
 この勘気を受けた原因が何であるか、そもそも本当に勘気を受けたのか、
また、致仕した後、寛永十五年(1638)に再出仕するまでの12年間もの間、
十兵衛は一体どこで何をしていたのか…?


 この辺りの経緯の不明瞭さが、当時の十兵衛を囲む状況と相まって、
十兵衛の時代劇ヒーロー化の礎を作ることになります。


   これこそ「柳生十兵衛隠密説」です。


 …既に徳川将軍も三代を数え、徳川による支配体制も固まりつつあるものの、
未だ戦国の気風は残り、虎視眈々と機会を伺う大名は消えておらず、
豊臣家の残党や主家の改易・取り潰しによって浪々の身となった者は全国に溢れ、
また海外からのキリスト教の影響も無視は出来ず、と、
到底安心できるような状況ではない中、時の将軍家光の幼少時よりの小姓にして、
惣目付にして将軍家剣術指南役たる父・柳生但馬守宗矩の嫡男たる男、
江戸柳生最強の名高い柳生十兵衛三厳が江戸を離れた…となれば、
そりゃもう伝奇妄想するしかなかろうよ、と。


 まあ、そんなこんなで、そりゃあ大量の柳生話が誕生したわけですが、
では、実際どうだったのかというと、これまた困ったことに、両論あるので砂。
つまり、「実際に全国を廻った」説と「柳生庄で逼塞していた」説の2説が。
そして、これまた論拠が両方にあったりするのです。


 「全国を廻った説」の論拠は、柳生庄の村史「柳生の里」が元になっています。


 『そして諸国漫遊の旅に出た。京都から山陽道を西に行き、
  九州地方をまわって引き返し、山陰から北陸地方を歩いている。
  歳月を費やすこと十年に近かった』


 と書いてあるので砂。
また、柳生藩の藩史「玉栄拾遺」でも、


 『一旦故ありて相模国小田原に謫居し玉ひ、尚諸州経歴ありと云。
  寛永年中父君の領地武蔵国八幡山の辺、山賊あって旅客の愁をなす。
  公彼土に到、微服独歩し賊徒を懲らしめ玉ふ。
  亦山城国梅谷の賊を逐玉ふも同時の談也。
  其他諸方里巷の説ありといへども、未だその証を見ず』


 という記載があったことから、
「十兵衛は致仕した後、全国を巡回していたのでは」と言われるようになり、
そこから、


        / ̄ ̄\ 
      /       \    「惣目付の嫡男が、この時期に致仕して諸国巡回なんて、
      |::::::        |     どう考えても怪しすぎるだろ常考…」
     . |:::::::::::     | 
       |::::::::::::::    |          ....,:::´, .  
     .  |::::::::::::::    }          ....:::,,  ..
     .  ヽ::::::::::::::    }         ,):::::::ノ .
        ヽ::::::::::  ノ        (:::::ソ: .
        /:::::::::::: く         ,ふ´..

  • ―――――|:::::::::::::::: \ -―,――ノ::ノ――  

         |:::::::::::::::|ヽ、二⌒)━~~'´
        後世の歴史小説作家


 と言われるようになったわけで砂。


 それに対し、「柳生庄で逼塞していた」説の論拠は、
十兵衛自身の著作である「昔飛衛といふものあり」の文中にあります。


 『愚夫 ゆえありて東公(家光)を退いて、素生の国に引き籠もぬれば、
  君の左右をはなれたてまつりて、世を心のままに逍遥すべきは、
  礼儀も欠け、天道もいかがと存ずれば、めくるとし十二年は故郷を出ず』


 要するに、「12年間、柳生庄に篭ってました」というわけで砂。
その間にやってたのが、新陰流の研究であり、兵法書の執筆活動であった、
ということでアリマス。


 【昔飛衛といふものあり(全文)】
 

 あと、「柳生の里」には、十兵衛には弟子が1万3千5百人いた、と
言われているのですが、逆に、これが真実なのであれば、全国放浪などしていたら、
その指導など出来る筈が無い、とも言われております。


 これについても、隻眼説と同じく、どちらが正しいのか確証は持てないのですが、
見ている限りでは、後者の方が妥当なのではないかと思われます。
というのは、この12年の逼塞というのは、前例があるからです。
そう、尾張柳生の祖にして新陰流正統三世、兵庫助利厳で砂。


 十兵衛は「弱冠にして天資甚だ梟雄、早く新陰流の術に達し、其書を述作し玉ふ」
と言われており、江戸柳生家の中でも剣の腕と、その熱心さは
図抜けていたと思われます。
そのような十兵衛が、いざ、致仕するにあたり、
かつて同じく仕官先を致仕し、柳生庄へ篭って修行に励んだ従兄弟、利厳を連想し、
その前例に倣おうとした、という考えもそれなりに成り立つのではないかと。


 実際、十兵衛がより新陰流を極めようというのであれば、
祖父・石舟斎の伝書や、その弟子達の残る柳生庄というのは
居住するに相応しい場所だったと言えますし、後に記した「月之抄」でも、


 『さるにより、秀綱公(上泉伊勢守)より宗厳公(祖父・石舟斎)、
  今宗矩公(父・宗矩)の目録を取り集め、流れを得るその人々に問えば、
  彼は知り、彼は知らず。彼知りたるは、則ちこれに寄し、彼知らざるは
  また知りたる方にて是を尋ねて書し、聞きつくし見つくし、
  大形習いの心持ちならん事をよせて書き附けば、
  ことばには云いものえやせむ、身に得る事易からず』


 と記されており、新陰流の過去の記録を調べ、
また、生き残っている石舟斎の弟子たちを尋ね、あれこれ聞いて廻った、と
自身で書き残しております。


 また、ずっと逼塞していた、というわけでもなく、
新陰流の禅の修業として、京の寺へ行くことなどもあったでしょうし、
もしかすれば、尾張へ出向くこともあったかもしれません。
それに、宗矩が惣目付に就任したのは寛永九年(1632)であり、
十兵衛が致仕した6年後です。
流石に間が空き過ぎているのではないかとも思われま砂。 


 まあ、とはいえ、先に書いた1万人以上の弟子の中には、
荒木又右衛門などもいたのでは、と言われていることもあり、
逼塞説は逼塞説で、なかなか面白いところではあると思うのですよ。
実際、道場破りなんかも来たでしょうし。


■十兵衛・再出仕
 十兵衛が許されて家光の元に再出仕したのは、寛永十五年(1638)でした。
この時の役職は小姓ではなく大御番とも御書院番とも言われてま砂。
この頃は、特に問題も起こさず、普通に勤めていたようです。


 なお、余談ですが、十兵衛は酒癖が悪かったらしく、
一説には、それが最初に致仕した一因と言われております。
この酒癖の悪さは、沢庵から十兵衛への手紙でも指摘されており、


 『久々御随意に在所に御座候間、又立帰御奉仕、
  小者御苦労におぼしめさるべく召候。
  御酒さへ不参候はば、万事あいととのうべく候。其段随分御心持専用候』


 と言われてま砂。
つまり「お前は酒さえ飲まなきゃ大丈夫なのにねえ」ということで砂。


 なお、この頃には、既に友矩、宗冬も城に出仕しており、
宗矩も石高1万石を越えて大名となったことで、
江戸柳生家、いや、柳生一族の全盛期とも言われる時代でした。


 十兵衛といえば、宗矩との確執もよく話題にあがりま砂。
「悪(or謹厳実直で官僚的)の宗矩に対して、
善(or豪放磊落で人情派)の十兵衛」という対立構造は
宗矩との稽古による隻眼説や、十兵衛が追放された際の件などで、
割と定番の構造になっているのですが、史料を見る限りでは、
十兵衛、かなり宗矩をリスペクトしてるので砂。


 裏づけとしては、
先にも述べた十兵衛初の著作「昔飛衛といふものあり」の文中に、


 『我が祖父 古但馬守宗厳 上泉武蔵守秀綱に従い此の道を相伝してより、
  その身一代深く修行して、心に得て是を手にする事、
  おそらくは、氷は水より成りて、水よりもすさまじき物歟。
  老父(宗矩)その伝を継いで、若年よりこの道に心をつくし、
  太刀のみならず鑓長刀の類にいたるまで、
  兵道とさえいえば聞かずという事なし。
  一代その身に得てつかうまつる事、
  またおそらくは藍より出て藍よりも青き物歟』


