【柳生一族、そして宗矩】その20:柳生但馬守宗矩(8)「心法の江戸柳生:その二つの源流(2):沢庵宗彭「不動智神妙録」」


 「心法の江戸柳生」の「心法」とはなんぞや、というこのお話、
元々は1回で済ますつもりだったのですけど、書いてるうちに矢鱈に増えたので、
3分割(今書いてる「兵法家伝書」の話次第では4分割になるかも)したうち2回目、
今回は家光の師僧にして宗矩の友人、禅僧・沢庵宗彭という人物についてと、
その著作たる「不動智神妙録」についてあれこれをば。


 まず、この沢庵宗彭という禅僧が何者であるか、ということですが、
32歳で大悟し、37歳で京の名刹大徳寺の第154世住持になったが、
わずか3日で大徳寺を去ってしまった、というなかなか破天荒な人物であり、
寛永四年(1629)の紫衣事件で幕府に抗議したことにより出羽に流罪となり、
その後、赦免されて、今度は家光の師僧となるという、
なかなかダイナミックな人生を送っております。


 性格の方も経歴相応で、一言で言えばフリーダムであり、
例えば、上述の大徳寺の住持を3日で辞めた際にも、


 『由来 吾はこれ水雲の身 吻(みだり)に名藍(めいらん)を董(ただ)す
  紫陌(しはく)の春 耐えにがたし 明朝南海の上
  白鴎 ついに紅鹿に走らず』


 という一文を残したり、花魁の絵に一筆を頼まれて、


 『仏は法を売り、祖師は仏を売り、末法の僧は始祖を売る。
  汝その身を売って衆生の煩悩を安んず。
  色即是空、色即是空


 とかさらさら書いたという逸話もあったりします。
おまけに、死ぬ間際の絶筆は、


             『夢』


 の一文字ですよ。
まったくもってファンキーでロックな坊主と言わざるを得ませんな。


 なお、世間的に名の通っている方の沢庵、つまり沢庵漬との関連ですが、
元は沢庵が住職をやっていた東海禅寺にて作っていた名もない漬物で、
これを食べた家光が「名前がないなら沢庵漬にすればいいじゃない」と
言ったので、この名が付いた、などという説もあるのですが、
まあ、この辺は詳細が不明なので謎でアリマス。


 ところで少し話が反れますが、
沢庵といえば、武蔵との絡みで名前が上げられる事が多いのですけど、
少なくとも史実の上では接触はないわけなのですよ。
でも、「沢庵」でぐぐると、「武蔵の師匠として云々」とか
書いてあるのが多くて、当方としては見るたびにウンザリしてくるのでアリマス。
(つか、剣禅一如を語るに際して、毎度武蔵の名前が出てくるのも…)
まったく、吉川先生も罪作りであるよなあと思う次第。


 だってこれ、言ってみれば、韓国に朝鮮柳生を名乗る一派が出てきて、
その流派の起こりとして「その昔、柳三厳と呼ばれる武芸者が云々」とか
言い張った挙句、それがいつの間にやら定着しちゃうようなもんですよ?
韓国の宮殿敷地内に「柳生武芸庁跡」とかいう看板が立つようなもんでアリマス。


 歴史小説作家最大の勲は、己の作り出したフィクションを
デファクトスタンダードにしてしまうこと
だと当方勝手に思っておりますが、
そういう意味では、やはり吉川先生は稀代の歴史小説作家であったなあと。
(無論、その是非はともかく、という留保がつきますが)
人間、やはり法螺を吹くならこれくらいやりたいもので砂。


 閑話休題
さて、そんなアウトロー坊主であるところの沢庵が宗矩と出会ったのは、
まだ二人が若い時、京の禅寺にて、というヒキで前回は終わらせたわけですが、
その後、宗矩と沢庵の縁が次に歴史の表に出たのは、
沢庵が紫衣事件において出羽に配流となった際、その赦免嘆願に、
"黒衣の宰相"天海と共に宗矩が名を連ねたところになります。
(ちなみに当の沢庵は、配流先の出羽上山で土岐山城守頼行に厚遇されて、
 「春雨庵」という庵まで建てられ、下にも置かぬ扱われ方だったそうな。
 おまけに向こうでも禅を説いたりしてて、全然刑罰になってねぇ有様で砂
 参考→【シリーズ夢の足跡:沢庵宗彭和尚】ここでも武蔵ネタが…)


 ちなみに、宗矩と沢庵はかなり仲が良かったらしく、
今でも十数通、やり取りの手紙が残っているそうで、その中には、


沢庵「とにかく宗矩殿に逢いたいよ…。身体に気をつけてね?
   煙草吸い過ぎたらガンになるよ?
   あと、こっち(但馬)が大雪になったら、柳生庄の陣屋にお邪魔するかも」


 とか書いてあるのもあって、どうなの、これ。
実際、東海禅寺ができるまで、江戸ではずっと柳生邸に泊まってたそうですし喃。
つまりアレだ。「宗×沢」とか「沢×宗」とか。
あるいは「宗×沢×光」か「宗×沢×光×天」なのか。
ううむぬ。(というか表記はこれでいいんじゃろか…)


 …なんか話が反れましたが、
ともかく、天海や宗矩の働きかけもあり、赦免成って京に戻った沢庵は、
今度は、家光の命により、江戸へ向かうことになります。
この呼び出しには、宗矩の口添えがあったそうなのですが、
ここに至る話もなかなか愉快なのでアリマス。


 家光が武芸に熱心であったことは既に書いた通りですが、
当たり前ながら、宗矩には全然勝てないわけで、これに家光は大いに不満を持ち、
寛永十年(1633)ごろ、宗矩にその旨伝える手紙を出します。
原文は長い上にひらがなが多くて読みづらいので、
大意をまとめると、大体こんな塩梅で砂。


 「自分はちゃんと修行してるし、遊び半分でなんかやってないんだが、
  でも、なんかもひとつ強くなれてない。
  お前(宗矩)、毎度「Exactly(結構でございます)」とか言うけど、
  もしかして…本気(マジ)で教えてなかったんじゃね?
  あんだけ目ぇかけてやったのに、
  もし手ぇ抜いて教えてたってンなら…「覚悟」しとけよ?
  でもこれからちゃんと教えてくれるなら、お前だけじゃなくて、
  友矩とか友矩とか友矩とか、あと名前忘れけど他の連中のことも
  これからも気にかけてやるから安心すれ。
  わかるか?オレの言ってる事…え?
  「罷免する」と心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだッ!」


 まー若干超訳ですが、なんつーか完全に脅し入ってま砂。
あと、この時点で友矩の名前だけ出ててワロタ。十兵衛…。


 そんなこんなで癇癪起こした家光に対し、
宗矩は一策を案じて、家光に提案します。


            , '´  ̄ ̄ ` 、
          i r-ー-┬-‐、i
           | |,,_   _,{|
          N| "゚'` {"゚`lリ    (禅を) や ら な い か
             ト.i   ,__''_  !
          /i/ l\ ー .イ|、
    ,.、-  ̄/  | l   ̄ / | |` ┬-、
    /  ヽ. /    ト-` 、ノ- |  l  l  ヽ.
  /    ∨     l   |!  |   `> |  i
  /     |`二^>  l.  |  | <__,|  |
_|      |.|-<    \ i / ,イ____!/ \
  .|     {.|  ` - 、 ,.---ァ^! |    | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l
__{   ___|└―ー/  ̄´ |ヽ |___ノ____________|
  }/ -= ヽ__ - 'ヽ   -‐ ,r'゙   l                  |
__f゙// ̄ ̄     _ -'     |_____ ,. -  ̄ \____|
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___`\ __ /    _l - ̄  l___ /   , /     ヽi___.|
 ̄ ̄ ̄    |    _ 二 =〒  ̄  } ̄ /     l |      ! ̄ ̄|
_______l       -ヾ ̄  l/         l|       |___|
        禅を学ぶことを提案する柳生宗矩(イメージ図)


 まあ、柳生新陰流自体、禅の影響を受けた流派ではあったのですが、
宗矩の思想では、今よりも更に禅の理念を強める必要から、
家光自身が禅を学ぶ必要があると判断したので砂。
で、これ幸いと「上様がイマイチなのは禅をやってないからでございます」
とか言って、そこで、その禅の師として沢庵を推挙したので砂。


 こうして、宗矩の推挙により家光と引き合わされた沢庵は、
抜群のトークで一気に家光のお気に入りとなり、将軍家の師僧として抜擢されます。
(これに対し、当人は「これはとんだ繋がれ猿だ。山に帰りたい」とか言って
 大層迷惑がってたそうですが)


 こうして江戸に居着く羽目になった沢庵は、
家光に禅の思想を指導すると共に、宗矩に対しても、
禅の観点から見た剣術への見解をひとつの書に記し、伝えます。


    これが「不動智神妙録」です。


 この不動智神妙録で述べられている要点をまとめると、
以下の2点になります。


   1:「心をとどめぬが肝要にて候」
   2:「剣禅一如」


 1は「一つの物事に心(意識)を留めるな」というところで砂。
所謂「無心」の状態であり、「不動智」と呼ばれるものでアリマス。
あれこれの例を挙げたり、説明したりしているのですが、
一言でまとめれば、これに収まります。


 そして、2は「剣も至れば禅に通ず」ということで砂。
心法を修行するについては仏法も兵法も変わりはなく、
これを転じて、1で挙げた「無心」こそ勝負の要諦なり、と言い、
これにより、剣と禅を橋渡しする下地が作られたわけでアリマス。
実際、禅の観点から剣を語った最初の書、ということで、
「剣禅一如」の話が出る時、この本はよく引き合いに出されま砂。
(尤も、この本には「剣禅一如」の単語は載ってませんのでご注意)


 その上で、少し、不動智神妙禄をまとめてみました。
こちらは兵法百首と違って、原文併記で意訳するときりがないのでご勘弁をば。


===========================


 まず、剣だけに限らず肝心なのは、
「ひとつのことに心を留めるな」ということである。


 例えば、立ち合った時、自分の剣や相手の剣に、
あるいは相手の動きや、周りの様子などに心を留めていれば、
その留めているところ以外が見えなくなる。
これでは十全な働きなどできない。


 また、迷いやこだわりも心を留める物事である。
迷いに囚われていれば、それ以外のことに意識が向かなくなる。
そもそも、迷いに限らず、何くれと考える事自体が執着である。
「迷わないぞ」と考えることすら、既に迷いであり、執着である。

