【柳生一族、そして宗矩】その23:柳生但馬守宗矩(11)「江戸柳生の人々(1):柳生十兵衛三厳、その3つの謎」
さて、宗矩自身についての話も一段落したところで、
その宗矩を祖とする「江戸柳生」の人々について簡単に説明をしようかと。
まあ、流石に説明無しで済ますのも寂しい感じがしますし喃。
まあ、江戸柳生といえば、まず出てくるのは十兵衛三厳であり、
彼を筆頭にした柳生四兄弟なわけで砂。
即ち、
「十兵衛三厳」
「左門(刑部少輔)友矩」
「又十郎(飛騨守)宗冬」
「義仙列堂」
この4人でアリマス。
イメージにしてみるとこんな感じ。
【長兄:柳生十兵衛三厳】
ミ ,,l゙r、 ::::::::::y ツツノ/;; ツ : :::: 彡彡::::≧''" ノ リ 」
゙l :ミl |;; "ヽ:::::/イ((::"/;; i"r,,彡"彡リ彡:::之彡彡ノ、ノ ク 了
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ヽ',゙', : :::::イ ヽ,,,__ Y'" ゙;;X; `;;} {;; ゙'=''/ミ゙ 、,,,,ノ | /
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イノ;;;、-ー ''"::|:::} ィ ヽ:::::::.../,、 '": : : : : ::/ / `' 、 ゙、:: ゙:::l|:::::::`゙'' 、
、,,、-'" .....::::::| ゙ヽ、,,,,,,,,_,,、-'´:: : : :: / | ゙' 、 /: /:::::::::::::::::
/;/ ......::::::::::::::l ::::ヽ : : : : : :: : : / l / /::::::::::::::::::::
【次男:柳生刑部少輔友矩】
ン",,,、'" ミミ` 匁 iii''' iiiiiハ jt,
(ン` ":: ::''" `ミ -''、
ヒメ ヽ r"""'''' """""'i :::: :: t"
/ / | i__,,,,,,,,,,,,,,,,,,ノ| |_|, ii, ii, ::::: `、,,、
( ソ | ti'| t、t??◎??|i| iii|; ||~' -、 :: :: ヽ、ヽ
) |i i'|ii | ソ――-ー ''''''''t、t,,t:t ti-,?i |i :| ヽソ
ン,, リ )リノ/、、,,,,,t 、、;;;;;;;;;;ニ=ー-、))ノ ) し
(iii ノ''z-モェテ''、'i ~i'';;rzニ'-''ニゝ'' フ"/y" `'く
リ ::: ミi '~~~~::::ノ| ,i''''"'""'''''' :::メ, ::: ;; )
`ソ ::: iii''t ::::::::::::j,, " " ::::::::ノ リノ ハ `、,
tii リ (/ );;; :::::::: 、、_,,,、:)、;; :::::::::`'y / リ,, j}リ
) ( リt" ::::: ,,,,;;'i、、;;" " ( i|}}! /'( t、,
/ ;;;; ソ;t ii",;;ヨ<、:;;,,"'i! 、|i リ') i!}}i ヽ;;,, ))
,/" ノ/ ii|リ;;|!,, ii ´;;;;;;;;;; ~'ji ,,iijj}|ノ 亦,,, )ツ ツ (
i|i|/|i :::: 、|i|:::ヽ!!,iii "::( ~'ー }} ii}|j、-''(ii iiii ツ / ''"、、,
ヽ((i ';;; iiii ):::::ヽ!!,, ;;;;;;;; i}!i! ' ;;;;:::::`i ノijj!} i}jjj, ::::、ヽ )
、,,, ノ i''"iリ:::::::::::ヽ!iiハii|ii!!|!i,r";;;;;;;;::::::: j/ !!!ii||i :::::: i (
,ゝ ,, / ヽi、:::::::::: """""";;;; ::::::: /,, /" ''::" ::: |} ~'' 、
(ii iiiiソ ii ) ::::::: :::::::::: ::::::::: (|i }}iiji、 iij、ハ ヽ 、,)ヽ)
'" iiii、 |リ ::::::: ::::::: :::::: :::::ヽ ` ` !!!、\ )jj:~''- 、
;;、"-(' ヽ ミi :::::::: ::::: ::::::: :::::::::ノ/ ) 、 ,, ノ" ::::::'' ~'
" '"" i// iiiハi" ::::: ::::: ;;;;;; ::: ヽ、,,ノj ノ) ノr"i、((,,,,,,,、、
【三男:柳生飛騨守宗冬】
.,. -─- 、
/,;:;:;;;;;:;:;:;:;:`ヽ
,'.:..:.:.:.;;;;;;rrrr、:.:.:ヽ
l::;ィ'´;;;;' `ヽ。-、ヽ.::!