 と書かれているので砂。
要するに「爺さんは上泉秀綱よりスゲェし、親父は爺さんよりスゲェよ!」と。
実際、内容も宗矩の説く兵法観をかなり踏襲したものになってますし喃。
(既にこの時期、兵法家伝書も書かれており、十兵衛がそれを読んだことも
 書いてあります)


 なお、これを書き上げた十兵衛は、宗矩に見せたところ、
「ファック!お前は何も分かってねぇ!汚物は消毒だーッ!(超訳)」とか言われて
思案の末、


「沢庵和尚ー!
 親父殿がひどいんだよー!」  「どうしたんだい十兵衛殿…」
                      _____
    ____           /、       \
 ゝ/_______ヽ       /.ノ─ 、       ヽ
 / | / ■ /─ 、|      ●- ´   \      ヽ
 | __|─|■■| ヽ  |     __| 二二    i       i
 (   U■ oー ´ヽ    (__  ──   |        !
  ヽ / , ──┘ノ      ( _       !      /
   \ ( _,ヘ_//  /)_   \    /     /
   / |/\//^\/ヽ ∋  _  6━━━━━━、
  / |      、   / ̄  ( )`|  \       ヽ
         十兵衛と沢庵(イメージ図)


 という具合に沢庵に相談、加筆修正と沢庵の補足を足して再提出し、
「まあ、沢庵がいいって言うなら…」とようやく認めた、という経歴があります。
また、その後の「月之抄」などでも、


  『老父の云われし一言、今許尊(今こそ)感心浅からずなり』


 と書いており、総じて「凄いやパパ!」テイストでアリマス。
柳生一族の陰謀」や「柳生十兵衛七番勝負」の十兵衛像からは随分離れてますけど
まあ、これらは宗矩が暗黒野郎であることが前提ですし喃。


 【参考:月之抄(一部)】
 

■十兵衛・家督を継ぐ
 正保三年(1646)、宗矩が亡くなり、十兵衛が柳生家の家督を継ぎます。
この際、宗矩のところで書いた通り,柳生家は一度その所領を召し上げられ、
十兵衛に八千三百石、宗冬に四千石、列堂が住持となる芳徳寺の寺領として二百石、
という形で再度付されます。


 こうして再び旗本に戻った柳生家の当主となった十兵衛ですが、
とりたてて騒ぎを起こすこともなく、穏当に勤めていたようで砂。
実際、若い頃は相当な乱暴もので、家僕にもきつく当たることがあったそうですが、
当主になってからは、かなり人当たりが穏やかになり、
家僕も労わるようになった、といわれております。


 ちなみに、十兵衛自身は剣術指南役を務めていないようです。
というか、宗矩が亡くなってからの家光の剣術指南役は空白か、
小野忠常のみだったのかもしれませんが、詳細は不明です。
まあ、年下の剣術指南役というのも微妙なところですし、
何より、前任者が宗矩であることを考えると、この時期の家光にとって、
剣術指南役とは、宗矩と同じく己を支えてくれる者のことになっていた可能性があり
そう思うと、四代家綱になるまで柳生家より剣術指南役が出なかったことも頷けます。


 ただ、十兵衛自身の剣術の修行は進んでおり、
「武蔵野」「朏門集」などの武芸書の執筆活動にも励み、
また、宗矩の門弟たる細川忠利や鍋島元茂などとも交流があったようです。


 てなところで、順調にやっていた十兵衛が、
44歳となった慶安三年(1650)3月21日に、それは起こります。


    柳生十兵衛三厳、山城国弓淵で鷹狩中に急死。


■謎その三「十兵衛の死の真相は?」
 十兵衛は、山城国の弓淵の野原に鷹狩に出て、急死しています。
原因は不明ですが、一説には、酒の飲みすぎによる急性の脳卒中が原因ではないか
とも言われています。


 ただ、誰も見ていない(従者もいない)状態で亡くなっていること、
死因が明確に記載されていないことなどもあり、
これまた十兵衛の死には、色々な説が出てきます。
その中で一番メジャーなのは、やはり刺客説、立ち合い説であり、
当時の御流儀の当主たる十兵衛が、闘いに敗れて亡くなった事を不名誉として
隠蔽したのでは、という話で砂。
その相手としても、友矩の遺臣であるとか、他流派の者であるとか、
尾張柳生であるとか、色々言われていますが、死因そのものが不明である以上、
その詳細も不明であり、これまた伝奇力に満ちたネタとなったわけでアリマス。
(兵庫助利厳の亡くなった2ヵ月後であることも、また伝奇風因縁かもと)


 ともあれ、柳生十兵衛三厳は山城国弓淵にて鷹狩中に亡くなりました。
享年44歳。
二人いた娘は、弟の宗冬が引き取って育てたそうです。


■最後に
 てなところが、史実における柳生十兵衛三厳という人物であります。
全体としては、


  柳生新陰流の達人にして、武術研究家でもあった人物」


 というところでしょうか。
伝奇では剣士としての側面の方が強く強調されがちですが、
十兵衛の執筆活動は結構活発で、かなりの数の著作があるので砂。
あと、柳生庄で道場を構え、多数の弟子を取っていたのも先に書いた通りです。


 てな具合で、伝奇力を除外しても、面白い人物であったことは間違いなく、
だからこそ、講談なんかでもよくネタにされてたので砂。
なお、講談系で面白いネタとしては、以下のようなものがあります。


====================================


 ある日、十兵衛に対し、沢庵はひとつ尋ねた。


 沢庵 「お主は随分腕を上げたようだが、
     もし、前後左右4人から一気に斬りかかられたらどうする?」
 十兵衛「たかが4人程度、柳生新陰流水月の極意でもって
     たちまち斬り捨て申そう」
 沢庵 「ほほう、では8人なら?」
 十兵衛「三光電致の極意を用います」
 沢庵 「ふうむ、ならば16人なら?」
 十兵衛「柳生新陰流天地人三巻の中の極意、木の葉隠れの術にて斬り捨てます」


  で、どんどん数を増やしていく沢庵に、いちいち対抗手段を述べる十兵衛。
 最終的に沢庵は


 沢庵 「では…128人なら?」
 十兵衛「柳生新陰の秘術を尽くし、愛刀三池典太光世の目釘の続く限り、
     斬って斬って斬りまくり、もし敵わぬ時は武門の習い、
     いさぎよく斬り死にを遂げるまで。何の一命を惜しみましょうや」
 沢庵 「なんとあきれたものじゃ。お主の剣はたかが128人止まりか。
     計略を帷幕のうちにめぐらし、何故に勝ちを千里の外に決せぬのじゃ。
     百万、千万の敵をたちどころに滅ぼすのが、まことの剣というものじゃ。
     一剣の理、万敵を屠るのがまことの剣の心と気づかぬか。この愚か者め!」


  と、十兵衛を一喝したという。


====================================


 この後、更に沢庵が変な謎かけをしたり、
また十兵衛がギャフンと言わされたりしてるのですが、
若き日の十兵衛という人物のイメージと沢庵との関係、
そして柳生新陰流という流派を上手く描いた話だと思いますよ。


 さて、こんなところで、十兵衛の話は終了です。
次は残り3人、友矩、宗冬、列堂について話をしようかと。

【柳生一族、そして宗矩】その22.5:のび太「ドラえもん!どうして宗矩は暗黒野郎なの?」


      ,. -──- 、 それは宗矩が他の剣士と違い過ぎるからだよ
    /   /⌒ i'⌒iヽ、
   /   ,.-'ゝ__,.・・_ノ-、ヽ
   i ‐'''ナ''ー-- ● =''''''リ      _,....:-‐‐‐-.、 どうしてさ?
  l -‐i''''~ニ-‐,.... !....、ー`ナ      `r'=、-、、:::::::ヽr_
   !. t´ r''"´、_,::、::::} ノ`     ,.i'・ ノ `,!::::::::::::ヽ
   ゝゝ、,,ニ=====ニ/r'⌒;   rー`ー' ,! リ::::::::::::ノ
    i`''''y--- (,iテ‐,'i~´ゝ''´    ̄ ̄ヽ` :::::::::::ノ
    |  '、,............, i }'´       、ー_',,...`::::ィ'
 ●、_!,ヽ-r⌒i-、ノ-''‐、    ゝ`ーt---''ヽ'''''''|`ーt-'つ
    (  `ーイ  ゙i  丿   ;'-,' ,ノー''''{`'    !゙ヽノ ,ヽ,
    `ー--' --'` ̄       `ー't,´`ヽ;;;、,,,,,,___,) ヽ'-゙'"
                   (`ー':;;;;;;;;;;;;;;;ノ
                    ``''''''``'''''´


 てなところから延々AAを貼り付けていこうかと思ったのですけど、
この展開だと、最初は普通に語れても、途中からのび太が発狂して、


それならいい方法があるよ!               どんな方法だい?

