【柳生一族、そして宗矩】その24:柳生但馬守宗矩(12)「江戸柳生の人々(2):友矩、宗冬、列堂」

 さて、宗矩を祖とする江戸柳生家の人々について語るこのお話、
前回は十兵衛だけで1話使ってしまったので、今回は残り三兄弟をまとめて紹介。


  次男:柳生刑部少輔友矩
  三男:柳生飛騨守宗冬
  四男:柳生義仙列堂


 これら3人の話をしていくでアリマスよー。


 てなわけで、まずは宗矩の次男にして、
柳生随一の美形、と謳われた友矩の話から。


■「美人薄命」柳生刑部少輔友矩

 慶長十七年(1612)、十兵衛より年後に友矩は生まれました。
幼名は左門。宗矩42歳の時の子で、十兵衛、宗冬と違い、妾腹と言われていますが、
実際、誰が母親であるか不明なので砂。
一部では、母親は列堂と同じく近隣の農家の娘、お藤であると言われているのですが
一説には、若い頃の宗矩が出入りしていたという烏丸少将の娘こそが
友矩の母ではないか、とも言われており、この辺は謎でアリマス。
(石舟斎の遺言状に"おはねのひいさまの屋敷"なる言葉があり、
 これがその事を指しているのでは、と言われてますが…)


 ともあれ、正妻腹の兄、十兵衛がいる以上、
妾腹の友矩は陽の目を浴びることもなく終わる可能性もあったわけですが、
寛永四年(1627),宗矩は友矩も家光の近習として城へ上げます。
前年、家光の勘気により、十兵衛が致仕したのも一因だったと思われます。


 ここで友矩の運命は大きく変わります。


 家光は一説によると衆道の趣味があり、
美形の寵童を複数持っていた、と言われているのですが、
その中に、友矩が含まれていた、というので砂。


 実際、寛永十一年(1634)の家光入洛参内の際、家光は徒歩頭として友矩を抜擢、
その後、山城にて友矩を従五位下刑部少輔に叙し、友矩個人に二千石を与えます。
位階だけなら父たる宗矩と同格ですよ。


 ここでどのような経緯があったのか、推測はいくらでも出るわけですが、
柳生家どころか幕府内でも随一の美形と呼ばれていたこと、
そしてあまりにも早すぎる昇進を考えると、やはり、俗に言う


      「尻一つで!(bySAMON)」


 ということがあったのではないかなあ、と思われても仕方ないのではと。


     )                      ィ─;;;-..-..--、〈
     )                   ,,...-= ̄ ̄ /::::::::::::::〈
友 あ  )                  /       ̄ヾ::::::::::/ 上 某 今
矩 あ (_ヽ:r‐'、  ___       /          |::::::::::,'.  様 の 度
よ あ  /〉‐‐r '´      `丶    /     _     |::::::::::{.  ! 番 は
・  っ  (:::::::::::ヽ         ヽ  |_.. -'_"-'´   r'⌒ヽ::::::::{     で 
・  !!   )::::::::::::::::::ヽ        '、 ゙i`'''Tjフ    } ミトー:::::::}     す
・    (:::::::::::::::::::::/  ’- 'ノノ 冫=} ,' ,.‐'"    { {い) /::::::ノ_     ぞ
Vヽハj⌒:::::::::::::::::/〃ー_''ニ ,、:: {ニ'”,'        ゞ゙ f クァ ―`‐- 、.._,、-'´
   l.:::::::f⌒ヽ::::l ”´-'' "    `、 ',〈.、,..        ,.‐'´      `' 、``丶、
    i、::i ⌒>:::!   l!   r, ノ  l  )__.. -ァ   /
    i:::::\((::::!   lj  , ‐--.ィ. !   Y´_   ./   \    \\
     `、:::: こ、:i.      {    j. i j  ゙i゙   {     \    \\
      ヽ:::リ `'.    `_'二. ,' /ノノ  丶、,、イ       \    \\
       V    ヽ       /         {        \    \\
                   若竹る二人(イメージ図)