それ即ち、一つの物事に心を留めているということなのだ。
実に不自由である。


 それら一つの物事に心を留めずあれば、
逆に全てがまとめて把握できる。
もし、千手観音が己の一つの腕に意識を集中すれば、
他の九九九本の腕は不自由であろうが、
何も意識しないまま、ただ無為に動かすのであれば、
たちまち千本の腕は全て自在に、即座に、動くであろう。
これが自由な心、即ち「不動智」の状態である。


 このような境地に達すれば、
目の前の一事に心を留めず、全体を把握できるようになるので、
たとえ一人でも十人を相手にすることも可能である。


 そのような自由な心を得る為には、
まず、迷いやこだわりをなくさねばならぬ。
しかし、人は何も知らない時であれば、
自由な心をもっているのだが、
学び、経験を積むに従い、
迷いやこだわりが生まれてきてしまうものだ。


 この迷いやこだわりを解くために、理を得、事を得よ。
つまり、よく学び、よく修行せよ(=経験を積め)。
理、事を得ることで、更なるこだわりや迷いも湧こうが、
理、事を極めれば、こだわりや迷いもない、
初心の時のような自由な心を持つことができるだろう。
それ即ち「無心」である。


 そのような境地に至れば、
「これをするぞ」などと意識することもなく、自然に物事を為す事ができる。
これが至極の境地であり、これを目指す為に修行するのだ。


===========================


 大体、斯様なところでしょうか。
果たして本当にこれでいいのか、ちゃんと理解できているのか、
自分でも謎というか、即ち、迷いのある状態でありますので、
できれば、以下の本文もお読み頂ければ重畳。


 【不動智神妙録(全文)】
 

 あと、この不動智神妙録の最後には、
沢庵が宗矩に宛てた例の説教なんかも載ってるのですが、
最後の最後に、面白い歌が載ってるので砂。
こんなの。


 『心こそ心まよはす心なれ 心に心 心ゆるすな』


 なんだか謎かけのような歌ですけど、
この歌、字を足すと、意味が通じるようになります。


 妄心こそ本心をまよわす妄心なれ
 妄心に本心(よ) 本心ゆるすな


 つまり、心を「妄心=迷い」と「本心」とに分け、
妄心に本心を惑わされること無かれ、ということになります。
まあ、物凄く端折れば「迷うな」と言ってる訳で砂。
不動智神妙禄の最後に相応しい歌でアリマス。


 こうして、父・石舟斎から柳生新陰流の兵法観を、
友人・沢庵から「無心」の思想と「剣禅一如」の概念を学び取った宗矩は、
これに、自らが得た官僚・政治家としての経験や、
孫子や大学などの中国の古書、更には柳生家と親密な付き合いのあった
能の大家、金春家より得た能についての教養など、
己の学びえたものを全て合成・再構成することで、
自らの、即ち「江戸柳生の心法」を説いた理論書を書き上げます。


   それこそが「兵法家伝書」です。


 てなところで、前振りは終了。
次こそ「兵法家伝書」をベースに、
宗矩自身の思想たる「活人剣・治国平天下の剣」について
解説をしていくですよー。

【柳生一族、そして宗矩】その19:柳生但馬守宗矩(7)「心法の江戸柳生:その二つの源流(1):柳生石舟斎「兵法百首」」

 さて、ちょいと補足が続きましたが、今回から改めて本題の話をば。
宗矩の思想である「活人剣・治国平天下の剣」について解説を行いたく。


 ただ、前の刀法の説明の時もそうでしたが、まだまだ当方自身の勉強が
足りていないところもありますので、話を丸のみにせず、
「大体こんなもんか」程度に読んで頂ければ重畳ー。


 さて以前、江戸柳生と尾張柳生のことについて述べた際、
尾張柳生は「刀法の尾張柳生」と称されている、と書いたわけですが、
これに対し、宗矩の江戸柳生がどのように称されたのか、といいますと、


          「心法の江戸柳生」


 というのが、その名となります。
むしろ、江戸柳生(というか宗矩)が「心法」を唱えたことが、
普通の剣術流派たる尾張柳生をして「刀法」の枕詞をつけさせたのではないかと。
それくらい、宗矩の唱えた「心法」というのは目を引いていたわけで砂。


 さて、その上で、なのですが、この江戸柳生の心法というものは、
元を辿れば二人の人間の思想に行き着きます。


 ひとつは宗矩の父、柳生石舟斎の「兵法百首」。
もうひとつは、三代将軍家光が師僧、沢庵宗彭の「不動智神妙録」です。


 今回は、この「江戸柳生の心法」の源流たる二人のうち、
石舟斎の「兵法百首」について書いてみようかと。


 そもそも、剣術は単なる戦場での実用技術だけのものではない、と称したのは、
実は宗矩が最初ではなく、遥か以前、室町時代初期からあった思想なので砂。
即ち、中条流の祖・中条兵庫頭長秀と、
天真正伝鹿取神道流の祖・飯篠長威斎家直であります。


 中条長秀は、自らの流派を「中条流平法」と称していました。
曰く、「平らかに一生事なきをもって第一と為す。戦いを好むは道に非ず」と。
つまり「兵法ではなく"平"法である」と言っていたわけで砂。


 飯篠長威斎は「熊笹の対座」という謎の術を使って、
立会いを希望する武芸者達を追い返していました。
具体的な中身は不明ですが、なんでも長威斎が熊笹の茂みの上に座ると、
笹は一本も折れもせず、まるで笹の上に浮いているように見えたので、
これは何事ぞ、と驚いた武芸者たちが戦わずして去っていったというので砂。
そして、彼もまた己の流派のことを「平法」と称していたそうです。


 つまり、二人とも己の剣術を戦のための実用術であるとする前に、
「兵法は平法である。平時の術であり、平和の術である」としていたわけで砂。


 しかし、彼らのこの思想も、その政治的立場の弱さや、
その後の戦乱によって剣術の実用性の面の優先度が上がり、
それによって派生した、より実戦的な諸流派の登場によって埋もれてしまいます。


 そして、戦乱の時代を越え、この二人の思想的後継者となったのが、
新陰流の流祖・上泉秀綱、そしてその後を継いだ柳生石舟斎宗厳でありました。
元々、新陰流自体が陰流だけではなく、上記の二流派のエッセンスも
取り入れた流派であり、また、秀綱の「活人剣」の思想や、
それを更に発展させた石舟斎の「無刀取り」の思想などによって、
石舟斎は「兵法(剣術)は単なる剣術に非ず」ということを軸に、
柳生新陰流の思想として纏め上げます。


 それがどういうものであるかについてですが、
石舟斎は、己の思想を語るに際し、歌を詠みました。


    これが「兵法百首」です。


 以下に挙げる歌が、石舟斎の思想の要点になるかと思われますので、
原文と意訳を並べて挙げてみようかと。
(意訳は当方の超訳なので「意味が違うよ!」というツッコミがあれば是非)


 まず、石舟斎の兵法歌といえば、最初に挙げられるのが、


 『兵法の かちをとりても 世のうみを わたりかねたる 石のふねかな』
 (意訳:剣術でいくら勝っても、世の中どうにもならんよね)


      r ‐、
      | ○ |         r‐‐、
     _,;ト - イ、      ∧l☆│∧   良い子の諸君!
   (⌒`    ⌒ヽ   /,、,,ト.-イ/,、 l
    |ヽ  ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒)  兵法が上手くなっても
   │ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /|  それで世渡りできると思ったら大間違いだ!
   │  〉    |│  |`ー^ー― r' |
   │ /───| |  |/ |  l  ト、 |  立合いに勝っても世の中どうにもならないぞ!
   |  irー-、 ー ,} |    /     i  勉強になったな!!
   | /   `X´ ヽ    /   入  |
  柳生石舟斎(イメージ) 柳生松吟庵(イメージ)


 この歌で砂。
これは、柳生庄という領地、及び、そこに住む一族に対する責任を
石舟斎が持っていたからこそ、という部分もあったと思いますが、
この時点で、既に、単なる実戦技術としての剣術、
単なる立ち合いの勝ち負けなどに対する無常観が浮かんでま砂。
作られた時期も相まって、これって単に石舟斎がヘコんでるだけじゃないの?と
思われがちですけど(まあ、そういう心情もあったでしょうけど)


 そして、そこに畳み掛けてくるのがこれらです。


 『兵法は 知りても知らぬ よしにして いる折々の 用にしたがえ』
 (意訳:剣術なんかひけらかすもんじゃないよ。
     その時々にあわせて具合のいい対応しなされ)


 『無刀にて きわまるならば 兵法者 腰の刀は 無用なりけり』
 (意訳:強まるだけ強まったらそもそも戦わないんだから刀なんぞ使わんよ)


 なんか剣術そのものを全否定するくらいの勢いであり、
そもそも剣を抜くような事自体、まだまだ未熟である、ってことですか喃。
ただ、あくまで「きわまるならば」なので、
その域に達するまで、厳しく長い修行がいることは否定してませんな。
単に「戦わない(戦えない)」ではなく「戦う必要がない」ことの実現の困難さと、
その領域に至った時の「活人剣」「無刀取り」があっての歌である訳で砂。


 ここまで読むと、まるで石舟斎が剣術を
全否定してるみたいに読めますが、まあ、そんなことはなくて、
こんな塩梅の歌も残しているわけですよ。


 『兵法は 浮かまぬ石の 舟なれど 好きの道には 捨てられもせず』
 (意訳:剣術なんかやってても世渡りの役に立たん事くらいわかってるけど、
    好きでやってんだよ。ほっとけ)


 『兵法や 腰の刀も 相同じ 朝夕いらで いることもあり』
 (意訳:剣術なんかそうそう使うもんじゃないけど、
     たまには使うかもしれんから修行はしとけ)


 前に、宗矩が剣術のために大ハッスルしてたのは、
「剣術とか!好きだから!」なんじゃなかろうかと書きましたけど、
この歌を見てると、宗矩のそれは、石舟斎のが移ったんじゃないか?
という気がしてきま砂。
もしそうなら、よっぽど楽しそうに見えたんですか喃。