       / ____ヽ           /  ̄   ̄ \
       |  | /, −、, -、l           /、          ヽ
       | _| -|  ・|< ||           |・ |―-、       |
   , ―-、 (6  _ー っ-´、}         q -´ 二 ヽ      |
   | -⊂) \ ヽ_  ̄ ̄ノノ          ノ_ ー  |     |
    | ̄ ̄|/ (_ ∧ ̄ / 、 \        \. ̄`  |      /
    ヽ  ` ,.|     ̄  |  |         O===== |
      `− ´ |       | _|        /          |
         |       (t  )       /    /      


         ___                
       / ____ヽ          
       |  | /, −、, -、l          
       | _| -|○ | ○||   朝鮮妖術を学べばいいんだよ!
   , ―-、 (6  _ー っ-´、}  
   | -⊂) \ ヽ_  ̄ ̄ノノ         
    | ̄ ̄|/ (_ ∪ ̄ / 、 \       
    ヽ  ` ,.|     ̄  |  |      
      `− ´ |       | _|   


                     _,.>
                   r "
    ノッカラノウム!!?    \    _
                    r-''ニl::::/,ニ二 ーー-- __
                 .,/: :// o l !/ /o l.}: : : : : : :`:ヽ 、
                  /:,.-ーl { ゙-"ノノl l. ゙ ‐゙ノノ,,,_: : : : : : : : : :ヽ、
              ゝ、,,ヽ /;;;;;;;;;;リ゙‐'ー=" _゛ =、: : : : : : : :ヽ、
              /  _________`゙ `'-- ヾ_____--⌒     `-: : : : : : : :
...-''"│    ∧  .ヽ.  ________   /   ____ ---‐‐‐ーー    \: : : : :
    !   /   .ヽ  ゙,ゝ、      /  ________rー''" ̄''ー、    `、: : :
    .l./     V   `'''ー-、__/__r-‐''"゛     ̄ ̄   \   ゙l: : :
                   l     .,.. -、、 _ ‐''''''''-、    l   !: :
                  |   /    .| .!     `'、  |   l: :
                      l   |     .l,,ノ     |  !   !: :
                       / '゙‐'''''ヽ、 .,,,.. -''''''''^^'''-、/  l   !: :
             r―- ..__l___    `´            l   /   /: :
                \      `゙^''''''―- ..______/_/   /: : :


                        朝鮮妖術だって!?
                        君は一体なにを考えてるんだ!!
                ⌒ヽ       どこかの無敵柳生に
          ( ⌒ ヽ   (    )  唐竹に割られてもいいのか!?
    , ─ 、   (    )      ー \\     , -───- 、
  (_l_l_l_ j    ///             /ヽ           \
  ヽ ⊂ノ , ──- 、          /<ノ── 、      ヽ    
    |   |/ ______ヽ  /^)、   _●ー ´三    \     ヽ
    |   |  | ノ ⌒ヽ⌒ヽ| /⊃ヽ_) (    /⌒ヽ    ヽ      | 
    |   |  |─|  >|< |/  _ノ    ̄ ̄     i    |      |
    |__|⌒  `ー  o ー| /           __|     !     !
    |   |、  /⌒ー──つ/           (  !   /    /
   |  |ヘ ヽ、(二)ノ</          __  _`_ノ  /     /
    |  \/\//           ( __)━━━━━━━l
    /       /               \           |
 うるさい!
 今こそ朝鮮五千年の恨を晴らす時なんだ!


 とか言い出して、途中でスネ夫がしぼんだり、ドラえもんが変なフラグ立てたり、
のび太が死んで復活したりした挙句、途中で日記の文字数上限をオーバーするので
残念であり、何より話がまとまらないので、普通に書きます。
(なお元ネタはこちら→【のび太「ドラえもん!どうして〜なの?」シリーズ】)


 まあ、前から用意してたネタなではありますが、
入れるタイミングをどうしたもんか、と思案してたので砂。
てなわけで、せっかく「活人剣・治国平天下の剣」の話も書いたことだし、ここで。
十兵衛話とかは次までお待ちを。


 さて、当方自身も散々ネタにしているわけですが、
宗矩といえば暗黒野郎、暗黒野郎といえば宗矩というくらい、
戦国末期から江戸時代初期を舞台にした歴史伝奇における宗矩の黒さは定着してるわけなのですが、
そもそも、何故に宗矩は暗黒野郎呼ばわりされるようになったのか、という点について、
今ひとつすっきりしない点があるわけで砂。


 以前、三田さんが伝奇方面から手繰っていって
五味康祐柳生一族の陰謀隆慶一郎」という地獄コンボの存在を推察しておられたのですが、
それにしたって100%伝奇のみでここまでイメージが固まるのもおかしな話なわけで、
やはり、史実的に見ても何か理由になるものがあるのではなかろうかと。


 実際、伝奇世界では元気に暗黒野郎であるところの宗矩くんですが、
史実における宗矩はどうだったのか、というと、今まで書いてた通りであり、
特に悪行を行ったわけでもなく、せいぜいやってても沢庵からの説教にある


 「好き嫌いでえこひいきすんな。賄賂取るな。
  人んちに押しかけて能踊るな。あと煙草止めろ」


 てなところで、これでは到底暗黒野郎などと呼ぶには物足りぬ有様です。
(友矩の件は不明瞭な上、一概になんとも言えないので除外)


 そう、具体的に言えば、


 「秀忠と暗黒ブラザーズを組んで、
  徳川に歯向かう物どもは裏柳生で37564(皆殺し)」


 「いと貴き血筋に連なる方々とてなさけむよう。
  あのう、これなんてエロゲ?(つか隆慶先生って怖いもん知らずだよなあと)」


 「柳生新陰流の天下の為には強い他流派は邪魔なので
  敵と敵を遭わせて「剣士対消滅ゥ!!(剣士公務員説)」」


 「役立たずや邪魔者は身内だって容赦しねぇ。
  『そういえば、あの韓人はどうなりましたかな?』
  『知らぬわ。どこぞで野垂れ死んでいるであろう』」


 くらいのことが史実でないと、暗黒野郎とはとてもとても…。
ああ、ぼくらのむねのりくんはどこにいってしまったのカシラ?


 とはいえ、斯様なステキ宗矩くんが醸成されるには、
何かしら史実上の土台があるはずで、それは一体なんじゃろか、ということで、
今回は史実の方面から、宗矩が暗黒野郎呼ばわりされる理由を推測してみようかと。


 さて、まず、何を以って宗矩が暗黒野郎呼ばわりされているのか、というと、
上に述べた通りの所業をやっていたからである、というのがあるわけですが、
その所業自体は虚構であるにしても、世の中には妥当性という概念が存在し、
「宗矩ならば、そんなことがあってもおかしくない」という評価があるからこそ、
そういう虚構が形作られるわけでアリマス。


 しかし、前から長々と書いていた通り、史実における宗矩は、
むしろ謹厳実直ながらも情味溢れるといっていい人物であり、
ここからでは何故暗黒呼ばわりされるのかがわかりません。


 なので、ここで視点を換えることにします。
即ち、歴史的な見地、支配者的な見地から見た宗矩ではなく、
剣士としての宗矩を、同じ世界に属する一武芸者の視点から眺めた時、
果たして、「柳生但馬守宗矩」という人物は、どう見えるのか?