 ただ、『玉栄拾遺』に「性質無双文才に富み、又新陰の術に長じたまう」、
「時の人称して曰く、後必ず股肱の臣たるべし」とまで言われていたことを考えると
一概にそれだけと言い切るのも難しいのですが、この話に対応するかの如く、
家光が、友矩を四万石(一説には十三万石)の大名にする書付を与えた、
という話もあり、真実は謎のままでアリマス。


 ただ、家光との関係がどうあれ、史実によると、
その後、友矩は「病を得て致仕」し、兄・十兵衛と同じく柳生庄へ逼塞した後、
寛永十六年(1639)、「病死」します。
享年27歳。


 …なんというか、あまりにもタイミングがタイミングなので、
後々まであれこれ言われる話となり、宗矩暗黒説の一因ともなっているのですが、
それだけに、これまた伝奇ネタとしてはこれもよく扱われます。
こないだだと「SAMON」で十兵衛とガチ立ち合いやって実質自刃ENDでしたし喃。


 なお、例の家光からの大名取立ての書付については、
これに気づいた宗矩がこっそり返した、という話もあります。


 これが柳生家の次男、友矩です。
若くして亡くなった美形、ということで人気もあり、
剣士としての才能は不明ながら、剣豪の一人として挙げられることがよくありま砂。


 てなところで、お次は、
なにかといらない子呼ばわりされてしまう三男、宗冬です。


■「幸運の男」柳生飛騨守宗冬

 慶長十八年(1613)、友矩とは1つ差で宗冬は生まれました。
幼名は又十郎。宗矩43歳の時の子で、母親は十兵衛と同じく正室のおりんです。
長じてからは主膳宗冬を名乗り、そして叙任後は従五位下飛騨守となります。


 この宗冬、なにかと兄二人(十兵衛、友矩)と比べられてしまう為、


 「宗矩はとても黒い
  十兵衛はとても強い
  友矩はとても美形
  石舟斎はとても偉い
  宗冬は才能足りない」


 などと歌われてしまう有様なのですが、
宗矩の死後、旗本に戻った柳生家を大名家に復帰させた、という意味では、
柳生家中興の祖、と言えなくもない人物なのでアリマス。
(中興というには代を重ねてなさ過ぎますが)


 とはいえ、その剣才は言われている通り今ひとつだったそうで、
尾張柳生(つまり新陰流正統)の正統を継いだ柳生厳長氏曰く、
「宗冬の著作は誤伝や稚拙な点が多く、評価に値しない」と言われたりしてま砂。
まあ、これは、祖父、父、兄と歴史に名を残す剣豪が三代連続で続いたことによって、
不条理に近い比較をされてしまったのが一因であり、
実際のところ、宗矩が築いた「活人剣・治国平天下の剣」を無事に引き継いだ、
という意味では、それなりの評価が成されてしかるべきだとは思いま砂。


 さて、ちょいと話がズレましたが、この宗冬、
十兵衛とは逆に剣にはあまり興味を持たず、また、体も弱かった為、
稽古もサボりがちだったそうなのですが、
後に喜多十太夫の申楽能を見て、その芸に深く魅せられ反省するところがあり、
心機一転、新陰流の修行に精を出すようになった、という話があります。
この辺は、親父譲りといっていいんでしょうか喃。


 なお、出仕は寛永五年(1628)、14歳で家光の小姓となり、
兄二人と違い、致仕するようなこともなく、順当に仕えていたようです。
ただ、やはり何かと兄二人と比較されることが多かったようで、
例えば、宗冬に関する逸話として、家光の前で父と型を上覧した際、
さっぱり勝てなかったので、「もう少し太刀が長ければ…」と言ったのを
聞きとがめられ、「倅、推参なり」とか言われて気絶するくらいキツい一発を
食らったりしてるくらいでしょうか。
…やっぱり微妙で砂。