 あと2つ目のは、剣術なんぞ世渡りの為にはそう役立つもんじゃないし、
役立っても多寡の知れたもんだけど、使うこともあるかもしれんから
修行自体は怠るな、という心掛けを説いてま砂。
なんにせよ、剣術の世間的な価値の低さを認めた上で、
なおやろうとするに際しての心積もりが読み取れる趣です喃。


 そして、これがキモなのですけど、
宗矩の思想の源流として、石舟斎のそれがある、と書いたわけですが、
それに対応する「治国平天下の剣」の原形とも言える概念を歌った歌があります。


 『世を保ち 国のまもりと なる人の 心に兵法 遣わぬはなし』
 (意訳:国を治める人こそ、心法として剣術を使いなされ)


 『調伏の 二字の心を 兵法の 極意と常に 工夫して良し』
 (意訳:煩悩を如何に抑えるか。これこそが剣術の極意と思えよ)


 宗矩の言う「治国平天下の剣」がどういうものであるか、
それは後に説明しますが、その概要たる「剣術を統治に応用する」、
「剣術の修行をもって精神修養に活かす」というものは、
既にここで石舟斎が示しているわけです。


 ここまで挙げたものからも分かる通り、
石舟斎の思想、即ち「剣術は単なる戦場での実用術ではない」は、
まさに宗矩の「活人剣・治国平天下の剣」の種子ともいえるものであり、
石舟斎がいてこその宗矩、と言えるであろうと。


 なお、念のため書いておきますが、上に挙げたもの以外にも数多くの歌があり、
その中には、普通に剣を使うに際しての心掛けなどを歌ったものもあり、
別に剣術や立ち合いを全否定してるわけじゃないのでご安心を。
たとえば、


 『仕合して 打たれて恥の 兵法と 心に絶えず 工夫して良し』
 (意訳:仕合で負けたくなかったら、常日頃から工夫しなさい)


 『兵法に 余流をそしるその人は 極意いたらぬ ゆへとこそしれ』
 (意訳:よその流派を馬鹿にするようなこと言ってる奴こそ未熟者なんだよ馬鹿)


 『新陰を 余流となすと兵法に 奇妙のあらば 習い訪ねん』 
 (意訳:よその流派にいいものがあれば、行って習ってきなさい)


 こんな塩梅でアリマス。割と腰が低いで砂。
この辺も含めて、原文の載ってるサイトがあったので、
もしよろしければご覧頂ければ重畳ー。


 【兵法百首(本文)】
  

 これらの歌は、石舟斎が柳生庄へ逼塞した期間に纏め上げられたものであり、
この時期、石舟斎直々に指導されていた宗矩も、この歌に示された
石舟斎の思想(=兵法観)の影響を大きく受けることになります。
石舟斎自身が試行錯誤してた時期に、その試行錯誤の様子を見ながら
薫陶を受けていたわけですから、影響は大きかったでしょうな。


 そして、若き日の柳生又右衛門宗矩は、
新陰流の修行の一環として禅寺へ赴き、修行を積んでもいました。
そして、そこで一人の若き禅僧と出会いました。


      これが後の沢庵宗彭であります。


                     あわてない、あわてない
                      一休み、一休み
         ,,-‐----‐、 , -'"` ̄ ̄"`''-,__, --‐‐-..,
        /  、゙ヽ、 ‐-'´          ヽ‐- / /   ヽ
      ,/´ .., ヽ,,l_)'    zェェェァ'  ;rfァt ヽ ,ト/ /    ヽ
     /    ヽ,r' ,l′    _,,,   . __,,  ,l゙.-〈__r,'、   ヽ_
    _.l    ヽ」   ,l    .イてソ` l イにj`,/    ゙‐ヽ、_,,  /l
    ,l l|  −'´ll   ,l      rソi"  ヽ じ'' f゙l    .,//゙l   //\
    l`l|     l|ヽ  v'⌒ヽ        .,ノ  j/    |l    //   }
   l  \    l| ,l  l_U>     r‐--‐ァ  ,l    |,l   //    l
   /   '\   l|`l   ゝ_,´    ゙ヽ__r′ .,.'   ___l ヽ //     |
  ,l     '\ l| .lヽ__lL..,,,  __ ,, _イ___./ |  ∨/      ,}
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  ヽ          |   \.    ヽ/    l  ヽ         /j
    \        /     ヽ    ヽ  |   l          /
     ゙l\..     /      ヽ     ヽj   |    ,    /
     ヾ              ヽ     ヽ   ヽ  /    ,l
      ヽ、             ヽ     l   } /    ,r′
        ヽ             ヽ     |  /′ ,,...''
        `'':..、  ___ ___,..-..   |,    ,l ,  :..-‐'"´
            ̄ /lr‐‐‐'--、_.....  l_,..-'''""'- "
               沢庵(イメージ図)


 てなところで、今回は終了。
次はこの沢庵という人物についての話と、
日本で初めて禅の側面から剣を語ったという書「不動智神妙録」について
あれこれ書いてみようかとー。

【柳生一族、そして宗矩】その18.5B:「趣味に生きた男」宗矩

 さて、宗矩の特異性についての話で、
「宗矩は剣を救うために、剣を意味を変えたのだ」と書いたわけですが、
そもそもなんでそんなことしたのよ、という動機の部分について、
もう少し細かめに突っ込んでみようかと。


 前は、この動機について「宗矩も剣士だから」で済ませましたが、
当方思うに、そんな高踏なもんじゃなくて、もっとストレートに、
「剣術とか!好きだから!!」だったんじゃなかろうかと。


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    :|     .| '⌒ ⌒ヽ::::::|  |     / < 剣術とか!
      l     |       |::::|  |    | ̄〉  |  好きだから!!
     l.    |____l_;|  |  /| /  \__________
    / |   └――――┘ |  /                /
  ,/ /|      ー--    /\_/                  /
/   / ;|`ー-- __   _,/|  | |                 /
   l  /         ̄  /  | |              /
   |             /   |               /
      柳生宗矩(イメージ図)


 そもそも子供の頃からやってることとはいえ、
もし、単に剣術以外で身の立てようが無かったから、ということであれば、
惣目付か大名になった時点で剣術指南を辞め、政治一本槍に向かうことも
できたのではないか、と思うので砂。
余人ならばともかく、宗矩ならば、それも不可能ではなかった筈です。
しかし、結局、最後まで続けたのは剣術指南役だったわけですよ。
つまり、ここで「何故、そこまで剣にこだわったのか」という疑問が出ると。


 実際、宗矩に対してよく言われる批判として
「宗矩は出世のために剣を使っている」、
即ち、「出世のために汚い(=剣を汚す)こともやっている」というのがあります。
(まあ、"剣を汚す"ってのも随分と主観的な話であるなあとは思いますが)
ですが、そう言われる割に、史料を見る限り、宗矩の出世欲は
今ひとつ強く感じられないので砂。
逆に、真実かどうか不明瞭な点があるとはいえ、
宗矩が自らの加増を断ったり、自領を減らすような言動をした話は3つあります。


 ・大和高取五万石の内示を断り、友人の植村家次へ譲った
 ・次男・友矩の大名への内示を断った
  (これは気づいてなかった、という説もありますが)
 ・死ぬ時、所領、及び今まで下賜されたものを全て返上した


 もし、出世欲の塊のような人間なのであれば、
如何に真否が不明とは言え、このような逸話が出るのもおかしな話ですし喃。
しかも複数。


 また、「出世のために剣を使っている」の論拠として、
「将軍に対しては手加減して教授し、機嫌を取っている」というのがあります。
まあ、これについては、家康の「匹夫の剣」発言の件で
既に話が終わってるような気もするのですが、
これに絡んで、少し面白い話があるので砂。


 元和八年(1622)5月、家光が将軍になる前年、
家光(&頼宣)は宗矩に対し、柳生新陰流の伝書を渡せ、と言い出します。
まあ、剣術(というか柳生新陰流)にハマった二人が、
それこそ「zipでくれ」ばりに「伝書全部よこせ」と言ってきたわけで砂。


 で、宗矩はひとまず伝書を書き上げ、これを提出しました。
ここまでだけであれば、「奥義に達してない人間に伝書を渡すなんて、
やはり出世のために剣を使ったって言われても仕方ないんじゃないの?」と
言われても仕方ないのかもしれませんが、この伝書、
ラストに仕掛けがあったので砂。


 「心中おさめたる所、又これよりこれなしと申し所をたもつものに、
  人を見て印可是也、上手なりとも、たもたぬものに、
  ゆるす事これなきを当流の第一とす、印可則極意也」


 要するに、「上意であるので、伝書は渡しましたけど、
奥義に達するだけの人間でなければ、印可はあげないのでそのつもりで」と言うことで砂。
つまり、こんな塩梅。
                                              /|
                                          ∧ ∧/ レ
                           /⌒〜Y⌒"""ヘ   ヘ∨ ∨
                         /⌒/   へ    \|\
            /           /  /   /( ∧  ) ヘ ヘ
           く           // ( /| | V )ノ( ( (  ヘ\   印  て
    ┘/^|    \         (  | |ヘ| レ   _ヘ|ヘ ) _ヘ    可  め
    /|   .|              |  )) )/⌒""〜⌒""   iii\    は  |
     .|  α  _          ヘ レレ  "⌒""ヘ〜⌒"  ||||>       ら
          _∠_       イ |  |  /⌒ソi   |/⌒ヘ  <    や  に
     _     (_        ) ヘ  | ‖ () ||  || () ||  _\   ん  は
     /               (  ) ヘ |i,ヘゝ=彳  入ゝ=彳,i|\    ね
    /ー               ( /  """/   ー""""   >   |
      _)   |          ヘ(||ii    ii|||iiii_/iii)ノヘ|||iiiii<   |||||
          |          ( ヘ|||||iiii∠;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;    フ    ""'
    /////   ヘ_/       ) ヘ|||""ヘ===二二二===7フ / ム/∧ ∧ ∧
    /////              (  | ii  | |LL|_|_LLL// |    )( ∨| ∨)
   ・・・・・                ) )| || | |||||||||||||||||||||||| | |   ( ヘ | ヘ ) (
          ___        | | /| .| |||/⌒/⌒ヘ | | |  iiiiヘ ( | ( | /
            /         / (|.| | |       | | |  iii  ) | ヘ )( )
            (          ( /..|  | |_____/ | |  iii  ( )( // /
            \         ) )..|  |ヘL|_|_L/ / /  ,,,,--(/Vヘ)(/
                       / ( .|ヘ \_ヘ |_/ / /
                       イヘ /彡  ∪/し   /
                        ヘレ\レiiii||||iii(iii||/
                                  /
                            柳生宗矩(イメージ図)