 まず、ポイントとなるのは、
「宗矩が武芸者の世界において当時最高の権威であった」という点です。
要するに、将軍家剣術指南役にして、「天下一」の流派の当主である、ということで砂。


 どういうことかといいますと、
数多くいる武芸者にとって、概ね共通する目的と言えば、


 「自分自身、もしくは自分の流派が天下一となること」
 「そして、その天下一の称号に見合った待遇を得ること」


 この2点になるわけですが、
これがまだ「天下一」が未確定の時代であるならばよかったのですけど、
困ったことに、幕藩体制が確立するに従い、将軍家御流儀たる柳生新陰流
そして、将軍家剣術指南役たる宗矩が、天下一という扱いを受けることになります。


 つまり、自分以外の人間が、天下一になってるわけです。
その武芸者の主観に基づくならば、己こそが相応しいはずの位置を
他人が占めているわけですよ。
まあ、好意的になれるわけありませんな。


 そして、この主観は、武芸者の数だけ存在するわけで、
中には、実際に天下一を名乗れるくらいの腕前を持った武芸者もいたでしょうし、
そういう武芸者であれば、彼を主役に据えた話(講談話)とて出てくるわけですよ。
そうなれば、その物語において、宗矩が敵役・悪役扱いされることもあるわけです。
しかも、そういう武芸者は、別に一人とは限らないわけで、
つまり、武芸者の数だけ、敵役たる宗矩像が生み出されていったと考えられるわけで砂。


 さて、話は続きます。
結果的に宗矩は天下一と呼ばれるようになったわけですが、
そうなると、宗矩に挑んでこれを倒し、その称号を奪おうとする武芸者が出るのも
まったく自然な展開なわけで砂。
さながら、吉岡一門に勝負を挑んだ武蔵の如く。


 しかし、吉岡と宗矩には決定的に違う点がありました。


 「宗矩は、既に立ち合いに意味を感じていない」


 という点です。
先に説明した宗矩の思想、即ち「兵法家伝書」で述べてある通り,
宗矩にとって、単なる立ち合いはほぼ無益であり、
おまけに、そのように縁の無い武芸者に挑まれる分については、
「斬られなければ勝ち」であり、いちいち取り合う必要すらない、
というのが宗矩の認識であったわけです。


 おまけに、無理に武芸者側が挑もうにも、
天下一呼ばわりされている頃の宗矩は、既に従五位下但馬守の身分であり、
一介の武芸者風情では、そもそも話しかけることすら難しかったわけです。
ましてや、無理に挑んだ場合、勝とうが負けようが、
その武芸者は"但馬守殿を襲った曲者"になるわけで、
そうなれば、天下一もクソもないわけですよ。
つまり、宗矩自身が乗ってきてくれない限り、手が出せないわけで砂。


 ,.――――-、
 ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
  | |  (・)。(・)|
  | |@_,.--、_,>  「それがし、そこ許とは位が違うでござる」の巻
  ヽヽ___ノ
 宗矩くん(武芸者視点)


 しかし、先の述べた通り、宗矩が武芸者相手に立ち合いをすることなど、
まずあり得ないわけですよ。
つまり、如何に腕に自信があろうと、宗矩が立ち会ってくれない以上、
絶対にその武芸者は天下一になれないわけです。
(まあ、「柳生但馬はワシとの勝負を避けたのだ」と喧伝するくらいはできるでしょうが)
武芸者の主観的に、これほど理不尽な相手はいないことでしょう。
こうして、先の武芸者主観の話における宗矩像のマイナスイメージは
更にヒートアップしていくわけで砂。まさに最高値更新。


 そして、これが一番の問題なのですが、
そのような理不尽(=武芸者の筈の宗矩が立ち合ってくれない)に身悶えする武芸者に対し、
その武芸者が、己の価値を認めてもらいたい相手、
即ち、己に仕官を求めてくる大名家であり、己の天下一を認めてくれる将軍家という存在が、
武芸者の武芸者たる価値、即ち、「立ち合って強い」ことを
「匹夫の勇」とか言い出すようになるわけでアリマス。
セリフにすれば、「単に立ち合って強いからってそれだけじゃあねえ」と。


 当然、武芸者は悲憤慷慨します。


「どういうことだ。武芸者は強さこそが第一ではないか。
 強さこそ至上。勝ってこその強さの証。その極みこそが"天下一"ではないか」


 それに対して、返ってくる答えはこうなるわけです。


「一対一で立ち合って、それで勝った価値など多寡の知れたものだ。
 そのような小なる兵法ではなく、大なる兵法にこそ価値があるのだ。
 それこそが"天下一"の名に相応しい剣なのだ」


 つまり、ご存知の通り、宗矩の「活人剣・治国平天下の剣」こそが、
今回、この武芸者に襲い掛かった大理不尽なのでアリマス。
要するに、武芸者の価値観そのものが完全否定されるようになったわけで砂。
(この場合、上記の「柳生但馬はワシとの勝負を避けたのだ」発言すら、
 「流石は柳生殿。野卑な挑発など意にもかけぬ、まさに天下一」とか返されてしまう)


 己が得て然るべき地位を占め、
 しかも、立ち合いにも応じず、
 おまけに己の強さの意味そのものを打ち砕いた。


 …極めて主観的とは言え、これで恨まれなかったらおかしいですわな。
もうマイナスイメージとかそういう次元じゃねぇよこれ、というところでしょうか。
宗矩が「剣の意味を変えた」ことは、剣術を救うことも、
更なる世界へ引き上げることもできたわけですが、
それを使う武芸者個人を打ちのめした、というわけで砂。


         ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
         (.___,,,... -ァァフ|          あ…ありのまま 今 言われた事を話すぜ!
          |i i|    }! }} //|
         |l、{   j} /,,ィ//|       『一番強い武芸者こそ天下一のはずなのに、
        i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ         いつの間にか違う事になっていた』
        |リ u' }  ,ノ _,!V,ハ |
       /´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人        な…何を言ってるのかわからねーと思うが
     /'   ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ        おれも何を言われたのかわからなかった
    ,゙  / )ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉
     |/_/  ハ !ニ⊇ '/:}  V:::::ヽ        頭がどうにかなりそうだった…
    // 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
   /'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐  \    使うのが槍だとか弓だとか
   / //   广¨´  /'   /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ    そんな直接的なもんじゃあ 断じてねえ
  ノ ' /  ノ:::::`ー-、___/::::://       ヽ  }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::...       イ もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…
         武芸者Pさん(仮名)


 まあ、言ってみれば、「天下一」という言葉に対する意味の捉え方が、
武芸者と宗矩(を認める将軍家や大名家)で変わってしまった故の悲劇、ということで砂。


 武芸者にとっての天下一(の達人)とは、先にも書いた通り、
「立ち合って一番強い奴」、つまり「最強」を指すわけで砂。


 しかし、宗矩側の価値観における天下一(の達人)とは、
「将軍家、大名家など、統治者が学ぶに相応しい剣を指南する者」なわけですよ。
言ってみれば、「最優」とでもなりますかね。


 この認識のズレこそが、両者のズレにつながるわけですが、
問題なのは、そのズレの存在に気づかぬまま、
両者とも自分の価値観で「天下一」という言葉を使っており、
そのまま「天下一」の宗矩を論じているわけですよ。
実は宗矩一人だけ評価基準が違うのに。


 だから、宗矩が「天下一」と認められていることに対して、
武芸者達は納得しないわけで砂。
「あいつは武芸者としては論外な奴なのに、なんで天下一なんだ!」と。


 こうして、宗矩を認められない大多数の武芸者達の怨嗟の声によって
そこから生まれる様々な推測、即ち、


 「あんな奴が天下一を名乗れるのは何か理由があるからだ」
 「きっと上様に上手いこと言って取り入ったに違いない」
 「いや、将軍家の秘密を握っているからこその地位かもしれぬ」
 「強い奴は門下の者どもを使って闇討ちしているのだ」
 「幕府の忍を使って敵対する者どもを黙らせているのでは」


 という類の主観的推測による悪評、現代で言うところの陰謀論が花開くわけで砂。
つまり、剣士としての宗矩を認められないが故に、
剣士として以外の宗矩の力(暗黒方面)が過大評価される、ということでアリマス。
これが宗矩が暗黒野郎としてフォームチェンジする根源であろうと。
即ち、


 「口舌によって上様を誑かし、武芸の強さに拠らずして天下一の称号を掠め取り、
  しかも、権勢に頼って立ち合いを行わず、保身に走る卑劣漢」


 という典型的暗黒宗矩の原形を醸造したのではないかと。
(宗矩の陰謀とか裏柳生とかは、ここから派生した副産物と言えそうで砂)
言うなれば、「人の悪の心がワシを生み出したのじゃー(by黒宗矩)」というところですか喃。


 つまり、結論を言えば、


  「天下一」という言葉への認識のズレ


 これこそが、史実における暗黒宗矩の胎だったんじゃなかろうかなあと。
そう思うと、宗矩に対する評価が分かれがちなのも、当然なのかもで砂。
「誰の視点で見るか」で、評価が全然変わってしまうわけですし。


 実際、宗矩や江戸柳生関係者の視点で見た場合、
宗矩は「剣禅一如を成し遂げた剣の達人」として描かれているわけですが、
それ以外の人物から見た宗矩は、程度の差こそあれ、
上記のような「武芸者ではない人間」として描かれていますし。
(実際、一番江戸柳生家と比較されたであろう小野家だと、伝書にすら、
 「超強い忠明は柳生をブチのめしました。一刀流超強eeee!!(大意)」って話が出てきますし)


 そういう意味では、
宗矩視点、または江戸柳生関係者視点で宗矩が黒いってのは、
発想の逆転的なところもあったのかしらん、と思ったり。
逆に武芸者視点での剣聖宗矩話とかはあんまり知らないのですが、あるんでしょうか喃。


 ただ、この一連の話に一つ問題があるとすれば、ガチで宗矩が


「浪人の武芸者なんぞ治安の不安定要因にしかならんし、
 要は普通の武士がこぞって武士の道として剣術をする環境さえ整えばいいけど、
 ついでに(浪人の)武芸者も消えてくれたら一石二鳥」


 とか考えてた可能性は否定できないって事ですか喃。
そうであれば、剣術を生き残らせることに執心することと、
従来の武芸者を打ちのめすことは、矛盾しませんし。
即ち「史実準拠型暗黒宗矩」!