{ミレ'"´. ,.. ¨¨`,ィ;;彡.
{ミ!. i i::i l.:::! l:l .l:! l;;彡
iト、i i:::iノ:::l/::l/::!ノ:::|
ヽ入 `V? /l /l
ト、 `1 ミヽニニ彡'´ L、、、,,_ _./ レ' ..!
ト、. ! Vl ,..ィ´.:j! ',::,,,,,/ ,::′ ,' `ヽ`ヽ`Y´.:./l ``ヽ
| ヽ| 〃/.:.:.:.j!...',;,,/ ,::′,,,,,........リ ノ.:::l / .l.:.:.:.:./ト、
,.ィ´ヽ ノ/ / ;;;'''゙゙゙゙`,.''''゙゙゙´ {: :i i!.::! ゝ ' /.ィ´ `ヽ
ト、/ ト、, ´/ ./:::'' .人 ..:;;′ .人 .:i: :.! i!:::!.:.;.ィ彡'´ ;; .゙、
l ハ V.:.:.i / ,:: `Y´.;;;′ `Y´ .!,..ィ"´`ヽ〃;;;:;:;:;:;:;;:;゙゙゙´: .
l/.::',.:./.:.:.:j. /''"´ ....;;;;; 人 (,,、、`Y.. ):::V´ : : :
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′ノ人 jりi ;: : : : :''''';;;;ゞ ::;; ...:.:.:.: .: .: .;;:i1 i爪ツ"´.:.:.;:;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
【四男:義仙列堂】
_,.yトーゞrッヽv,、_,.
,rk´ミ、''ナ;;爻'、ー;;〃彡;,.
vf戈ハトシ〈'"リ゙、ヾ、;;jリ、〃、
Yメ从k;;、;;ij;;;ii;ヾ;ッ;仆、ヾくソ
}ソリ"i!;;;;;l;;i;;、;;:;:;;:;';;;};;iリドシゞ,
ツ;;;;;;;;;;ト、;;_リ;;;i!;;ト;=;、t;;;l;;ヒ'
ヲ;i!、:::r',;、=;'、;"リ,、=;''"リ;ij´ !
};lヾ;;j  ̄´.〃l゙ ̄´ ,';ィ′
r‐、 7;;;;|', =、j,. /仆、
} ,! _ ゞ;|:ヽ ,:ニ> /:: レ ソ\,.、- ' "´;; ̄::
j _,!ノ )" ̄>.ニト、:\` "'' ///,r/:::::::_,..、''' ..,,
フ ,、'-‐'l" ̄リ;/::;;/::} `:::`:ー'/'∠;:/`゙ヽ・.‐´
‐' 冫‐i '"フ:;/::;;;{! `r‐'"フ´〃シ:;;/ " ヽ、. リ'" ,、_,
. '",.ィ/ ̄_:;/::;;イ `'ー ''/ヲリ/;/r'/,r─‐-、 (∴,、-''"
'二⊃ヾ/.:;;/ `ー-‐/Ξ/ッ/rレヘ{ | ̄| `''"
なんか一歩間違うと、柳生三兄弟とか言われそうな趣ですが、
イメージとしてはこんなもんですか喃。
(一応、列堂は坊主なんですが)
つか、AAですらいらない子っぷりを醸し出す宗冬を誰かどうにかしてあげて。
で、この柳生四兄弟中、いや、全柳生中の最メジャー柳生にして、
剣士の名前を5人挙げてみて、と問うた際、まず5本の指には入る剣士、
柳生十兵衛三厳ですが、この柳生新陰流の達人にして、
幕府惣目付・柳生但馬守宗矩の嫡男たる人物には、3つの謎があります。
・十兵衛は隻眼だったのか?