 あと、もうひとつ有名なのが、入歯の件で砂。
まあ、この辺は「宗冬 入歯」でぐぐってもらえれば、あれこれ出てきますが、
せっかくなので、細かめに紹介してるサイトから引用。


【世界最古の入れ歯は日本製?〜今日は入れ歯の日】
 

>東京の広徳寺にある柳生宗冬さんのお墓から、
>遺体とともに上下顎の総入れ歯が発見されたのですが、
>これは、寛永十二年(1635年)に、口中医として活躍していた小野玄人さんが
>製作した物で、技術的にも極めてすぐれた逸品だそうです。

>床の部分はやはり黄楊でできていて、歯の部分は天然歯、象牙
>ろう石、獣歯、黒柿などを駆使して作られています。

>仏姫の場合もそうですが、口中に直接触れる部分の材料に黄楊が使われているのは、
>黄楊は割れにくく、それでいて彫刻がしやすく、肌触りも良いのだそうです。
>(黄楊と言えばくしを思い出してしまいますが・・・)

>しかも、その黄楊を、24時間煮て、さらに水中に保存した物を使用したそうで、
>以外と思っているほど痛くないかもしれませんね。

>「食紅などを使って、噛みあわせも調節していた」というから、たいしたモンですね〜


 寛永十二年ですから、24歳の頃で砂。
何があってその若さで総入歯なのか、これは謎のままであり、
五味先生は「女装の為に総入歯にしたのだ」とカマしてましたが、
詳細は不明でアリマス。
まさかこんなことでも歴史に名を残すとは、で砂。


 さて、そんな塩梅で、相変わらず微妙な立ち位置であった宗冬ですが、
異腹の兄・友矩の「病死」、父・宗矩の死去などを経て、
大和柳生家一万二千五百石のうち、四千石を引き継ぐことになります。
ちなみに、宗冬は友矩を慕っていたらしく、南大河原に十輪寺を建立して
菩提をとむらった、と言われております。


 さて、こうして旗本として一家を持つことになった宗冬ですが、
今度は慶安四年、兄・十兵衛の急死により、その遺領八千三百石と
柳生家の家督を継ぐことになります。
ただ、この時、自身が受けていた四千石と引き換え、という形になりました。
つまり、相変わらず柳生家は旗本のまま、ということで砂。


 そして、家光も亡くなった後の明暦二年(1656)、宗冬44歳の時、
柳生家の当主にして四代将軍家綱の剣術指南役となった宗冬は、
その翌年、従五位下飛騨守を叙任、更に寛文元年(1661)には、
後の五代将軍となる館林綱吉からも新陰流誓紙を入れられ、
天下一の流派、柳生新陰流としての名をあらためて固めます。


 その後、寛文八年(1668)に千七百石の加増を受け、
翌年一万石の朱印を賜り、ようやく念願の大名家への復帰を果たします。
この時、宗冬54歳。


 こうして、柳生家の幕末まで続く大名家としての基を固め直した宗冬は、
晩年にはぼうふらの動きを見て剣の極意を悟り、柳陰斎と称したそうです。
そして、延宝三年(1675)4月、江戸柳生家全盛期・最後の一人たる宗冬は
癌で亡くなります。
享年61歳。


 あれこれ言われている宗冬ですが、
柳生家からすれば、宗冬がいたからこそ、柳生家は大名に復帰できた、
という部分もあり、また、良くも悪くも特異な資質を持った兄二人と比べると、
比較的凡庸であるが故に、家を守ることができたのでは、という考えもできま砂。
それに、こういう言い方をするのもアレですが、本来なら部屋住みの身のところが、
とんとん拍子に一家を立て、本家を継ぎ、大名に復帰して、と進めていったわけで、
そういう意味では、やはり幸運の人と言えるのではないかなあと。