 そして、ここで宗矩がそんなことをまったく考えておらず、
ただただ剣を救う、あるいは変えることしか考えてなくて、
これこそ太平の時代の剣、新たなる剣である、とか思ってたのであれば、
それこそまさに、


               |    |    | _  厂    〈 λ___|
               | 宗 |   !´ ̄ ヽ      |  ヽ、TG |
               | 矩 |   |   ノ\〉    |    工工)       や
               |  ・ |   〉___\ / __ノ    (TG|     こ は
/ ̄ ̄\             | ・  |   `〈W)\/∠(Wフフ|    ̄ ̄)    い り
  真   |         ___l ・ >   〉 ̄Y′   ̄  |    __r'ヽ    つ
  ノ   |      /君\  丿    ヽ_/ \______/△CTヽ  が
  邪   |__     ( こ  ノ ̄       \△CTG△CTG____∧__|  !?
  悪   /     \そ _>        `,〜ーへ ̄ ̄ / ○  ̄   ▽
  ダ   |         ̄           冫ー^^′G/▽     (>ヽ
\__/                     ,ヽ---/  // 冫⌒ヽ〜ー ヽ
              _/\⌒▽~ ̄ヽ/<) /△__///△CTG △C\\
          ▽" ̄冫<)/丶 ー\▽ 
   _,△〜'ー,〜´ ̄_/ヽ/ \▽\ \┤\


 …ということなのかしらん、と。
『地獄への道は善意で敷き詰められている』という言い方もできるんじゃろか。
これぞまさに「真・宗矩暗黒伝説」なのかと。


 ただ、当時の情勢を考えれば、確かに戦国の価値観を引きずった浪人が、
その価値観のまま罷り通る世の中を幕閣として何とかする必要があったでしょうし、
その方向で見れば、直接的な手段で弾圧してないだけ、宗矩の措置は
まだ穏当(というか生き残りの余地を与えてる)といえるとは思うのですが、
当の武芸者からすれば、「そんなの知らねぇよッ!」と言いたくなるのも
また事実ではあるので、やっぱり価値観のズレだよなあ、と。


 しかし、こうして思うと、当時の武芸者も気の毒で砂。
せめて相撲取りみたく、単に剣の腕だけを競うような競技の場と、
そこで最強を表す「天下一」以外の称号(それこそ横綱でも)を考えてやればよかったのに、
と思わなくもないですが、まあ、こんなもんは後知恵ですわな。


 とはいえ、それをやっていたとしたら、
果たしてどんな風になっていたのか、若干興味がありま砂。
リアルシグルイワールドでも現出してたんですか喃。


 てなところでシメをば。


    >-――― - 、 ___
    >_____/      ̄\    
     |, ―、, ―、/(/o(ヽ)―-、   ヽ
     ||  @| + ||ニ(( | ( ( 二二ヽ  |  よかった…。
     |` -c −´|- ) )| ) )―― |  |
    ( ー――,(__| ( ( _, |  |   のび太くんが元に戻って本当に良かったよ。
      > 二 ´_ ヽ   ̄ ̄   / ノ    (色々あったみたいです。ネオ百済党事件とか)
     /   |   { ̄ ̄ ̄ ̄ ̄二二)     
    /  | `− ´――――      |
  /_./ |      |――┐ |      |
 (っ  ) |      |   ノ  |      |-O

もう朝鮮妖術なんてコリゴリだよ、
ドラえもん…。


これからは心を入れ替えて、武士の本分を果たすよ!

       / ____ヽ           /  ̄   ̄ \
       |  | /, −、, -、l           /、          ヽ
       | _| -|  ・|< ||           |・ |―-、       |
   , ―-、 (6  _ー っ-´、}         q -´ 二 ヽ      |
   | -⊂) \ ヽ_  ̄ ̄ノノ          ノ_ ー  |     |
    | ̄ ̄|/ (_ ∧ ̄ / 、 \        \. ̄`  |      /
    ヽ  ` ,.|     ̄  |  |         O===== |
      `− ´ |       | _|        /          |
         |       (t  )
                         どうやってさ…


         ___                
       / ____ヽ           
       |  | /, −、, -、l        
       | _| -|○ | ○||  駿河大納言忠直卿の御前試合に出場するんだよ!
   , ―-、 (6  _ー っ-´、}    
   | -⊂) \ ヽ_  ̄ ̄ノノ      
    | ̄ ̄|/ (_ ∪ ̄ / 、 \       
    ヽ  ` ,.|     ̄  |  |      
      `− ´ |       | _|  


::::::::::::::::::::   ____,;' ,;- i
::::::::::::::::   ,;;'"  i i ・i;
:::::::::::::  ,;'":;;,,,,,, ;!, `'''i;
:::::::::  ,/'"   '''',,,,''''--i
:::::::  ;/  .,,,,,,,,,,,,,,,,,   ;i'"`i;         
:::::  i;"     ___,,,,,,,  `i"         
::::: i;    ,,;'""" `';,,,  "`i           
::::: |  ''''''i ,,,,,,,,,,  `'--''''"        
::::: |.    i'"   ";|                
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::::::  i;     `'-----j 

 , 亠 、         __     __
  〃´`ヾ, _  _ ,r'r−‐ニニ−、ヽ  _i,. -−'r__   __,〃−‐‐、ヽ //´ ̄`!i
  ll    l(,_,卵,_,)〉ヽ、_, - 、_,ノノ‐'二!、_f_,ノ ̄`i`!j( ̄`ヾ    //__//   〃
  ll  〃 ̄`ヾ'v'r'´ ̄` ー ´ ̄`i.(__     / r−ニー'  ,. −‐、く   //___
  ll  ヾ:、,_,ノ八`'ー‐─‐ァ  ,rシ‐ァ/     く ,.−'=、=′,.ィ '、    }.}    Y´ ̄`ヾ:,
 .jj,.− 、 |「 ̄´ r'r'´ ̄`'く / ,. /   ,.、   {     }}  (_,ノ `ァー ツ ,.ィ  '、___,ノノ
 {{,    ,}}    '、'、   ノ/  //  / 'ヾ:、  `'┬'ツ     // ̄ /ィ.|    //´
  `'=='´     ``'='´´  ヾ='´´   ヾ'='´'~`ヾ'=='´´ヾ'='´´ ヾ'=='


                     のび太駿河城御前試合



   〜完〜

【柳生一族、そして宗矩】その22:柳生但馬守宗矩(10)「心法の江戸柳生:解説・兵法家伝書(2)「活人剣(かつにんけん)」」

 さて、当初の予想以上に長くなってしまいましたが、
今回で「江戸柳生の心法」について締めるでありますよ。
てなわけで、「兵法家伝書」の最後の一篇「活人剣(かつにんけん)」の説明と、
まとめをばー。


■「活人剣」


 殺人刀と比して、内容的にまったく違うことが書いてあるわけではないです。
基本的に言ってることは同じなのですが、ポイントとなるのは、
やはり最後の方にある「無刀之巻」で砂。


 最初の方で「柳生新陰流の特異性は無刀取りにあり」と書いたわけですけど、
その特異性が、更に柳生一族最大の特異点たる宗矩の手に掛かった時、
一体どうなってしまうのか、そこが見所のひとつでアリマス。


 てなところで、お楽しみはもう少しだけお待ち頂いて、
先に、それ以外の箇所での「活人剣」の項目の抜粋と概要を。


『百様の構えあり共、唯一つに勝つ事。
 右きはまる所は、手字種利剣、是也』

概要:構えなんかいくらあっても関係ないよ。
   相手の動き読んで、それに合わせりゃいいんだ。
   そうすりゃ相手がどう動こうが対応できる。
   「相手の手の内を読む」これが大事なの。