・十兵衛は本当に諸国を廻ったのか?
・十兵衛の死の真相は?
細かく挙げれば他にも出ますが(荒木又右衛門との関係など)、
主だった謎はこの3点で砂。
元々のプロフィールに加え、このような謎があるからこそ、
十兵衛という稀代の剣士の魅力は更に光り輝くわけですが、
では実際、史実において柳生十兵衛三厳という人物はどういう人物だったのか、
という事を、それらの謎に関する話と絡めつつ、つらつら書いていこうかとー。
■十兵衛・その誕生
十兵衛こと柳生十兵衛三厳は、慶長十二年(1607)、柳生庄にて産まれました。
時に父たる宗矩は37歳。母は正室のおりん。幼名は七郎と言います。
随分遅い子に見えますが、宗矩にはこの四兄弟以外にも娘が2人いたそうなので、
もしかしたら姉もいたのかもしれませんな(誰だ薔薇剣とか言ってるのは
なんにせよ、宗矩にとっては待望の嫡男であり、喜びもひとしおだったかと。
なお、十兵衛の生まれる前年、祖父たる石舟斎が亡くなっており、
天性の剣才も相まって、「石舟斎の生まれ変わり」とまで言われたそうでアリマス。
その後、十兵衛が柳生庄で育ったのか、それとも江戸で育ったのか、
今ひとつ不明瞭なのですが、ともあれ、剣の修行は宗矩によって行われていたようで、
そう考えると、比較的早い段階で江戸に上がっていたものと思われます。
■謎その一「十兵衛は隻眼だったの?」
さて、十兵衛といえば、まずイメージに浮かぶのが
「片方を刀の鍔で覆った隻眼」なわけで、この分かりやすい記号があったからこそ、
あの時代の剣士の中で、武蔵と並ぶ最メジャー剣士となれた部分もあったと
思われるのですが、まあ、よく言われている通り、この隻眼、虚構説もあるので砂。
しかも難儀なのは、両説とも一応の論拠を以って提示されてるのでアリマス。
まず、隻眼肯定説の方ですが、これは、尾張柳生の方に伝わっている話のうち、
「十兵衛が七つの頃、宗矩と「燕飛」の稽古中、誤って右目に木刀が入ってしまった」
という言い伝えが論拠になってます。
また、世俗にはこれのバリエーション(訓練で礫が当たったとか)が複数あることから、
このような話が広く伝わっているということは、それだけ十兵衛の隻眼は
有名であったのだ、というのが論拠であるというわけで砂。
で、隻眼否定説の方は、十兵衛の姿を描いた絵では両眼である、
自身の著書にも、関連する江戸柳生家の書物にも、十兵衛の隻眼を示す話は無い、
というのが論拠になっております。
また、隻眼では距離感も計れない為、剣士として大成するのは無理がある、
とも言われています。
まあ、両方とも決め手に欠ける感じですが、
どちらかといえば両眼であった、というのが事実の可能性が高いのではないかなと。
まず、単に世間に知られてるだけで事実になるなら、
水戸黄門も諸国漫遊したってことになりますし喃。
それに、宗冬と連也斎の立ち合いの件といい、江戸柳生絡みの話になると、
微妙に尾張柳生家の伝承は信頼性が低くなる気がするので砂。
(尤も、その真否はどうあれ、伝奇ヒーローの十兵衛が
隻眼であることには関わり無いことなのですが)
ちなみに、どちらが開いてたのか、というのも話題に出ることがありますが、
隻眼説を取っている元の他の話を見るに、どうやら左眼だったようで砂。
つまり、右目側が隠れてた、と。
まあ、隻眼説自体が微妙なところを思うと、どっちでもいいと考える人が
出るのもむべなるかな。
/ ̄ ̄\ 先生、隻眼が前作と逆なんですが…
/ u \ .____
|:::::: u | ./ \
. |::::::::::: | / ⌒ ⌒ \ そうだっけ?