 さて、これで宗冬の話も終わり。
そして、柳生四兄弟最後の一人、末っ子の義仙列堂の番でアリマス。


■「江戸柳生を看取った男」柳生義仙列堂

 列堂は寛永十二年(1635)、これまた柳生庄にて生まれています。
幼名は六丸。時に宗矩65歳。母親は近隣の農民の娘、お藤。
十兵衛とだと28歳差、宗冬とですら22歳差であり、かなり晩年に生まれた子ゆえ、
実は宗冬の子供とか友矩の子供とか、ネタはあれこれ出てま砂。
まあ、実際のところは不明ですが。


 ちなみにこの母親のお藤、川辺で洗濯をしていたところ、通りがかった宗矩が
「そのたらいの中の波は何本あるかわかるかの?」と戯れに問うたところ、
「殿様は屋敷からここまでの蹄の跡の数はわかりますか?」と切り替えしたため、
「これは面白い娘じゃ」と、そのまま貰い受けられた、という逸話があります。
(「はい、七三(なみ)は、二十一波でございます」と返したという話もあり)


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  、、./-ソ ./ / \ 、 _二ニミ     | ぼ こ  敷 様
 ミ   / /   ! \、ヾシ;;;/        | え .ま か は
 ヽ.  !、 \ ヽ、._,,,;';;/ ,.,.レ         | て .で ら
  l.  l l゙ヽリ .,;;;;;;/__,ィイ/ミ        | い .の
. ,、/   l l/ !,,,;;;;/r'´iヘツ          | ま  蹄
 !!゙丶,,,,..ヽ,';;;// ',.-‐'" _         | す  の
 ヽミニ=;;ヽ ‐- 、  ̄ ̄         < か  跡
 . ヽヽ-ツ/    ',             | ?  を
  ヽ ', !./.:                 \______
   ヽ', / .j ,.._
     ',ヽ¨´::::ノ
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     ',  、.ニフ'´
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   / //:::::::;;:-‐':::/::/:://:::
         小粋な切り返しをするお藤(イメージ図)


 まあ、実際にこんな問答があったかどうかは謎ですが、
里歌に「仕事せえでも器量さえよけりゃ、お藤但馬の娘になる」などと
歌われたりしたそうなので、宗矩がお藤を貰い受けたことは間違いないようで砂。


 ともあれ、こうして生まれた六丸ですが、
その後、六丸10歳の時、宗矩が亡くなる際の遺言で、
「柳生に父祖のための菩提寺を建て、六丸を住職としてほしい」と言った為、
宗矩の死後、建てられた芳徳寺の住持となるべく六丸は出家し、
かつて沢庵もいた大徳寺の天祐和尚の弟子となり、名を義仙と改めます。
同時に芳徳寺の第一世座主となり、列堂和尚と称したそうです。


 さて、この後の列堂ですが、伝奇的に言えば、
ここで裏柳生とか芳徳寺衆とかがあれこれ出てくるところなのですが、
史実においては普通に坊主をやってたようで、とりたてて逸話などはありません。
ただ、一時期、仏門修行に精進せず、ぐれた時代があったそうなので砂。
まあ、家が家だけに、何故俺だけ、と思ったのかもしれません喃。
とはいえ、後に大徳寺の座主(238代)になったと言われているので、
やはり僧としてもそれなりの人物であったことは間違いないかと思われます。


 ちなみに、十兵衛も亡くなってからですと、
母を除けば肉親は宗冬だけになるはずなのですが、
宗冬の遺書を読む限り、どうもエラく嫌われていたようなので砂。
理由として、ぐれてた時期に芳徳寺を離れて放浪していたのが怒りに触れた、
などという話もあるのですが、詳細は不明でアリマス。


 で、その件の遺書なのですが、もォ凄いんですよ兄さん。
さっき書いた宗冬の人物像(比較的穏やか)からは想像できないくらい
バイオレンス風味溢れる遺言であり、というか、
遺言がバイオレンスってどうなのよと。
とりあえず、列堂に関した箇所だけ抜粋します。