『一去と云ふ心持の事』
『空の心持の事』
『棒心の心持の事』

概要:あれこれの悩みや執着をまとめて吹っ切って、
   相手が何を考えてるのかだけ見抜くことに集中しろ。
   相手の考えが見抜けりゃ、どう動くかもわかるでしょ?
   まあ、そこまで至るのはそう簡単にできることじゃないから
   だからこそ禅をやりなさい禅を。


 「無刀之巻」までで要点になるはこの2つで砂。
なお、『手字種利剣〜』の後には「有無の拍子」「水月」「神妙剣」「是極一刀」とか
あれこれカッコイイ言葉が入るのですけど、その辺を書くとますます延びるので、
今回はスルー(まあ、個別の剣術技法を統治に応用する際の心得、てな内容で
アリマス)。
いずれ現代語訳「兵法家伝書」でもやるべきなんでしょうか喃。


 さて、お待たせしました。
ようやく「無刀之巻」のところまできましたので、
宗矩が言う「無刀取り」とは何ぞや、というのがわかるものを
抜粋&意訳するでアリマス。
ちょいと長いですけど、面白い部分でもありますので。


【無刀之巻】


『無刀と云は、人の刀を取ル藝にはあらず、諸道具を自由につかわんが為也。
 刀なくして人の刀をとりてさへ、我が刀とするならば、
 何か我が手に持て用にたたざらん。
 扇を持てなりとも、人の刀に勝べし。無刀は此懸りなり。かたなもたずして、
 竹杖ついて行く時人寸のながき刀をひんぬいてかかる時、竹杖にあしらひても、
 人の刀を取り若し又必ずとらずとも、おさへてきられぬが勝也。
 此心持を本意と思ふべし』

(意訳:無刀取りってのは、別に刀取ることじゃないんだよ。
    杖でも扇でも何使ってもいいから、斬られないように持ち込めばいいんだよ。
    とにかく斬られなきゃいいんだよ。それが大事なの)


『無刀とて、必しも人の刀をとらずしてかなはぬと云ふ儀にあらず、
 又刀取て見せて是を名誉にせんにてもなし。
 我が刀なき時、人にきられじとの無刀也。
 いで取て見せるなどと云事を、本意とするにあらず』

(意訳:なんか誤解あるみたいだから言っとくけど、
    無刀取りって刀取ることじゃないよ?
    要は獲物が何も無い時に斬られないためにやることが無刀取りなんだよ。
    だから、無刀取りなんかわざわざ自分からやるもんじゃないよ)


『とられじとするを、是非とらんとするにはあらず、
 取られじとするをば、とらぬも無刀也。
 とられじとられじとする人は、きらふ事をばわすれて、
 とられまいとばかりする程に、人を切ル事ばなるまじき也。
 我はきられぬを勝とする也。人の刀を取るを、藝とする道にてはなし。
 われ刀なき時に人にきられまじき用の習也』

(意訳:大体、別に無刀取りってったって無理に取らなくていいんだよ。
    向こうが無刀取り警戒して、斬りかけてこなけりゃそれでもいいんだから。
    こっちは斬られなきゃ勝ちって思えばいいんだよ。
    大体、見世物じゃないんだから刀なんかわざわざ取ってどうするの?
    馬鹿なの?死ぬの?
    刀がない時、斬られない為の技なんだよ、コレは)


『無刀は取る用にてもなし。人をきらんにてもなし。
 敵から是非きらんとせば、取るべき也。
 取る事をはじめより本意とはせざる也。よくつもりを心得んが為也。
 敵と我が身の間何程あれば太刀があたらぬと云事を、つもりしる也。
 あたらぬつもりをよくしれば、敵の打太刀におそれず、
 身にあたる時は、あたる分別のはたらきあり。
 無刀は刀の我が身にあたらざる程にはとる事ならぬ也。
 太刀の我が身にあたる座にて取ル也。きられてとるべし』

(意訳:なんか何回も言ってるけど、わざわざ刀なんか取らなくていいんだよ。
    要は斬られなきゃいいんだから、それこそ離れてたら済むだろ?
    それでも向こうが斬ってき時だよ。刀取るのは)


『無刀は人に刀をもたせ、我は手を道具にして、仕合をするつもり也。
 しかれば刀は長く手はみぢかし、敵の身ぢかくよりて、
 きらるる程にあらずば、成間敷也。
 敵の太刀と我が手としあふ分別すべきにや。
 さあれば、敵の刀は我が身より外へゆきこして、
 われは敵の太刀の柄の下になりてひらきて、
 太刀をおそふべき心あてなるべきにや。
 時にあたつて、一様にかたまるべからず。
 いづれも身によりそはずば、とられまじき也』

(意訳:もし、無刀取りする羽目になったら、無刀じゃなくて、
    自分の手を道具として持ってるつもりでやれ。
    で、手は刀と比べたら短いから、やるなら敵の懐に飛び込め。
    あと変に集中すんなよ?無心だ無心)


 如何でしょうか。
これが、柳生石舟斎直々に柳生新陰流印可を受けた達人、
将軍家剣術指南役・柳生但馬主宗矩の説く「無刀取り」でアリマス。
「実も蓋もない」とはまさにこのことでありま砂。
剣禅一如とかいう単語の持つ精神的なイメージが一瞬で崩壊するくらいの
合理性の塊みたいな思想でアリマス。


       、--‐冖'⌒ ̄ ̄`ー-、
     /⌒`         三ミヽー-ヘ,_
   __,{ ;;,,             ミミ   i ´Z,
   ゝ   ''〃//,,,      ,,..`ミミ、_ノリ}j; f彡  如何なされたのでござるか○○殿?
  _)        〃///, ,;彡'rffッ、ィ彡'ノ从iノ彡
  >';;,,       ノ丿川j !川|;  :.`7ラ公 '>了  武芸者が立ち合いをしつこく挑んでくる?
 _く彡川f゙ノ'ノノ ノ_ノノノイシノ| }.: '〈八ミ、、;.)
  ヽ.:.:.:.:.:.;=、彡/‐-ニ''_ー<、{_,ノ -一ヾ`~;.;.;) ○○殿
  く .:.:.:.:.:!ハ.Yイ  ぇ'无テ,`ヽ}}}ィt于 `|ィ"~
   ):.:.:.:.:|.Y }: :!    `二´/' ; |丶ニ  ノノ  それはまともに断ろうとするからでござる
    ) :.: ト、リ: :!ヾ:、   丶 ; | ゙  イ:} 
   { .:.: l {: : }  `    ,.__(__,}   /ノ   逆に考えるのでござる
    ヽ !  `'゙!       ,.,,.`三'゙、,_  /´   
    ,/´{  ミ l    /゙,:-…-〜、 ) |        「逃げちゃってもいいさ」と
  ,r{   \ ミ  \   `' '≡≡' " ノ  
__ノ  ヽ   \  ヽ\    彡  ,イ_           考えるのでござる
      \   \ ヽ 丶.     ノ!|ヽ`ヽ、
         \   \ヽ `¨¨¨¨´/ |l ト、 `'ー-、__
            \  `'ー-、  // /:.:.}       `'ー、_
          `、\   /⌒ヽ  /!:.:.|
          `、 \ /ヽLf___ハ/  {
              ′ / ! ヽ
     「柳生宗矩、無刀取りを語る」(イメージ図)


 方向性変えたら、


 「刀で敵が倒せない?じゃあ人数集めてかかれ。
  それでダメなら銃でも弓でも使え。数が足りなきゃ増やせ。
  それでダメならどこかに追い込んで火でもつけろ。
  それでもダメなら家族探して脅せ。要は倒せばいいんだよ、倒せば」


 とか言い出しかねないくらいの合理性っぷりで砂。
素晴らしい。


 とにかく、これからの太平の時代に対応した剣術とはなにか、という思案が
立ち合いの面に表れた時、「立ち合い(の価値)を否定する」という結論に至った上、
それを書いちゃう&上様に提出してしまうのが宗矩の宗矩たるところであり、
まさに面目躍如でアリマス。
実際、ここまでストレートに立ち合いの価値を否定してる剣士ってのも珍しいで砂。
これじゃ立場を別にしても、宗矩が立ち合いに応じないのも当然かと。