 こんなんだったら、もったいつけて渡さない方がまだマシなんじゃないの?
と言わんばかりの注意書きというか、皮肉で砂。
「あんたらは全然修行不足でダメ」って言ってるようなもんですし。
世に言われるような意味で「剣を出世に使っている」のであれば、
少なくともこの一文を書くのはあり得なかろうと。


 そうなると、大して出世欲が強くないのであれば、
何で宗矩は出世していったの?という疑問が出るわけです。
当方が、その理由を「宗矩は剣を守るために出世したのだ」と推測したのは、
これだと、宗矩が最後まで続けた役職が剣術指南役であったことに
合致するからなのですな。


 要するに、宗矩は自分の好きなこと、
即ち、剣術をやるために出世しただけなんじゃないかと。
つまり、「出世のために剣術を使った」のではなく
「剣術のために出世した」のであり、
あくまで「剣>出世」だったのだろうと。


 だからこそ、(剣術を守るために)必要な出世さえ出来れば十分であり、
むしろ、目的達成のためには、必要以上の出世は危険である、とすら
考えていた節が見えます。
その要因は、まだ秀忠が将軍だった時代の、宇都宮十五万石・本多正純の一件
ではないかと当方は考えております。

 それは、重臣本多正純(家康の腹心であった本多正信の息子)が、
元和八年(1622)、秀忠暗殺を試みたという「宇都宮吊天井事件」によって
失脚した一件です。


 ここで注意したいのは、この失脚、まがりなりにも将軍を暗殺しようとした、
つまり謀反であるにも関わらず、当初の罰は出羽の内由利郡五万五千石への転封のみ、
その後、罰が厳しくなっても、配流程度で終わっている、ということでアリマス。
先の坂崎の件と比較しても、この処罰の軽さは異様です。
(参考:宇都宮十五万石への加増前の本多家は下野小山藩五万三千石)


 そもそも、吊天井で暗殺、という仕掛け自体、不自然なこともあって、
この事件は、親子共々戦場働きの無い上、彼自身が若輩であるところに、
大幅な加増(下総古河三万石から段階を経て宇都宮十五万石に)を
受けていた正純への嫉妬による幕府内の不満の高まりを抑える為の
仕掛けだったのでは、と言われてるので砂。


 この結果を見て、同じく、戦場での直接の働きが少なく、
徳川においても比較的新参である柳生家は、出世のし過ぎに注意する必要がある、と
宗矩が考えても不思議ではなく、だからこそ、自らの出世を、
自身の目的に必要なもの以上にならないよう、心掛けていたのではないか、
と思われるので砂。


 これは裏返せば、剣を守るための出世、即ち、
将軍や各地の大名と付き合いが出来る環境には上り詰めておく必要があったわけで、
それゆえに受けた惣目付であり、大名就任だったのでは、とも言える訳ですよ。


 そして、正純とは別に、もう一人、宗矩が気にかけていたのではないか、
と推測できる人物に、千利休がいます。
茶の湯」を「道(数寄道)」に仕立て上げた一人であり、
時の権力者の裏づけを得て、己の価値観を確立し、世に広げたという点では、
宗矩が目指す立ち位置に近いものがあったのではと思われます。
(つか、宗矩が修行に出向いたことがあるらしい大徳寺は、利休と縁があるため、
 その絡みでより細かな話を聞くこともあったかもしれませんな)


 しかし、利休の最後が、秀吉の勘気に触れての切腹であったことを思えば、
少なくとも、同じ轍を踏むわけにはいかない、と考えるのも十分あり得ただろうと。
ましてや、相手は"余は生まれながらの将軍である"発言の難物、家光ですし。
その意味では、宗矩の採った道は、決して簡単なものではなく、
むしろ、細い吊橋を渡るが如き心境だったのでは、と。


 ちなみにもうひとつ、出世とは別枠での権勢欲の話として
柳生新陰流の天下一を守るために宗矩が他流派潰しを」というのもありますが、
これも怪しいものがありま砂。
まず、それならもうひとつの御流儀・小野一刀流を放っておくのは不自然です。
家光時代の宗矩ならば、小野を追放することなど然程の手間でもなかったでしょう。
(それでなくとも親父似で問題の多い忠常でしたから、尚更)
それに、宗矩がそういうこだわりを持つような人間であれば、
そもそも新陰流の正統を利厳に継がせる訳がないと思われますし。


 あと、話変わって「活人剣・治国平天下の剣」の概念について、
太平の世における剣の有為性を訴える為に作り出した理屈であり、とんちである、と
書いたのは、この概念は極論すれば、


 「剣術をやれば、君もみるみる背が高くなり、腹筋も割れ、視力も回復し、
  ダイエットも成功、女の子にもモテモテで、たちまち大金持ちになって云々」


 とか言ってるのと同じだったからでアリマス。
要するに、プレゼンの企画書における売り文句だったんじゃないかと。
まあ、案外本気で、


 「いやだって剣術って超面白ェんですよ?もォ剣術最高!
  剣術ができれば政治だってできるし、自己の鍛練だってできるよ!
  だから武士は全員剣術やれ、すぐやれ、今やれ、みんなやれ。あーほれほれ」


 とか思ってた可能性もないとは言い切れませんが。
実際、「兵法家伝書」での剣術の扱いってそんな感じですし。


 だから、宗矩が出世したり、治国平天下の剣とか言ってみたりしたのは、
全部、自分の好きな「趣味(剣術)」のためであって、


 宗矩「だって、他の奴はこういうのやってくれないんだもの。
    俺がやらなきゃ、他、誰かやってくれるの?つか、できるの?」


 というのが、案外、宗矩の本音だったんじゃなかろうかと。
実際、こういう外と中の調整をする人がいないと、なにくれとツラいですし喃。
(誰もスケジュール管理しない開発みたく…)


 だから、前に「後に回す」と書いた件で、
沢庵に、えこひいきと賄賂の件で怒られてたのは、
その辺の絡みで、割と都合に合わせて動いてたのが理由なんじゃなかろうかと。
えらいさん相手に接待稽古して、手加減して褒めるくらいで気分よくやってくれて、
それで剣術に執心してくれるなら、そう悪いことでもあるまいよ、とか。
あと、「あ、お土産ですか。すいませんね。どもども」とかいう具合に、
くれるならもろとこ的なトコだったりとか。
もっと言えば、シグルイ的に言うところの「義理許し」「金許し」が
あった可能性もありま砂。
(つか、家光相手の印可はまずそれでしょうし)


 そういう意味では、文武両道の上に剣術を守るための熱意は凄いけど、
人格としては、格段に高潔(それこそ山岡宗矩みたく)でもないけど、
極端な暗黒野郎(それこそ隆慶宗矩並に)というわけでも勿論無い、
割と普通のおっさん(ただし趣味方面の能力は異能者ばり)の姿が
目に浮かぶようでアリマス。
…こう書いてると、なぜかあぶさんとかクッキングパパとかいう単語が
脳に浮かぶのはどういうことなのかと。

               -‐一……ー- 、
          , '´::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
         /::::, -‐ァ:::, -―ァ:::::, -、::::::',
.      /イ/-、∠/-― 、`ヽ:i  }::::::|
.       /イ[≧y  T o ̄}  l」   |::::::|   (その太刀は)うまいぞっ!
         l  r′    ̄    、ー' :::::|
         r┴―――一'′     ヽ :::::|
         |                    \|
         |                }
         |                /′
.           ヽ_____         '´ /
.           /`ー――――一'´   /
          /  /⌒ヽ.        /

            柳生宗矩(イメージ図)


 まあ、もしかしたら後藤隊長なのかもしれませんが。
(個人的にはそっちの方が嬉しい)


       _.. -= ' ´  ̄ ` - .,_
     ,r'",,;;  ,;;;; ,,;;;  ,;;;;;;;;;;,,ヽ、
    / ;;;,  ,,   ,,,,,;;;;;;;;;;;;;; _ ;;;;;, ヽ
   ./;; r- ...,__  ,.. -y ヽ  ̄`i ;;;;;;,,ヽ,
  ,i ;;; l  / ノ ~l;'~       l ;;;;;;;;;; i
  i ;;;; i __, ...、 ! ,.- ., ___  .v ;;;;;;;; l
  !, ;; i'-,- '''ヾヽ  ~`r' ー=-~` i r- 、i   みんなでしあわせになろうよ…
   ヽ、i 'rーu-,i l   t'~"uー,.   l,lr' ll
    i, i ヽ、_,/,i   ヽ, -'"   リ j i
     i     l :::.      ..::::  ,/
      l    i_ ヽ     ..:::::: r'"-.,_
     i   ..,__ _ _、 ::::::::: i ヾ\~"ヽ
     ,._,-'"-' ~`二  '"  :::::: ,y ,i ヽ,
     ~_.ヽ    ''    ..::: ,-'" i   /i
  _,.-=' /, ヽ、      ,.-' ,'  ,r  ,y l

  • '"   / i l丶,-ヽ- ='"  ,'  /  ,'  i

         柳生宗矩(イメージ図)


 あるいは、ゴローさんでもうれしい。


───┐     ,,,,,,,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,,,,,,.┌──
     .|    ,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;三三ミ;;;;;;;;;;,|
し 俺 |   /;;;;;;;;;ミ-三三三ミ/ミミ;;|  焦
た は |  彡;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ,,,,ミミ;;;;;.| る
い 剣 |  ヾ:{"`/~_/"~    ");;;;;;;;;|  ん
だ 術 |  ヾ{,---、 _ __, --  ./;;;;;;;;|  じ
け を |   }_____,,_ <-、,,,---、 `-;;;/,|  ゃ
な    .|   `l -ニエ) < 'ニエ>    / |  な
ん   |    .|  ' {        ヽニ|  い
だ    .|    .|   { -、      .l | |
     .|    |  、`ニ'_     /| .|
     .|    ヽ .ニニ `    /人|
───┘    ヽ       ///|__
           ヽ__,..-=~"~/: : : /: : :
     ___,.-ー//`,=、'~"  /: : : :/: : : :
   ,-':/: : : : :/; // 彡ヽ  /: : : : : /: : : : :
          柳生宗矩(イメージ図)