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ヽ:::::::::: ノ | \
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「どっちもでいい」の例:某作家と編集の会話
■十兵衛・最初の出仕
さて、元和二年(1616)、成長した十兵衛は、10歳で宗矩に伴われ秀忠に拝謁、
2年後の元和4年(1618)、13歳にて家光の小姓として城に上がることになります。
宗矩が家光の剣術指南役となる2年前で砂。
こうして考えると、宗矩が家光の剣術指南役として、
その心を掴むことが出来た一因には、十兵衛から家光についての
事前調査があったからではないかなあと。
実際、宗矩にすれば嫡男の初の役目、十兵衛にすれば自身の初の役目な上、
相手は次期将軍、となれば、そりゃお互い気にもなるから話もあったでしょうし。
宗矩 「七郎よ、おぬしの眼から見て、家光様はどう映った」
十兵衛「はい、家光様は突飛なことをなさるお方で…」
てな具合に。
そしてその後、宗矩の家光の剣術指南役就任、家光の将軍職就任、
宗矩の惣目付就任と、立て続けに柳生家(というか宗矩)が出世していくのですが、
寛永三年(1626)、20歳となった十兵衛にある転機が訪れます。
そう、家光の勘気による致仕です。
■謎その二「十兵衛は本当に全国を廻ったのか?」
この勘気を受けた原因が何であるか、そもそも本当に勘気を受けたのか、
また、致仕した後、寛永十五年(1638)に再出仕するまでの12年間もの間、
十兵衛は一体どこで何をしていたのか…?
この辺りの経緯の不明瞭さが、当時の十兵衛を囲む状況と相まって、
十兵衛の時代劇ヒーロー化の礎を作ることになります。
これこそ「柳生十兵衛隠密説」です。
…既に徳川将軍も三代を数え、徳川による支配体制も固まりつつあるものの、
未だ戦国の気風は残り、虎視眈々と機会を伺う大名は消えておらず、
豊臣家の残党や主家の改易・取り潰しによって浪々の身となった者は全国に溢れ、
また海外からのキリスト教の影響も無視は出来ず、と、
到底安心できるような状況ではない中、時の将軍家光の幼少時よりの小姓にして、
惣目付にして将軍家剣術指南役たる父・柳生但馬守宗矩の嫡男たる男、
江戸柳生最強の名高い柳生十兵衛三厳が江戸を離れた…となれば、
そりゃもう伝奇妄想するしかなかろうよ、と。
まあ、そんなこんなで、そりゃあ大量の柳生話が誕生したわけですが、
では、実際どうだったのかというと、これまた困ったことに、両論あるので砂。
つまり、「実際に全国を廻った」説と「柳生庄で逼塞していた」説の2説が。
そして、これまた論拠が両方にあったりするのです。
「全国を廻った説」の論拠は、柳生庄の村史「柳生の里」が元になっています。
『そして諸国漫遊の旅に出た。京都から山陽道を西に行き、
九州地方をまわって引き返し、山陰から北陸地方を歩いている。
歳月を費やすこと十年に近かった』
と書いてあるので砂。
また、柳生藩の藩史「玉栄拾遺」でも、
『一旦故ありて相模国小田原に謫居し玉ひ、尚諸州経歴ありと云。
寛永年中父君の領地武蔵国八幡山の辺、山賊あって旅客の愁をなす。
公彼土に到、微服独歩し賊徒を懲らしめ玉ふ。
亦山城国梅谷の賊を逐玉ふも同時の談也。
其他諸方里巷の説ありといへども、未だその証を見ず』
という記載があったことから、
「十兵衛は致仕した後、全国を巡回していたのでは」と言われるようになり、
そこから、
/ ̄ ̄\
/ \ 「惣目付の嫡男が、この時期に致仕して諸国巡回なんて、
|:::::: | どう考えても怪しすぎるだろ常考…」
. |::::::::::: |
|:::::::::::::: | ....,:::´, .