 これ読んで、「…なんか卑怯じゃね?」とか言う家光に対して、
「立ち合いの勝ち負けに執着するなど将軍家のなさることはでございませぬ。
 そのような小なる兵法は将軍家には相応しくございませぬ。
 家光様には是非とも大なる兵法を修めて頂きたく」とか説教モードに
入ったに違いなかろうなと。


 ちなみに、この無刀取りに直接関連する話の後、更に話が続きまして、


『大機大用』
概要:考えを「機」と言い、実際の動きを「用」と言うんだが、
   これが極まって、何をするにも道理に叶うような状態を
   「大機大用」って言うんだよ。
   そうすりゃ習ってない事だって勝手に出来るようになるよ。
   まあ、そうなるには、常々己の心を見つめる必要があるんだけどね。
   そういう積み重ねがないと、そういうことはできないよ。


『兵法の、仏法にかなひ、禅に通ずる事多し』
概要:兵法は仏法に相応しいもので、禅にも通じるところが多くある。
   特に、ひとつの物事に心が執着することを忌む点がそれで、
   これに陥ると、どんな秘奥義を持ってても無駄無駄。
   だから、執着を避けるための心の修行が大切なんだよ。


『胸を空虚になして、平生の何となき心にて、所作をなす。
 此位にいたらずば、兵法の名人とは難言也』

概要:どんな時も普段のままの心でいて、そのように動く。
   それができて初めて名人って言うんだよ。
   まあ、ウチ(柳生家)は兵法の家だから兵法で話したけど、
   こんなもん、別に兵法に限った話じゃなくて、
   なんにしたってそうなんだよ。


 と、いうところまで述べて、「活人剣」も終わります。
流石に全部はなかったのですが、「無刀之巻」のところだけ載せてるサイトが
あったので、そっちもご覧頂ければ重畳ー。


 【兵法家伝書(無刀巻全文)】


 なお、このあと、あとがきが入るのですが、そっちでは本編の話とは裏腹に、


「いや、五十越えて親父(石舟斎)の考えてたことがやっとわかってきたので、
 ちまちまメモっといたのをまとめてみました。うん、これこれ!」


                 |     う
                 |     ん
                 |      、
         , -‐ '三ヾ、∠三z|     こ
     ,. '三三三三三r三三|       れ
.  ∠三三三三三三三!モ三|       こ
  Z三三三三三三三三|ヒ三|     れ
  〉三三ヲ´77'´77  ̄ ̄ ̄`|     !
  '.三「   〃 〃       |
   '.三}  ,.厶‐ナ‐- , -─-└┬────
   '.三〉 r=ニニユ   r=ニニユ レニヽ
  ,.- V    ィfエヌ 、 , rァエラ   |)j /
  !に>'.                  | '/
  ヽ. ゝ'.                 レ'
    `ヽ'.     〈     〉    |
        '.   、 `ー‐ ' ,. -'  /- 、
    厂.∧    ̄`ニ´    /、  ヽ
  ,. ‐7 〈 { \         / !   ヽー 、
'´  /   '. \`ヽ、_____/  l    ヽ
  /    '.  ` ー 、__,. '´    l     ヽ
. /      ,. -‐ 、 //∧     |      ヽ
     _/  i   VV///\  /-<ー─‐- '
== /  、`ー┴、 i 〉〈   ∨   〉
.  /   、  ̄ヽ  !厶 、ヽ  /   /
 /  、 丶 | i  } 、\! /   /
./    `} | / r/.,イ \\l′  /
     (__.ノ_/`´ /.ト、\\!   /
   「柳生宗矩、道の滋味を得る」(イメージ図)


 という具合に、割と生の宗矩の言葉が入ります。
「親父(石舟斎)はえらかったなー」みたいなことを書いてたりしてるので、
謙虚なのか自分ちの自賛してるのかよくわからんのですが、
とりあえず、石舟斎をリスペクトしてるのだけはよくわかるでアリマス。
ちなみに、本編の方で禅絡みの話が出る時「法の師」とか「善智識」とか
そういう呼び名で沢庵を引き合いに出してます。
まあ、この両者の影響が如何に強かったか、ということで砂。


 さて、一通り書いてきましたが、これが「兵法家伝書」であり、
宗矩の主張する「活人剣・治国平天下の剣」の中身でアリマス。
今までお読み頂ければ分かる通り、ここから読み取れるのは、


  「戦乱の時代の剣術から太平の時代の剣術への変換」


 を目指す宗矩の意思でアリマス。
即ち、


       「俺が剣を変えてやる!」


 ということで砂。
俺が強いとか優れてるとかじゃなくて、変えてやる、という意思、
これこそが、宗矩の思想の根源であるわけで砂。
そういう意味では、


     兵法家伝書とはコンバータ(変換機)である


 と言えるのではなかろうか、と。
(厳密にはその中の「活人剣・治国平天下の剣」という概念が、ですが)


 まあ、長くなりましたが、これが「江戸柳生の心法」でアリマス。
厳密に言えば「柳生宗矩の心法」で砂。
(この辺の詳細は後にまた)


 実戦技術としての剣術から完全にかけ離れたシロモノであり、
反面、剣術の持つ、実戦技術以外の要素の終着点にして、
新たなる出発点であるといえます。
また、「剣術」と「禅」と「政治」の思想的合流点でもあります。
その意味でも、これは宗矩の特異性の表れの象徴ともいえます。
当時、この三要素を兼ね備えた人物は、宗矩しかいなかったわけですから。


 当然、従来の剣術の価値をほぼ否定(というか相対的に卑小化)したことへの
反発も大きく、例えば、宗矩の高弟の一人、鍋島忠利の父、忠興(ガラシャの旦那)は


  「新陰は柳生殿(宗矩)よりあしく也申候」


 という具合に批判してたりもしてま砂。
しかし、それでも、この思想は広く伝わり、後の世にも影響していくのでアリマス。

 さて、それでは次は、宗矩以外の江戸柳生の人々についての話をば…、
と思ってたのですけど、話のタイミング的にそろそろかな、というところなので、
次回は例のアレ、


  のび太ドラえもん!どうして宗矩は暗黒野郎なの?」


 を挙げる所存でアリマス。
ふむん。


※ 先に次回の元ネタを紹介しておきます。
 こちらのび太「ドラえもん!どうして〜」シリーズを参照をば。

【柳生一族、そして宗矩】その21:柳生但馬守宗矩(9)「心法の江戸柳生:解説・兵法家伝書(1)「殺人刀(せつにんとう)」」

 さて、前回、前々回と、宗矩の「活人剣・治国平天下の剣」の源流たる
父・石舟斎の兵法観と、友人・沢庵の「不動智神妙録」について説明しましたが、
今回は、その宗矩が書いた「兵法家伝書」を元に
「活人剣・治国平天下の剣」を解説していくでアリマス。


 まず、この「活人剣・治国平天下の剣」がどういうシロモノであるかというと、
今までも書いたことではありますが、


  「剣術を以って治国の術と為し、
   これを修めることを武士たる者の道とする」


 という思想なので砂。


 この思想の前提として、宗矩は剣術をふたつの種類、
即ち、元々の剣術である「闘争のための実用術」を「ちいさき兵法」に、
これに対する「統治のための剣術」を「大なる兵法」に分けました。
そして、


 「剣術は単なる闘争のためだけの術に非ず。
  そのようなものは”ちいさき兵法”であり、大将たるものが修めるものではない。
  大将たるものは”大なる兵法”こそ修めるべきである」


 と称し、従来の剣術に替わる、新たなる剣術像を提案したのでアリマス。
この「大なる兵法」についての解説を行った書物、
それこそが「兵法家伝書」である、というわけです。


 さて、宗矩は、この兵法家伝書を三部構成にしています。
「進履橋」「殺人刀(せつにんとう)」「活人剣(かつにんけん)」の3つです。
このうち、「活人剣」の中に「無刀之巻」という名で、
無刀取りに関する記述が含まれています。


 てなわけで、これから具体的な解説に移るでアリマス。
今回は、基本的にはポイントになる箇所を抜粋し、
そこに超約ばりの意訳と解説を入れ込む形で進めようかと。
毎度のことですが、当方自身、完璧に理解できてるつもりは毛頭ないので、
できれば現物を仕入れて(岩波版なら安いですよ?)、
読んでみられるのがベターかと。


兵法家伝書―付・新陰流兵法目録事 (岩波文庫)

兵法家伝書―付・新陰流兵法目録事 (岩波文庫)