『列堂儀一円心も直り不申、神文を破り、其上気違同前の体何共絶言語候間、
 もはや成間敷候。いか様に申候共、寺の為に候間、住持に直し候儀無用に可被致候。
 若気違に候あいだ申分などいたし候はば、見合わせ候而押込候欺、
 打捨にいたし候而両様のうちに相究可申候』

(意訳:あの馬鹿、住職から外せ。文句言ってきたら閉じ込めても殺してもいいぞ)


 まあ、大概な嫌われ方で砂。
ちなみに、ここまでバイオレンスなこと書いてるのは列堂だけで、
他の人物に対する言及は穏当かつ細やかな気配りのきいたものでアリマス。
一応、追補もあって、上記の処遇は最悪の場合なら、程度になってますが、
それにしても尋常ではありません。一体何があったんですか喃。
(実は密かに仕合やって負けてましたー、とかいう展開なら
 スーパー伝奇ルートなのですが)


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  \ :ハ     '、  ':,            | ,rrェヒミ〈;;;:リナナク,;:l!
   \ '、   ,:'、  ':,         !斥y'r。xツヘ '・`,,,シミ;:;;:|   「あの馬鹿、
     \ゞ '" ::ヽ  ':,           |トニ斗テi"| :;フハコ=7-i;;|    住職から外せ!」
       ヾト、  ::::ゝ  i        :|::ll::::l!:|l|ハ::;;| | ! !| li ,l、
       `ヾ-'"  : ::|^y'ヽ、       |ト|!:::l!:||kキ;|干!,!,!ノノ:,!;l
         `yr'^! :::〈 ミシ|、  ,';,   !|ヽヾヾト'^"~'' ,'' "//;;;;'、
         r'" ヘ ヘ、:::二;;;;リ  /:;;| ,r'-:ゝ ,ィ;'  ,.-...,,;:,,' /l::::;;;`
          ゞイ..`,.>'"リ、/ -'ー-'ミ  ,:':;/ヾ、  .,,. ,,_;:' l!
         `t  ゞ.-'" y;;!rー'''''''ーミ::`:'";;,'  `:;、 :;;: ,;' .,!
          〉  〉.-‐"ノ^:,     ^:、 ゞト、  :,! ':;;, ;;'  '"!
         ,!^ヾー‐‐'"ゝ;;;ヽ'"~`ヾ、 `トr=ミ:;、 !  ':;; ;  : |
         |ハ;;;;;ミi'"~;;;;リ;;;;;;ヽ、  `、 :ハ  い `!     |
            '!ハ `ー'-'''";;;;;;;;;;;;;;;`、   :!:::::i、..,,_ノ ::;
          !ヾ;、` .....::::::;;;;;;;;;;;;;;;i   レ!
         ,ィ' ゞ=;!: : : : :::;;;;;;;;;;;;;リ、..,::; ; i
        ;!  ` l|: : : : : :;;:::;;;;;;;;;!;;::''"リ,!
        | ', `- ;! : : : :::;;;;;;;;;;;;;!/ ;: /
          ヾ  /:::::;;;;;;;;;;;;;;;;-''",!_,.-'"
         ヾ;:/        ノ
          `-^ト 、   ,r'"
               バイオレンスな遺言を残す宗冬(イメージ図)


 まあ、真相はどうあれ、この遺言の通りにはならず、
どうやら無事に芳徳寺の住持としてあり続けた列堂は、
元禄十五年(1703)、67歳をもって寂しました。
ちなみに、例の赤穂浪士の討ち入りのあった年で砂。


 ここまでが、宗矩の実子たる柳生四兄弟の物語でアリマス。
実際のところ、柳生一族として憶えておく必要があるとすれば、ここまでです。
この後、宗冬の後を継いだ宗在以降、柳生家は急速に普通の大名家と
化していくからです。
それが故に、列堂を「江戸柳生を看取った男」と名づけたのですが。
(それに坊主ですしね)


 てなわけで、微妙ではありますが、
次は宗冬以降の江戸柳生家についてまとめることで、
江戸柳生家、そしてその祖たる宗矩の話を終わらせようかと思います。