 あと、もしかしたらありそうなのは、島耕作なんですか喃…。
66で子供(六丸)作ってるし…。「剣豪・島耕作」?
島耕作ってAAないんで砂。意外)


 まあ、何故か最後はおっさんAA陳列状態となりましたが、
とりあえず結論としては、


  「剣術大好き!」な少年の瞳を持った大人の男


 というのが宗矩の実態だったんだよ!とか言ってみるのはどうでしょう鐘?
キラキラ瞳の宗矩とか割とレアな気もするのですけど。
(なお「なんで宗矩は剣術が好きなのか」については、
 「好きに理由なんていらないんじゃない?」というリリカルな回答をさせて頂く所存)


 尤も「でも、黒い方が面白くね?」って言われたら、
「そりゃそうだ」と力強く頷く所存ではありますが。

【柳生一族、そして宗矩】その18.5A:剣道=GUN道

 「その18」を書き終えた後で、この話は、
「当時の」武芸者と剣術の評価と「現在の」武芸者と剣術の評価のズレを
考慮に入れてもらわないと、宗矩の凄さが伝わりにくいかなあ、と思い、
その辺を補正するための例えを思いついたのですが、書き直すのも面倒だったので
補足の別章として「当時の時代背景」について書いてみることに。


 まず、平たく言えば、当時(戦国時代〜江戸初期)の頃の剣術というのは、
西部劇で言うところの早撃ちみたいなもんなんじゃなかろうかと。


 つまり、


  剣術 =早撃ち
  武芸者=ガンマン
  刀  =拳銃


 であり、早撃ちが「銃を速く正確に撃つための技術」であるのと、
剣術が「刀を使って戦うための技術」であることは、
その扱いにおいて同じだったのだろうと。
故に、剣術は基本的にどこまでも実用術であり、高踏な精神性なんぞの
入る余地はほぼなく、ましてや活人だの治国平天下だの唱えた日には、


      ィ";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;゙t,
     彡;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
     イ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;r''ソ~ヾ:;;;;;;゙i,
     t;;;;;;;リ~`゙ヾ、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ    i,;;;;;;!
     ゙i,;;;;t    ヾ-‐''"~´_,,.ィ"゙  ヾ;;f^!   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     ト.;;;;;》  =ニー-彡ニ''"~´,,...,,.  レ')l. < おまえは何を言っているんだ
     t゙ヾ;l   __,, .. ,,_   ,.テ:ro=r''"゙ !.f'l.   \____________
      ヽ.ヽ ー=rtσフ= ;  ('"^'=''′  リノ
    ,,.. -‐ゝ.>、 `゙゙゙゙´ ,'  ヽ   . : :! /
 ~´ : : : : : `ヽ:.    ,rf :. . :.: j 、 . : : ト、.、
 : : : : : : : : : : ヽ、  /. .゙ー:、_,.r'゙: :ヽ. : :/ ヽ\、
  :f: r: : : : : : : : !丶  r-、=一=''チ^  ,/   !:: : :`丶、_
  : /: : : : : : : : :! ヽ、  ゙ ''' ''¨´  /   ,i: : : l!: : : : :`ヽ、
 〃: :j: : : : : : : ゙i   `ヽ、..,,__,, :ィ"::   ,ノ:: : : : : : : : : : : :\
 ノ: : : : : : : : : : :丶   : : ::::::::: : : :   /: : : : : : : : : : : : : : : :\


 とか言われること請け合い、というのが当時の剣術の扱いであり、
その担い手たる武芸者の扱いだったわけで砂。
その意味では、剣術指南役といっても、金持ちの用心棒程度の存在でしか
なかったのではと。
(早撃ちが扱うのがメインウェポンたるライフルではなく、
 あくまでサブウェポンたる拳銃、というのも、
 槍や弓に対する剣の立ち位置に相似してるです喃)


 まあ、アメリカでは大開拓時代が終わった後でも、
個人が拳銃を携帯する伝統は残ったままなので、
もしかしたら早撃ちの技術の実用性は残っているのかもしれませんが、
(この辺は当方不勉強なので、ご存知の方がおられましたらご指摘頂ければ重畳)
日本の場合、関が原以前に行われた刀狩などのことを考えると、
元和堰武が成し遂げられた後、武士ですら刀を携帯しなくなる可能性だって
あったわけで砂。
そうなった時、その刀を使うための剣術や、
その担い手である武芸者の立場がどういうものになるか…?


 それをご想像頂ければ、宗矩の行った
「戦乱の時代の剣術」から「太平の時代の剣術」へのシフトが
どれだけの偉業であったかがご理解頂けるのではないかと。
はっきり言って「剣を変えた男」というより「剣を救った男」と言っても
過言じゃないですよ?


 実際、今、剣術が精神性や意味を秘めた"道"たる技として受け止められ、
武芸者に求道者的なイメージが付与されているのも、
このシフトが無ければあり得ないわけですし喃。
言ってみれば、現在の価値観が過去を改変しているわけで砂。
その辺を認識頂ければ、宗矩という人物の特異性を
より掴みやすくなるのではないかと当方思う次第。
(つか、そのシフトを起こした当人が、そのシフト後の価値観によって
 改変された"求道者的剣豪"の敵役になってるってのは奇妙且つ皮肉な話で砂)


 ちなみに超余談ですが、
ガンマンや早撃ちに道とか精神性とかが絡むのってなんかあったっけ?
と、思案したら即座に出てきたのがよりにもよってコイツ(↓)


           _ _, _ 、  、
       .,,,r"''"    ~`ノ)、
.      /          '-')ヽ
     /           .、_ノν
     (.  、、\ ヽ\ \、 ノノ-‐,'.ノ
     ゝ 、`ミ丶、゙ヾ ヾ、_ノノノ彡,ノ
     _ゞ;! r─-- 、` `,rェ--- 、ミ;リ
      !ヘl;|. ぐ世!゙`` ,ィ '"世ン 「ヽ
     !(,ヘ!   ̄'"  |:::.`  ̄  ,ドリ  ようこそ
     ヾ、!      !;     ,レソ
       `|     _^'='^_    ム'′   『男の世界』へ
       ,rト、  //ー-ヽヽ  /|
    _../ i|. \ '、!.(o~o).リ .,イ.:ト、
    /  i| ゙、\. `~´ /リ.:;!:::\、_
       ゙!  ゙、 `ー─''゙:::;:'::::|::::::::::\


 …このAAだけ見ると、どっかの「やらないか」みたいで砂。
まあ、彼の言動(『男の世界』「公正な勝負は人間を成長させる」)を見て
感じる違和感が、当時の人間が、宗矩の「治国・治国平天下の剣」発言に対する
違和感に近かったんじゃなかろうかと思うと、
ますます宗矩は大したもんだなあと思ったり。


 あと、少し話が変わりますが、十兵衛はよく柳生の異端児といわれますが、
むしろ逆で、宗矩の方がよっぽど異端なんで砂。


 これは、他に剣豪と呼ばれる人物、即ち、武蔵や小野忠明
あるいは尾張柳生の兵庫助利厳を見ればわかる通りで、
どの人物も、あくまで剣の腕で仕えた、または仕えようとしていたわけですよ。
そして十兵衛もそういう意味では従兄弟の利厳と同タイプで、
あくまで剣の腕で、というのが見えるわけで砂。
そういう意味では、普通の剣豪かな、と。


 しかし、宗矩はそうじゃないわけですよ。
剣士であるにも関わらず、(一見)剣の腕とは関係ないところで将軍に仕え、
しかも、それでいて「天下一」と賞賛されたわけで、
これほど異端の剣士も珍しいかと。
その意味では、十兵衛の場合は、
せいぜい「ええトコの息子がヤンキーに!」程度で砂。


 まあ、異端者の存在が時代の転換点となり、
その後の価値観の転換により、異端が異端として認識されなくなる、
というのは面白いトコで砂、と思ったところですいません、次もまた補足の話をば。
次は宗矩が剣の意味を変えた「動機」について、細かく書いてみようかと。

【柳生一族、そして宗矩】その18:柳生但馬守宗矩(6)「剣を変えた男、柳生但馬守宗矩」

 さて、今まで延々語ってきたわけですが、
ここで、遂にこの長い話のテーマである、


    「宗矩の特異性とはなにか」


 について書いていこうかと。


 柳生但馬守宗矩という人物が、剣士としても、柳生一族としても、
特異この上ない人物である、ということは最初に述べたことではありますが、
では、一体全体、彼の何が特異なのかといいますと、


      「剣の意味を変えた」


 という一点、及び、それを成し遂げた宗矩という人間の個性にあります。


 それまでの「剣」、即ち剣術は、
それを操るものの名称を「武芸者」と呼んだ通り、
あくまで「芸」であり、戦場で戦うための実用一点張りの、
むしろ、戦場においては槍や弓と比べれば、
二番手、三番手に過ぎぬ、実戦のための実用技術に過ぎませんでした。
ましてや、銃が登場してしまえば、尚更に。


 おまけに、時は移り、幕藩体制の安定に伴い、世の中は元和堰武の真っ最中。
銃や弓はおろか、剣とてそうそう使わない世の中になっていきます。
まさに戦場での実用技術としての剣術の必要性そのものが失われようとしている時、
これに待ったをかけたのが宗矩なわけですよ。


 宗矩は、まずこう言いました。


       「剣は禅に通ず」


 これを他の誰か、それこそ武蔵やもう一人の剣術指南役、小野忠常が言うのでは、
華麗にスルーされて(あるいは気づきさえされず)終了だったのでしょうが、
宗矩は、それら他の人物が持っていない武器を持っていました。


       それは、政治力です。


 先に述べた通り、宗矩は同時代の他の剣豪と異なり、
単なる剣士としてだけではなく、政治家としても高い能力を持っていました。
これは後に初代惣目付となったこと、更にその後、小なりとはいえ
従五位下譜代大名(大和柳生藩の藩主)となったことからも明らかです。
その上で、宗矩は将軍家光に極めて近しい剣術指南役でもあり、
家康が認めた柳生新陰流の流祖、石舟斎の息子でもありました。


 つまり、他の剣士たちと比べて、宗矩には、
自分の意見を他人−それも国の政策を左右するような人間−に認めさせる、
あるいは聞かせるだけの"力"、即ち政治力があったので砂。