 それでは、まず「進履橋」から。


■「進履橋」
 「進履橋」は、元々の新陰流、
即ち、上泉秀綱より石舟斎へ直伝された新陰流の技法について記した
「大凡の目録」となっており、宗矩本人の言説はそれほどありません。


 ただ、新陰流の基本となる考え、
「相手の心理を読み、それに応じて打つ」も語られているので、
「進履橋」の名前の通り、これを渡って、はじめて殺人刀、活人剣へ
至れるのではないか、というところではあります。


 なので、一文を取り上げるとすれば、この辺りでしょうか。


『わが心のうちに油断もなく、敵のうごき、はたらきを見て、
 様々に表裏をしかけ、敵の機を見るを、策を幃幄の中に運らす』

(意訳:あれこれやって、敵の動きを誘って、
    それにあわせてこっちがどう動くか考えとけ)


 この一文に象徴される新陰流の剣術を修める事で、
はじめて、それを応用する「活人剣・治国平天下の剣」に進める、というわけで砂。

 てなところで、以下、いよいよ本編たる「殺人刀」をば。


■「殺人刀」
 「殺人刀」において、宗矩は、まずこう切り出します。


『兵は不祥の器なり。天道之を悪む。止むことを獲ずして之を用ゐる、是れ天道也』
『一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす
 是等誠に、人をころす刀は、人を生かすつるぎなるべきにや』

(意訳:殺すのはダメ、ゼッタイ。
    でもまあ、仕方ない時もあるから、その時だけはOK。
    例えば、悪党1人のせいで皆が惨い目に遭ってる、てな状況なら、
    そいつを斬ればみんな助かるでしょ?
    これが殺人刀が活人剣になるってことだよ」


『兵法は人をきるとばかりおもうは、ひがごとなり。
 人をきるにはあらず、悪をころすなり』

(意訳:剣術で人斬るな。つーか人斬るのが剣術じゃねぇよ。
    人じゃなくて悪を斬るんだよ、悪を)


 まあ、剣術の意義について述べているわけで砂。
つまり、単に人を斬るのは「殺人刀」で、これは本来よくないものだけど、
これを使わないとダメな時もあって、その時、「殺人刀」は「活人剣」になるよ、と。
逆に言えば、それ以外の時に刀使うんじゃねぇ、と言ってるわけで砂。
(ちなみに、本書のタイトルたる「殺人刀」「活人剣」もこれが命名の由来)


 この辺を更に転じて言えば、


 「剣術なんて使わなくて済むならそれに越したことないよ。
  使う時があったらロクなもんじゃねぇし」


 とも言ってるわけですな。
のっけから従来の剣術否定でアリマス。キャッチーなつかみで砂。
で、そこに続いてこう書きます。


『兵法といはば、人と我立ちあふて、刀二つにてつかふ兵法は、
 負くるも一人、勝つも一人のみ也。
 是はいとちいさき兵法也。勝負ともに、其特質僅か也。
 一人勝ちて天下かち、一人負けて天下まく。是大なる兵法也。
 一人とは、大将一人也。天下とは、もろもろの軍勢也。
 もろもろの軍勢は大将の手足也。
 もろもろの勢をよくはたらかするは、大将の手足よくはたらかする也』
『太刀二筋にて立ちあふて、大機大用をなし、手足よくはたらかして勝つごとくに、
 諸の勢をつかひ得て、よくはかりごとをなして、合戦に勝つを、
 大将の兵法と云うべし』

(意訳:立ち合いなんかやっても意味ないだろ?
    あんなのやってどうするの?馬鹿なの?死ぬの?
    それより大将なら、自らの手足で剣を使う如く
    配下を使いこなす兵法を使いなさい。
    それこそが大将たる者がやるべき「大なる兵法」なんだよ」


 ここで、「ちいさき兵法」と「大なる兵法」が登場し、
同時に、「大なる兵法」こそ、望ましいものであると述べています。
まあ、「大将たるもの」って書いてる時点で、
読ませる相手が家光(or大名家クラス)なのが丸分かりで砂。
普通の弟子に読ませるなら、大将云々って下りは意義が薄れるところがありますし、
立ち合いを殊更に否定してるのは、あくまでも家光には、
「活人剣・治国平天下の剣」に執心して欲しい、という表れなのかなあと。
(ちなみに信憑性は不明ながら、家光には辻斬り疑惑がありまして、
 宗矩が変装して先回りし、斬りかかってきたその刀を無刀取りして、
 家光をお堀に叩き落して懲らしめた、という逸話もあります)


 そして、最後の詰め。
この「大なる兵法」をどう使うべきか、ということについての話になります。


『大将たる人は、方寸の胸のうちに両陣を張りて、大軍を引きひて合戦して見る。
 是心にある兵法也。治まれる時乱をわすれざる、是兵法也。
 国の機を見て、みだれむ事をしり、いまだみだれざるに治むる、是又兵法也。
 すでに治まりたる時は、遠き国々のはてはてまでも、そこの国へはたれ、
 ここの国はへたれたれと、受領・国司を定め、国の守をかたふする心の配り、
 是又兵法也』

(意訳:大将は合戦する時、勿論(大なる)兵法を使うけど、
    平和な時、国を治めることも実は兵法なんだよ。
    戦乱が起こる前に手を打つのも兵法だし、国が平和なら、
    その維持のために、誰を何処に配置するか考えるのも兵法なんだよ)


 こうして、「大なる兵法は合戦だけではなく、統治にも使えるものである」
と言い切ることで、


 「そもそも立ち合いなんてロクなもんじゃねぇ。
  そんなもんのために剣術使って何の意味があるんだよ」
    ↓
 「そういうのは”ちいさき兵法”ってもんで、
  大将が使うべき兵法ってのは”大なる兵法”なんだよ」
    ↓
 「”大なる兵法”は合戦のためだけじゃなくて、
  統治にも使えるんだよ」


 という三段論法(になってるんじゃろか…)を組み上げた宗矩は、
ここから、そのための心得について語り始めます。
この辺はやたら長い上に細かくなるのでいくつかの項目名と概要の紹介でご勘弁。


『大学は諸学の門也と云ふこと』
概要:大学という経書があるけど、あれは他の学問の前提になる書物で、
   学問を家に例えたら、門みたいなもんである。
   で、学問自体も、道を究めることを家とするならば、その門たるものである。
   だから、書物だけ読んで分かった気になったら大間違いだ!
   文章は教えの手引き程度のもので、教えそのものじゃねぇよ。
   その辺、勘違いしたらロクな奴にならんぞ。


『大学に、知致格物と云ふ事あり』
概要:大学に「知致格物」って言葉があるけど、
   要するに、理も事も全部修めた「無心」の状態になるってことだよ。
   そうなりゃ無敵だ。何にも考えなくてもベストな動きができる。
   それが目指すべき境地だから、そうなれるように頑張って修行するんだよ。


『表裏は兵法の根本也』
概要:兵法の基本は、裏表を使い分けることだ。
   相手が掛かってくるならそれに合わせて、
   掛かってこないなら、掛かってこさせるように仕掛けて、
   それに合わせてあれこれやるんだよ。
   ほら、方便って言うじゃろ?
   ウソかましても、最終的に世の中の平和に繋がれば、
   それでいいんだよ。


『平常心是れ道』
概要:「道」ってのは「いつも通りの心」でいることだ。
   何をするにしても、「何かをするぞ」とかいちいち考えてたらダメだ。
   そんなことを考えてたら、すぐ失敗するしな!
   いつも通りに自然にやれるようになったら成功できるようになるよ。
   いつもそういう風になってる奴こそ「名人」って言うし、
   そういう心の状態を「平常心」って言うんだよ。


『放心心を具せよ』
概要:なんかやった時、いちいち済んだことを考えるな。
   そういうのは不自由なんだし、よくないぞ。
   そこから離れられるように色々心得とかもあるけど、
   それが要らなくなるようにがんばれ。


 この他、剣術の具体的な技法(視点のポイントとか、動き方とか)を説いたり、
それを統治に使う場合、どういう場面で使うものなのか、と応用について話したり、
「もし攻撃するなら、相手を倒すまで攻撃しろ。反撃させるな。
徹底的にブチのめせ」とか言ったりと、細かな話も続きますが、
概ねのポイントはこんな塩梅でアリマス。
具体的な身体技法よりも、まず「心」ありき、というのがよく分かりま砂。
まさに「心法」。


 ここまでが「殺人刀」でアリマス。
このあと、「活人剣」になるのですが、これまたやたらな分量になったので、
今回はここまでで。