. |:::::::::::::: } ....:::,, ..
. ヽ:::::::::::::: } ,):::::::ノ .
ヽ:::::::::: ノ (:::::ソ: .
/:::::::::::: く ,ふ´..
- ―――――|:::::::::::::::: \ -―,――ノ::ノ――
|:::::::::::::::|ヽ、二⌒)━~~'´
後世の歴史小説作家
と言われるようになったわけで砂。
それに対し、「柳生庄で逼塞していた」説の論拠は、
十兵衛自身の著作である「昔飛衛といふものあり」の文中にあります。
『愚夫 ゆえありて東公(家光)を退いて、素生の国に引き籠もぬれば、
君の左右をはなれたてまつりて、世を心のままに逍遥すべきは、
礼儀も欠け、天道もいかがと存ずれば、めくるとし十二年は故郷を出ず』
要するに、「12年間、柳生庄に篭ってました」というわけで砂。
その間にやってたのが、新陰流の研究であり、兵法書の執筆活動であった、
ということでアリマス。
あと、「柳生の里」には、十兵衛には弟子が1万3千5百人いた、と
言われているのですが、逆に、これが真実なのであれば、全国放浪などしていたら、
その指導など出来る筈が無い、とも言われております。
これについても、隻眼説と同じく、どちらが正しいのか確証は持てないのですが、
見ている限りでは、後者の方が妥当なのではないかと思われます。
というのは、この12年の逼塞というのは、前例があるからです。
そう、尾張柳生の祖にして新陰流正統三世、兵庫助利厳で砂。
十兵衛は「弱冠にして天資甚だ梟雄、早く新陰流の術に達し、其書を述作し玉ふ」
と言われており、江戸柳生家の中でも剣の腕と、その熱心さは
図抜けていたと思われます。
そのような十兵衛が、いざ、致仕するにあたり、
かつて同じく仕官先を致仕し、柳生庄へ篭って修行に励んだ従兄弟、利厳を連想し、
その前例に倣おうとした、という考えもそれなりに成り立つのではないかと。
実際、十兵衛がより新陰流を極めようというのであれば、
祖父・石舟斎の伝書や、その弟子達の残る柳生庄というのは
居住するに相応しい場所だったと言えますし、後に記した「月之抄」でも、
『さるにより、秀綱公(上泉伊勢守)より宗厳公(祖父・石舟斎)、
今宗矩公(父・宗矩)の目録を取り集め、流れを得るその人々に問えば、
彼は知り、彼は知らず。彼知りたるは、則ちこれに寄し、彼知らざるは
また知りたる方にて是を尋ねて書し、聞きつくし見つくし、
大形習いの心持ちならん事をよせて書き附けば、
ことばには云いものえやせむ、身に得る事易からず』
と記されており、新陰流の過去の記録を調べ、
また、生き残っている石舟斎の弟子たちを尋ね、あれこれ聞いて廻った、と
自身で書き残しております。
また、ずっと逼塞していた、というわけでもなく、
新陰流の禅の修業として、京の寺へ行くことなどもあったでしょうし、
もしかすれば、尾張へ出向くこともあったかもしれません。
それに、宗矩が惣目付に就任したのは寛永九年(1632)であり、
十兵衛が致仕した6年後です。
流石に間が空き過ぎているのではないかとも思われま砂。
まあ、とはいえ、先に書いた1万人以上の弟子の中には、
荒木又右衛門などもいたのでは、と言われていることもあり、
逼塞説は逼塞説で、なかなか面白いところではあると思うのですよ。
実際、道場破りなんかも来たでしょうし。
■十兵衛・再出仕
十兵衛が許されて家光の元に再出仕したのは、寛永十五年(1638)でした。
この時の役職は小姓ではなく大御番とも御書院番とも言われてま砂。
この頃は、特に問題も起こさず、普通に勤めていたようです。
なお、余談ですが、十兵衛は酒癖が悪かったらしく、
一説には、それが最初に致仕した一因と言われております。
この酒癖の悪さは、沢庵から十兵衛への手紙でも指摘されており、