 そして、宗矩には、戦う理由が、
即ち「剣は単なる実戦技術以上のものである」と
周囲に認めさせる必要がありました。


 何故ならば、宗矩もまた剣士だからです。


 これは当方の推測ですが、
おそらく宗矩は、このままだと剣が不要になるであろうことを
見抜いていたでしょう。
少なくとも、戦場での実用技術としての剣術は、
その意味を失うであろうことを。


 ならばどうすればよいのか。
剣士たるものが、己の寄って立つ剣が滅ぶ様を座して見ているわけにはいかない。
そして、それを留めることができる力を持っているのは自分だけである、
という状況が、宗矩を動かしたのではないかと。


 そして、それは、力(政治力)を得てからではなく、
それより遥か前、おそらくは元和堰武開始後すぐに気づいていたからこそ、
剣が滅びることを留めんが為、そのための力を持つ為に、
宗矩はなんとしても出世しなければならなかった。
即ち、それ−剣を守ること−こそが、宗矩が出世するための理由だったのでは、と。


 言ってみれば、剣の為に「一人で世界(世の中)に立ち向かった」のですよ、宗矩は。


 まとめれば、こうなります。


 状況:元和堰武によって剣術が不要になりつつある世の中
 目的:剣(剣術)を生き残らせる
 武器:新陰流、政治力、禅


 状況に対して目的が明確となり、己の武器が揃ったところで、
宗矩はある戦術を組み上げ、先ほどの「剣は禅に通ず」発言を皮切りに、
新たなる剣の概念を、若き将軍家光に訴えます。


    それが「活人剣・治国平天下の剣」です。


 友人の僧・沢庵による「剣禅一味(または一致、または一如)」の概念を取り入れ、
新陰流にある「活人剣」を、その名の通り「人を活かす(=活用する)剣」に変換し、
剣術を


   「禅に繋がる精神性があり、統治にも活用できる、
    武士たる者の修めるべき平法である」


 と言い張った訳なので砂。
(ちなみに、「剣禅一如」という単語は、後に考え出されたもののようで、
 少なくとも、沢庵の不動智神妙録にも宗矩の兵法家伝書にも使われてない
 単語なのですが、概念が伝わりやすいので使用しました)


 それまでの新陰流における「活人剣」、
即ち、上泉秀綱、及び、石舟斎の言うところの「活人剣」は、
先にも述べた通り、


 1:相手を動かしてそこを打つ、という「技法」
 2:人を殺さない剣、という「思想」


 という二つの意味をもっていたわけですが、
宗矩は、これを文字通りの「活人剣」に変えることで、
第三の意味となる、


 3:武士たる者の活きるための剣=「道」


 を作り出してしまったので砂。
殆ど「はしを渡っちゃダメなら真ん中を渡ればいいじゃない」の世界であり、
どちらの一休さんですか、でアリマス。
とんちにもほどがあるだろうと。


 こうした宗矩必死の訴え、というか一世一代のとんちにより、
剣術は単なる戦場での実戦技術を越えた「深遠たる深みを持った精神的なもの」、
「武士が修めるべき道たるもの」として認識されていきます。
これが尾張柳生の刀法と並べて称される「江戸柳生の心法」です。


 ここで利厳と宗矩を比較してみますと、


利厳は新陰流を「沈なる身の兵法」から「直立たる身の兵法」へ変換させたが、
宗矩は新陰流を「実戦の剣」から「活人剣・治国平天下の剣」へ変換させた。


 というわけで砂。


 無論、これを非難する人たちは多数いました。
たとえば小野忠明は「口先の兵法などは畳の上の水練と同じで、
何の役にも立ちません」と言い切り、新陰流の正統を継いだ兵庫助利厳にしても、
刀法の尾張柳生、と呼ばれた通り、あくまで実戦剣術としての新陰流の継承発展に
こだわり、宗矩が言う心法としての新陰流には立ち入らぬようにしていました。


 それでも、この宗矩の「活人剣・治国平天下の剣」は江戸時代を通じて広まり、
徳川三百年−剣を抜かないまま一生を終えた武士が大半を占めた時代−において、
剣術は武士の嗜みとして修められることになります。


 即ち「戦乱の時代の剣術」から「太平の時代の剣術」へのシフトであり、
宗矩は剣術を生き残らせることに成功したのです。


 そして、心法という意味において、
剣は後続の人々によって、"道"としての意味を更に深め、
これが「葉隠」などと融合することにより、
最終的に「武士道」として収束することになります。
単なる術が、倫理・道徳へ昇華したわけで砂。


 これは、柳生但馬守宗矩という人物、その周りの環境、過ごした人生の各条件が
全てが揃っていなければ達成できなかったであろう偉業であり、
まさに他の誰にも代替できない、宗矩だからこそできたことでアリマス。


 仮に、宗矩が「活人剣・治国平天下の剣」を提唱する前のいずれかの時点で、
誰かを宗矩にとって変わらせたとしても、宗矩と同じことは出来なかったでしょう。
それは、入れ替わるのが武蔵であろうと、利厳であろうと、
あるいは石舟斎、または上泉秀綱であろうと一緒です。
また、その場合、剣術というものは、確実に今とは異なったものに
なっていたでしょう。
(それがどういうものになるかはわかりませんし、
 その是非も不明ではありますが)


  剣を概念の次元で変えた、ただ一人の男。


  剣の為に世界と戦った男。


  あらゆる剣士、あらゆる柳生一族に比して、特異極まりない存在。


  それこそが柳生但馬守宗矩という人物なのです。


 なお、ここからはまた当方の主観的推測なのですが、
石舟斎が、新陰流が剣術以外のものになるのを恐れて
敢えて宗矩に正統を継がせなかったのでは、というのは既に書いた通りですが、
逆に言えば、石舟斎は、宗矩が、新陰流を剣術以外のもの、
もっと言ってしまえば、剣術以上のものに変えようとしていたのを知っていた、
あるいは、その変化をこそ目指そうとしていた石舟斎が、
その高齢故に、宗矩にそれを託した、という考え方もできるんじゃないか、と。
(まあ、宗矩自身が石舟斎に説明した可能性もありますが)


 そして、これは推測に更に推測を重ねるような話ですが、
案外、石舟斎が利厳に新陰流正統を継がせたのは、
「だってそっち継がせなかったら、利厳何すんの?」という
あくまで剣士以外にはなり得ない利厳の限界を見た上で、
それでも可愛い孫に何かを遺してやりたい、という祖父の愛なのでは、と思ったり。
(かなりアレな書き方ですが、利厳を貶める意図は当方にはないです。ご勘弁)


 つか、更に言ってしまうと、
宗矩は実際には戦っていない、だから強くない、大した事ない、という批判は、
当時からあったようですが、宗矩自身はそれを心底軽蔑してたんじゃなかろうかと。


        / ̄ ̄\ 
      /       \   宗矩「剣術そのものが消え去りかねないこの状況で、
      |::::::        |     強いだの弱いだのにこだわってる場合じゃねぇだろ…。
     . |:::::::::::     |     常識的に考えて…」
       |::::::::::::::    |          ....,:::´, .  
     .  |::::::::::::::    }          ....:::,,  ..
     .  ヽ::::::::::::::    }         ,):::::::ノ .
        ヽ::::::::::  ノ        (:::::ソ: .
        /:::::::::::: く         ,ふ´..
・―――――|:::::::::::::::: \ -―,――ノ::ノ――  
         |:::::::::::::::|ヽ、二⌒)━~~'´


 てな感じで。
その辺の、宗矩と他の武芸者との価値観のズレは、宗矩の兵法家伝書において、
武芸書によくある「我、生涯において○○回仕合い、その全てに勝利を収め…」
という話が、まったく出てこないことからも見えてくるのではと。


 逆に言えば、宗矩以外の目から見れば、宗矩のやっていることは
剣術と無関係であり、にも関わらず、剣士として最高の地位にいる、と
見えるからこそ、物語において宗矩が陰謀家、または悪役扱いされるのでしょうな。
まあ、そう思うと、これも或る意味、陰謀史観なのかしらんと。


 てなとこで、最後は少し蛇足だったかもしれませんが、
柳生但馬守宗矩という人物の特異性についての話は概ねこんなところでアリマス。


 自分で書いておいて言うのもなんですが、なんかエラい結論が出たです喃。
去年の頭、NHKの「その歴」で宗矩が取り上げられた時の結論が、
「宗矩がいたから徳川三百年は成立したんだよ!」になってたのに
匹敵するくらいの勢いで砂。
まさに宗矩ハイパー化。


 実際、こうやってまとめてみるまで、宗矩がここまで大層な人間だとは
当方自身も思ってなかったので、なんとも意外というか新鮮でアリマス。
「お前、ただの暗黒ドジっ子な陰謀野郎じゃなかったのかよ!」と。
まあ、些か持ち上げ過ぎな気もしますけど、でも、書いてよかった。楽しかった。


 てなとこで、一番書きたかったことは書けたので、
ここで終わらせてもいいのですけど、せっかくなので江戸柳生の話とか、
兵法家伝書の話とか、あれこれ書いておこうかなー、と思うですよ。
ふむん。

【柳生一族、そして宗矩】その17:柳生但馬守宗矩(5)「柳生宗矩のその後、そして…」

 随分長く掛かりましたが、今回で宗矩の生涯についての話は終了です。
やっとこれで、全部の準備が終わるでありますよー。


 さて、家光の剣術指南役となって15年、徳川家に仕えて40年、
遂に大和柳生藩一万石の藩主とまでなった宗矩ですが、
家光は、宗矩を定府大名として、傍に置き続けます。
宗矩もまた、惣目付の役目こそ離れたものの、
相変わらず剣術指南役として家光を支え続けます。


 また、この頃には宗矩の三人の息子、
十兵衛三厳、左門友矩、又十郎宗冬も皆、城へ上がって役目を勤めております。
寛永十三年(1636)に生まれた末子の六丸義仙(後の列堂)も柳生庄で育っており、
宗矩を祖とする江戸柳生家は、この時期が全盛期だったと言えます。
(ちなみに六丸は宗矩66歳の時の子。十兵衛とは29歳差。
 余談ですが、66歳と言えば、石舟斎が「私は高齢でロクに働けませんので
 代わりに息子をお仕えさせたく」とか言ってた時と同い年で砂)