『久々御随意に在所に御座候間、又立帰御奉仕、
小者御苦労におぼしめさるべく召候。
御酒さへ不参候はば、万事あいととのうべく候。其段随分御心持専用候』
と言われてま砂。
つまり「お前は酒さえ飲まなきゃ大丈夫なのにねえ」ということで砂。
なお、この頃には、既に友矩、宗冬も城に出仕しており、
宗矩も石高1万石を越えて大名となったことで、
江戸柳生家、いや、柳生一族の全盛期とも言われる時代でした。
十兵衛といえば、宗矩との確執もよく話題にあがりま砂。
「悪(or謹厳実直で官僚的)の宗矩に対して、
善(or豪放磊落で人情派)の十兵衛」という対立構造は
宗矩との稽古による隻眼説や、十兵衛が追放された際の件などで、
割と定番の構造になっているのですが、史料を見る限りでは、
十兵衛、かなり宗矩をリスペクトしてるので砂。
裏づけとしては、
先にも述べた十兵衛初の著作「昔飛衛といふものあり」の文中に、
『我が祖父 古但馬守宗厳 上泉武蔵守秀綱に従い此の道を相伝してより、
その身一代深く修行して、心に得て是を手にする事、
おそらくは、氷は水より成りて、水よりもすさまじき物歟。
老父(宗矩)その伝を継いで、若年よりこの道に心をつくし、
太刀のみならず鑓長刀の類にいたるまで、
兵道とさえいえば聞かずという事なし。
一代その身に得てつかうまつる事、
またおそらくは藍より出て藍よりも青き物歟』
と書かれているので砂。
要するに「爺さんは上泉秀綱よりスゲェし、親父は爺さんよりスゲェよ!」と。
実際、内容も宗矩の説く兵法観をかなり踏襲したものになってますし喃。
(既にこの時期、兵法家伝書も書かれており、十兵衛がそれを読んだことも
書いてあります)
なお、これを書き上げた十兵衛は、宗矩に見せたところ、
「ファック!お前は何も分かってねぇ!汚物は消毒だーッ!(超訳)」とか言われて
思案の末、
「沢庵和尚ー!
親父殿がひどいんだよー!」 「どうしたんだい十兵衛殿…」
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十兵衛と沢庵(イメージ図)
という具合に沢庵に相談、加筆修正と沢庵の補足を足して再提出し、
「まあ、沢庵がいいって言うなら…」とようやく認めた、という経歴があります。
また、その後の「月之抄」などでも、
『老父の云われし一言、今許尊(今こそ)感心浅からずなり』
と書いており、総じて「凄いやパパ!」テイストでアリマス。
「柳生一族の陰謀」や「柳生十兵衛七番勝負」の十兵衛像からは随分離れてますけど
まあ、これらは宗矩が暗黒野郎であることが前提ですし喃。
■十兵衛・家督を継ぐ
正保三年(1646)、宗矩が亡くなり、十兵衛が柳生家の家督を継ぎます。
この際、宗矩のところで書いた通り,柳生家は一度その所領を召し上げられ、
十兵衛に八千三百石、宗冬に四千石、列堂が住持となる芳徳寺の寺領として二百石、
という形で再度付されます。
こうして再び旗本に戻った柳生家の当主となった十兵衛ですが、
とりたてて騒ぎを起こすこともなく、穏当に勤めていたようで砂。
実際、若い頃は相当な乱暴もので、家僕にもきつく当たることがあったそうですが、
当主になってからは、かなり人当たりが穏やかになり、
家僕も労わるようになった、といわれております。
ちなみに、十兵衛自身は剣術指南役を務めていないようです。
というか、宗矩が亡くなってからの家光の剣術指南役は空白か、
小野忠常のみだったのかもしれませんが、詳細は不明です。
まあ、年下の剣術指南役というのも微妙なところですし、
何より、前任者が宗矩であることを考えると、この時期の家光にとって、
剣術指南役とは、宗矩と同じく己を支えてくれる者のことになっていた可能性があり
そう思うと、四代家綱になるまで柳生家より剣術指南役が出なかったことも頷けます。