 この頃の宗矩は能を好み、また、煙草をよく吸っていたそうで、
その点に絡めて沢庵より、


 「好き嫌いで人をえこひいきすんな。賄賂とか取るな。
  人んちに押しかけて能踊るな。
  あと、お前の息子(十兵衛)、酒癖悪いぞ。
  親がしっかりしてないから、息子もグレるんだよ(大意)」


 「あんまり煙草吸うな。癌になっても知らんぞ(大意)」


 という手紙を付けられたりしており、
このうち、能と煙草の二つについてはフォローの仕様が無いなあ、というか、
これに絡んで、


 ・ 家光と宗矩が観世太夫の能を見物してた時、
  家光に「観世太夫に斬る隙があったら言ってみよ」と言われ、能が終わって曰く
  「まるで隙がありませんでしたが、隅を取った時、一瞬だけ隙ができたように
   思えましたので、斬りつけるならそこかと」と答えた。
  この時、観世太夫も付き人に「今回、上様の傍におられたのは誰か」と尋ね、
  宗矩であると聞いて、「なるほど。隅を取った時、少し気を抜いたのだが、
  その一瞬、笑みを浮かべられたので何者かと思ったが、流石は柳生殿」と言った。
  これを聞いた家光は「達人と名人、互いが互いを知るとはこのことか」と
  両者を称えたという。


 ・ 宗矩が煙草をあんまり吸っているので部屋が煙くなり、
  これに沢庵が文句を言うと、しこたま長い煙管を用意し、
  部屋の外から従者に煙草を詰めさせてすぱすぱ吸い、
  曰く「これで部屋では煙草は吸っておらぬでござる」


 とかいう、いい話なんだかとんちなんだかわからぬようなエピソードもあって、
あのニートで親の力で就職した又右衛門が面白ぇ爺になったよなー、と
妙にほのぼのさせられるところではあります。
(まあ、事実かどうか限りなく不明なのですけど)


 ちなみに、えこひいきの件と賄賂の件については、
少し思うところがあるので、また別にまとめてみようかと。
キーワードは「金許し」「義理許し」でアリマス。
ああっ、宗矩が虎眼先生フェイスにーッ!?
(つか、調べてみると、この沢庵の手紙、偽造説もあるんですね)


 まあ、そんなスットコ愉快な日々を送っていた爺宗矩ですが、
「やる時はやるよ(by老ジョセフ)」であり、それを象徴する逸話があります。
寛永十四年(1637)の「島原の乱」の一件です。


 時は11月10日、有馬玄藩頭豊氏の家で猿楽が行われており、
例によって宗矩も参加していたのですが、ここに宗矩の家臣がやってきて、
乱の鎮圧の為に、板倉内膳正重昌に命じて軍を出させたことを報告します。


 これを聞いた宗矩は、あくまで表情を変えぬまま、主の主氏に早馬を借りると、
一気に品川まで向かいます。そこでもまだ板倉の姿は見えず、
仕方が無いので更に川崎まで駆け、そこで問うたところ、
「もう二・三里は先であろう」と聞き、日も暮れるため、
諦めて城まで引き返し、早速家光に謁見を求めます。


 こんな時間になんじゃいな、と出てきた家光に対し、宗矩は威儀を正し、


 「板倉殿が(島原の)乱の鎮圧を命ぜられ、出発したと聞いたので、
  これをなんとか止めようと思い、川崎まで追いかけましたが、
  追いつけなかったので、このことを申し上げるため参上致しました」


 と言い、これに対し、家光が何故にそのようなことを?と問うたところ、


 「上様は考えがお甘い。今回の乱はただの一揆ではありません。
  宗教系の乱は、どれも大事になるのです。
  このまま行かせたら板倉殿は必ずや討ち死にするので、
  その前に何とか止めようと思ったのです」


 と答えたので、面と向かって「考えが甘い」と言われた家光は
そのまま不機嫌面になり、席を立ってしまいます。
しかし、宗矩は退去せず、そのままずっと次の間で控え続けたので、
根負けした家光が再び顔を出し、理由を言え、理由を、と求めてきたので、


 「そもそも宗教系の敵は、兵士を来世とか天国とかで煽るので
  どいつもこいつも死兵になって厄介千万。
  信長様だって一向一揆とか本願寺とかでエラい苦労してましたし。
  で、そんなの相手に戦うだけに、苦戦は必至なわけですが、
  そうなってくると、板倉殿の三河深溝一万二千石の格では
  どうしたって九州の大藩の連中は従ってくれません。
  そうなれば、幕府としてはもっと格上の人を増援に出す必要が
  出てくるわけですが、そんなことをしたら、板倉殿は面目を完全になくすので、
  確実に自滅的行動に出るでしょう。
  板倉殿はこんなところで亡くすにはいかにも惜しい人物ですし、
  "上様のご命令でござる"とか言って騙してでも引き止めるつもり
  だったのですけど、如何しますか?
  お許し頂けるなら、すぐまた追いかけて連れ帰りますが」


 と、ここぞとばかりに長文の大説教モードに。
流石に家光も自分の命令がマズかったことに気づいて後悔するのですが、
今更追いかけても無理だし、と思い、結局、宗矩を下がらせます。

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小| ヽ     `''ー‐`''  /|/l
.:トヽ  \       /                  r‐-、r‐-、r‐-、r‐-、
N|`ヽ   ヽ、    , '´   ┌───────┤  ||  ||  ||_..._|‐───────┐
``'''‐- ..,_   iT"´       | ー─────‐ |_...._||  ||_...._|ヽ_,ノ─────── |
、_    ``''‐N、        | DEATH NOTE .ヽ_,.ノ|.-‐.|ヽ_,ノ               |
 `ヽ、      i       | ─────────. `ー' ー‐─────────‐ |
、   `ヽ、   |        | 板倉重昌:面目を失って自滅 :               |
、`ヽ、   \  |       | ──────────‐ :. ──────────‐ |
 \ \   ヽ.|ヽ      |                   :                  |
   ヽ ヽ   |  \      | ──────────‐ :. ──────────‐ |


 で、斯様なロクでもない予言をされてしまった板倉殿ですが、
この宗矩の大予言は当たってしまい、結論を言うと、


 「ボロ負けしたせいで、老中・松平"知恵伊豆"信綱が増援に来ると聞いたので、
  その前に城を落とそうと正月に特攻かけたら誰もついてこなくて人生オワタ\(^o^)/」


 という結末に。
ちなみにこの正月特攻には、利厳の長男、清厳も参加しており、討ち死にしてます。
かくして、予言通りに死んでしまった板倉殿の後釜としてやって来た知恵伊豆は、
諸藩の協力を仰ぎ、12万の軍勢&外国船の砲撃などで追い込んで総攻撃、
一揆衆は悉く討ち死にし、総大将・天草四郎時貞も死にます。
(後に四郎が復活して現人鬼になったかどうかは不明)


 このエピソードについて、後に勝海舟が「氷川清話」の中で、


柳生但馬はたいしたものだ、と密かに驚いている。
 将軍がすでに命を下して江戸を発たせたものを、
 わずか剣術指南くらいの身分でありながら、
 独断をもって引きとめようと言うなどは、とても尋常のものではない。
 俺はこの一事で、柳生が将軍に対して非常な権力を持っていたことを見抜いたのだ。
 およそ歴史を読むには、こんな処に注意しなければ真相はわからない。
 いわゆる”眼光紙背に徹する”ということは、つまりこういうことなんだよ」


 と語ってま砂。
なんか後半は勝海舟の自慢も入ってるような気もしますが。
(ちなみに、ここを見ても、普通、剣術指南役は、そう大した役職ではないこと、
 そこから大名に出世した宗矩がどれだけ異常かがわかりま砂)


 そんな老いてなお衰えず、といったような宗矩ですが、
その後、75歳を越えると流石に無理も効かなくなってきて、
更に、四兄弟の中で最も家光に重んじられた次男友矩、
家光の師僧となり、また禅について助言もしてくれた友人沢庵と、
次々に身近な人物が亡くなっていくことで、気も落ち込んできたのかもしれません。


 正保三年(1646)3月、宗矩は病に倒れます。


 宗矩の様態を心配した家光は、医者を送り、
見舞い(&剣術上の質問)の手紙を届けたりしますが、
いよいよ、というところになり、3月20日、宗矩の屋敷へ自ら見舞いに訪れます。
ここに至り、家光は宗矩の長年の働きを称え、何か願いがあれば
遠慮なく申せ、といいます。
それに対し、宗矩は、


 「願わくば、柳生庄に寺を造立し、
  亡父宗厳の霊を弔い、末子の六丸を住職にさせて頂きたい」


 と答えたといいます。
やはり末の子の行く末は気になる、ということなんでしょうか喃。
(この時、六丸は10歳)


 なお、この際、それまで受け取った所領を全て返上し、
もし、息子たち(十兵衛、宗冬)を引き続き使ってもらえるのであれば、
それぞれに対し、働きに見合う家禄を与えてください、と言ったという話も
ありますが、この辺りの話は本当かどうか謎でアリマス。


 そうして、身の回りの整理を全てつけた後、
3月26日、宗矩は遂にその生涯を終えます。
享年76歳。


 葬儀後、初七日のうちに宗矩が家光に願い出た通りに、
宗厳の菩提寺・芳徳寺の建立許可の内示があり、
4月には上使として阿部豊後守正武はじめ4名が寺に訪れ、
家光よりの贈位書と、香資料として白銀50枚を霊前に供えた、となっております。


 贈位書には、


従五位下柳生但馬守宗矩、剣術無雙、
 東照大権現(家康)、台徳院殿(秀忠)二奉仕スルコト久シ。
 命ニヨツテ常ニ幕下ニ侍シ、剣術ヲ談シテツイニコレヲコトゴトク伝授ス。
 今宗矩既ニ没ス、哀惜ヤマズ。故ニ従四以下ヲ贈ル。家族モツテ栄トナスベシ。
 正保3年4月6日  従一位朝臣家光〕


 とあり、宗矩は、死して従四位下を贈られます。
これもまた通常考えられない厚遇と言えます。
(通常、従四位下は十万石以上の国を30年以上治めた大名か、
 さもなくば幕閣の中でも老中クラスにならないと出ない官位)


 また、その真否の問われる宗矩の所領返上の遺言ですが、
この後、大和柳生藩一万二千五百石(友矩の死後、二千五百石加増)は、
十兵衛に八千三百石、宗冬に四千石、そして芳徳寺の寺領として
二百石に分けられます。
(これはかなり珍しい処置で、この結果、柳生家は大名から旗本に戻るが、
 後に宗冬が加増を受けて柳生藩は復活する)


 ともあれ、これが日本の剣術史上、唯一人、
「一剣士から大名になった男」柳生但馬守宗矩の生き様でアリマス。


 この宗矩の人生に対し、どのような評価を下すかは、
無論、ここまで読まれた方次第ではあるのですが、
最後に一つ、宗矩について語られた言葉を以って、
彼の人生の物語を締めようかと思います。


     「吾、天下統御の道は宗矩に学びたり」

               −徳川家光

【柳生一族、そして宗矩】その16:柳生但馬守宗矩(4)「柳生宗矩の兵法家伝書執筆・惣目付就任〜柳生藩の成立」

 さて、坂崎出羽守の一件で、
幕閣に「柳生は単なる剣術使いではない」と認識させることに成功した宗矩は、
元和七年(1621)、新たな役を任じられます。


  次期将軍たる家光の剣術指南役です。


 こうして宗矩は、これに先立つこと2年前、
家光の小姓となっていた嫡男・十兵衛三厳(この時15歳)と共に、
家光に柳生新陰流の剣を教え込みます。
おそらく、この時点で、既に51歳に達していた宗矩の兵法観はほぼ完成しており、
この時の家光への剣術指南が、後の宗矩の出世に大きく影響したものと思われます。


 元和九年(1625)、秀忠は家光へと将軍職を譲って大御所となり、
家光は三代将軍となります。
これに伴い、宗矩は再び将軍家剣術指南役となり、
この後、飛躍的に出世していくのです。
その出世っぷりを年表風にまとめると、以下のようになります。


 年代         年齢  出来事                         宗矩の家禄
 元和七年(1621) :51歳:家光の剣術指南役となる              :三千石
 元和九年(1623) :53歳:家光の将軍就任に伴い、将軍家剣術指南役に :三千石
 寛永六年(1629) :59歳:従五位下但馬守に叙任される            :三千石
 寛永九年(1632) :62歳:三千石を加増され惣目付(大監察)となる     :六千石
 寛永十三年(1636):66歳:四千石加増されて一万石を領し大名となる   :一万石


 宗矩の家禄は、慶長十一年(1606)に家督を継いで以来、
20年以上、三千石のままでしたが、家光が将軍になって以降、
ものの10年で二度の加増があり、石高は一万石に達します。
一万石という石高は、直参の武士にとって、大名と旗本を分ける分岐点であり、
これにより、遂に宗矩は一剣士の身から大名への出世を成し遂げます。
即ち、大和柳生藩の成立であり、初代藩主・柳生但馬守宗矩の誕生です。
なお、"柳生但馬"、"但馬守"など、宗矩のもうひとつの名前といっていい、
"従五位下但馬守"の官位も、この時期、正式に下されています。
(それまでは代々勝手に名乗っていただけで、官位としては無官だった)


 この出世は、他の剣士たちはおろか、一般の旗本達と比べても異常であり、
また、宗矩自身のキャリアから見ても、本来なら考えられないものだと言えます。
事実、様々な功績(大坂夏の陣で秀忠の命を救った件も含む)を立てた
秀忠の剣術指南役時代においても、宗矩には一切加増はありませんでした。
(尤も、大名家からの柳生新陰流への入門者は増えたそうですが)


 にも関わらず、そのような華々しい功績を立てたわけではない時期に、
何故、ここまで出世することができたのか…。
それは、宗矩と家光の関係抜きに語ることはできません。


 三代将軍家光は、武芸好きとして知られていた将軍でした。
歴代将軍の中でも、かなり熱心に剣術稽古をやっていた方に入りますし、
自分でするだけではなく、結構頻繁に上覧試合を催し、
各地の名人を集めては試合見物を楽しんだといいます。


 そんな家光ですので、自然、剣術指南役たる宗矩との接触時間は増えていきます。
そして、宗矩は将軍と直に話を、それも、主君たる家光に対し、
教授をするという形で話をすることができる、このチャンスを逃しませんでした。
宗矩は、剣術指南に絡めて、自分の兵法観を家光に説いていったのです。


     それが「活人剣・治国平天下の剣」です。


 この宗矩の思想(兵法観)については、後に別項を設けて解説しますが、
この時点で宗矩が家光に説いたのは、おそらく、


   「剣術は他のこと−例えば統治−にも応用できる」


 という点であったと思われます。
更に「武家諸法度」の最初にある「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事」を引き、
「これは単に剣の腕を上げればよい、ということではなく、
 ”剣術で得た技術・心得は、統治に応用できるのだから、
 これに修練することは武士たるものの務めである”ということです」
とも説いたのではと。


 そして、これを語る宗矩は、その言葉に説得力を持たせるだけの
「剣の腕前」と「政治手腕」を兼ね備えていました。
つまり、宗矩が上手いこと仕事を処理した場合、
「これは柳生新陰流の極意を応用したのでござる。つまり云々」とやったわけで砂。
単純に考えると、剣の腕と政治の能力って全然関係なくね?というところであり、
(事実、小野家は忠明・忠常揃ってこの手の能力は低かった様子)
それって単にお前が両方できるってだけじゃね?と言われるところなのでしょうが、
宗矩は断固として「いや、これは剣術の応用です」と言い張りました。


 そして恐るべきことに、殆ど牽強付会と言っていいこの話を、
宗矩は友人・沢庵(家光の師僧)の助言による禅の思想で補強し、
とうとう理論化してしまいます。
これが宗矩の兵法の集大成「兵法家伝書」でアリマス。


兵法家伝書―付・新陰流兵法目録事 (岩波文庫)

兵法家伝書―付・新陰流兵法目録事 (岩波文庫)


 この兵法家伝書の詳細については、また後ほど説明を行いますが、
ここでわかるのは、形は違えど、流祖上泉秀綱、父石舟斎、甥の利厳と同じく、
宗矩もまた、己の流派を広め、弟子を指導する能力に長けていた、ということで砂。
それは、家光がすっかり宗矩の兵法観に染まってしまったことからも
明らかと言えます。
(後の話になりますが、宗矩の今際の際にも、家光は兵法上の質問を投げています)


 かくして「剣術=統治」を真に受けるようになったらしい家光は、
ならば、この剣術指南役の剣の腕を、政治の世界に活かせるようにしてやろうと
次々と宗矩に出世の階段を上らせます。
その最たるものが、新たに設置された役職惣目付(大監察)」への就任です。


 この惣目付という役職は、
「大名・旗本の統治状況を監察し、これに問題があれば将軍へ報告する」という
ある意味「政治指南役」とも言える役職(秘密警察呼ばわりもされますが)であり
これを新たに設置し、初代として宗矩を就けたのは、
家光の宗矩に対する情の表れであると同時に、
「そこまで言うなら(お前の兵法観を政治の世界で)実証してみせろ」という
ある種の「試し」ではなかったか、と思われます。


 そして、宗矩がこの役職に就いて、如何にして職務を果たしたか、
それは具体的には不明でありますが、宗矩がこの職務を4年間務めた後、
寛永十三年(1636)、四千石の加増によって大名に名を連ねたことを考えると、
家光に対し、己の兵法観の正しさを政治の場において実証してみせたのではないか、
と推測するのも、そう的外れでもなかろうかと。


 なんにせよ、幕閣としての宗矩について回るイメージは、
この惣目付時のものが多い為、
宗矩といえば惣目付惣目付といえば隠密、隠密といえば忍者、てな具合に、
イメージが走った結果、


    ,ィィr--  ..__、j
   ル! {       `ヽ,       ∧
  N { l `    ,、   i _|\/ ∨ ∨
  ゝヽ   _,,ィjjハ、   | \
  `ニr‐tミ-rr‐tュ<≧rヘ   > 各地の柳生新陰流の門弟は実は忍者だったんだよ!
     {___,リ ヽ二´ノ  }ソ ∠ つまり、裏柳生は実在した!!
    '、 `,-_-ュ  u /|   ∠
      ヽ`┴ ' //l\  |/\∧  /

    • ─‐ァ'| `ニ--‐'´ /  |`ー ..__   `´

    く__レ1;';';';>、  / __ |  ,=、 ___
   「 ∧ 7;';';'| ヽ/ _,|‐、|」 |L..! {L..l ))
   |  |::.V;';';';'| /.:.|トl`´.! l _,,,l | _,,|  , -,
    ! |:.:.:l;;';';';'|/.:.:.:||=|=; | |   | | .l / 〃 ))
    l |:.:.:.:l;';';'/.:.:.:.:| ! ヽ \!‐=:l/ `:lj  7
    | |:.:.:.:.l;'/.:.:.:.:.:.! ヽ:::\::  ::::|  ::l /


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        >    な なんだってー!!    <
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 とか言われたりしがちですが、まあ、その辺は謎で砂。
とはいえ、実際、将軍家の憶えめでたい柳生新陰流を、
自藩の剣術指南役として招きたい、という藩は多く、
柳生一族を含め、柳生新陰流の剣士が指南役となった藩は20近くあります。
その中には、尾張紀州、伊達、鍋島、細川などの大藩が名を連ねており、
彼らによって、その藩、または近隣の藩の内実を調べていたのではないか、と
言われるのも、むべなるかな。
まあ、信憑性を考えると、調査の為に送り込んだ、というよりも、
調べたい先に門弟がいたら話を聞いてみる、というところが
実態ではなかろうかな、と。


 ちなみに余談ですが、宗矩が惣目付に着任したのは寛永九年の12月なのですが、
この年、二つの大大名がそれぞれ改易と没収を受けています。
そう、熊本五十一万石の加藤家と、駿河五十五万石、家光の実弟、大納言忠長です。
信憑性はかなり微妙ですが、一説によると、この二家の始末についても
宗矩の意見がかなり反映されていた、と言われており、もしそうなのであれば、
上の話はまったく逆で、この二家の始末に関する評価こそが、
惣目付の設置と宗矩の就任に繋がったのでは、と考えることもできま砂。


 こうして、己の兵法で以って、剣だけではなく、政においても将軍を指南し、
一介の剣士から大名へと出世した宗矩ですが、流石の宗矩も歳には勝てません。
というわけで、次が柳生但馬守宗矩という人物の物語のラスト、
晩年の宗矩について語る所存でアリマス。