ただ、十兵衛自身の剣術の修行は進んでおり、
「武蔵野」「朏門集」などの武芸書の執筆活動にも励み、
また、宗矩の門弟たる細川忠利や鍋島元茂などとも交流があったようです。
てなところで、順調にやっていた十兵衛が、
44歳となった慶安三年(1650)3月21日に、それは起こります。
■謎その三「十兵衛の死の真相は?」
十兵衛は、山城国の弓淵の野原に鷹狩に出て、急死しています。
原因は不明ですが、一説には、酒の飲みすぎによる急性の脳卒中が原因ではないか
とも言われています。
ただ、誰も見ていない(従者もいない)状態で亡くなっていること、
死因が明確に記載されていないことなどもあり、
これまた十兵衛の死には、色々な説が出てきます。
その中で一番メジャーなのは、やはり刺客説、立ち合い説であり、
当時の御流儀の当主たる十兵衛が、闘いに敗れて亡くなった事を不名誉として
隠蔽したのでは、という話で砂。
その相手としても、友矩の遺臣であるとか、他流派の者であるとか、
尾張柳生であるとか、色々言われていますが、死因そのものが不明である以上、
その詳細も不明であり、これまた伝奇力に満ちたネタとなったわけでアリマス。
(兵庫助利厳の亡くなった2ヵ月後であることも、また伝奇風因縁かもと)
ともあれ、柳生十兵衛三厳は山城国弓淵にて鷹狩中に亡くなりました。
享年44歳。
二人いた娘は、弟の宗冬が引き取って育てたそうです。
■最後に
てなところが、史実における柳生十兵衛三厳という人物であります。
全体としては、
「柳生新陰流の達人にして、武術研究家でもあった人物」
というところでしょうか。
伝奇では剣士としての側面の方が強く強調されがちですが、
十兵衛の執筆活動は結構活発で、かなりの数の著作があるので砂。
あと、柳生庄で道場を構え、多数の弟子を取っていたのも先に書いた通りです。
てな具合で、伝奇力を除外しても、面白い人物であったことは間違いなく、
だからこそ、講談なんかでもよくネタにされてたので砂。
なお、講談系で面白いネタとしては、以下のようなものがあります。
====================================
ある日、十兵衛に対し、沢庵はひとつ尋ねた。
沢庵 「お主は随分腕を上げたようだが、
もし、前後左右4人から一気に斬りかかられたらどうする?」
十兵衛「たかが4人程度、柳生新陰流・水月の極意でもって
たちまち斬り捨て申そう」
沢庵 「ほほう、では8人なら?」
十兵衛「三光電致の極意を用います」
沢庵 「ふうむ、ならば16人なら?」
十兵衛「柳生新陰流天地人三巻の中の極意、木の葉隠れの術にて斬り捨てます」
で、どんどん数を増やしていく沢庵に、いちいち対抗手段を述べる十兵衛。
最終的に沢庵は
沢庵 「では…128人なら?」
十兵衛「柳生新陰の秘術を尽くし、愛刀三池典太光世の目釘の続く限り、
斬って斬って斬りまくり、もし敵わぬ時は武門の習い、
いさぎよく斬り死にを遂げるまで。何の一命を惜しみましょうや」
沢庵 「なんとあきれたものじゃ。お主の剣はたかが128人止まりか。
計略を帷幕のうちにめぐらし、何故に勝ちを千里の外に決せぬのじゃ。
百万、千万の敵をたちどころに滅ぼすのが、まことの剣というものじゃ。
一剣の理、万敵を屠るのがまことの剣の心と気づかぬか。この愚か者め!」
と、十兵衛を一喝したという。
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この後、更に沢庵が変な謎かけをしたり、
また十兵衛がギャフンと言わされたりしてるのですが、
若き日の十兵衛という人物のイメージと沢庵との関係、
そして柳生新陰流という流派を上手く描いた話だと思いますよ。
さて、こんなところで、十兵衛の話は終了です。
次は残り3人、友矩、宗冬、列堂について話をしようかと。