【柳生一族、そして宗矩】その18:柳生但馬守宗矩(6)「剣を変えた男、柳生但馬守宗矩」

 さて、今まで延々語ってきたわけですが、
ここで、遂にこの長い話のテーマである、


    「宗矩の特異性とはなにか」


 について書いていこうかと。


 柳生但馬守宗矩という人物が、剣士としても、柳生一族としても、
特異この上ない人物である、ということは最初に述べたことではありますが、
では、一体全体、彼の何が特異なのかといいますと、


      「剣の意味を変えた」


 という一点、及び、それを成し遂げた宗矩という人間の個性にあります。


 それまでの「剣」、即ち剣術は、
それを操るものの名称を「武芸者」と呼んだ通り、
あくまで「芸」であり、戦場で戦うための実用一点張りの、
むしろ、戦場においては槍や弓と比べれば、
二番手、三番手に過ぎぬ、実戦のための実用技術に過ぎませんでした。
ましてや、銃が登場してしまえば、尚更に。


 おまけに、時は移り、幕藩体制の安定に伴い、世の中は元和堰武の真っ最中。
銃や弓はおろか、剣とてそうそう使わない世の中になっていきます。
まさに戦場での実用技術としての剣術の必要性そのものが失われようとしている時、
これに待ったをかけたのが宗矩なわけですよ。


 宗矩は、まずこう言いました。


       「剣は禅に通ず」


 これを他の誰か、それこそ武蔵やもう一人の剣術指南役、小野忠常が言うのでは、
華麗にスルーされて(あるいは気づきさえされず)終了だったのでしょうが、
宗矩は、それら他の人物が持っていない武器を持っていました。


       それは、政治力です。


 先に述べた通り、宗矩は同時代の他の剣豪と異なり、
単なる剣士としてだけではなく、政治家としても高い能力を持っていました。
これは後に初代惣目付となったこと、更にその後、小なりとはいえ
従五位下譜代大名(大和柳生藩の藩主)となったことからも明らかです。
その上で、宗矩は将軍家光に極めて近しい剣術指南役でもあり、
家康が認めた柳生新陰流の流祖、石舟斎の息子でもありました。


 つまり、他の剣士たちと比べて、宗矩には、
自分の意見を他人−それも国の政策を左右するような人間−に認めさせる、
あるいは聞かせるだけの"力"、即ち政治力があったので砂。


 そして、宗矩には、戦う理由が、
即ち「剣は単なる実戦技術以上のものである」と
周囲に認めさせる必要がありました。


 何故ならば、宗矩もまた剣士だからです。


 これは当方の推測ですが、
おそらく宗矩は、このままだと剣が不要になるであろうことを
見抜いていたでしょう。
少なくとも、戦場での実用技術としての剣術は、
その意味を失うであろうことを。


 ならばどうすればよいのか。
剣士たるものが、己の寄って立つ剣が滅ぶ様を座して見ているわけにはいかない。
そして、それを留めることができる力を持っているのは自分だけである、
という状況が、宗矩を動かしたのではないかと。


 そして、それは、力(政治力)を得てからではなく、
それより遥か前、おそらくは元和堰武開始後すぐに気づいていたからこそ、
剣が滅びることを留めんが為、そのための力を持つ為に、
宗矩はなんとしても出世しなければならなかった。
即ち、それ−剣を守ること−こそが、宗矩が出世するための理由だったのでは、と。


 言ってみれば、剣の為に「一人で世界(世の中)に立ち向かった」のですよ、宗矩は。


 まとめれば、こうなります。


 状況:元和堰武によって剣術が不要になりつつある世の中
 目的:剣(剣術)を生き残らせる
 武器:新陰流、政治力、禅


 状況に対して目的が明確となり、己の武器が揃ったところで、
宗矩はある戦術を組み上げ、先ほどの「剣は禅に通ず」発言を皮切りに、
新たなる剣の概念を、若き将軍家光に訴えます。


    それが「活人剣・治国平天下の剣」です。


 友人の僧・沢庵による「剣禅一味(または一致、または一如)」の概念を取り入れ、
新陰流にある「活人剣」を、その名の通り「人を活かす(=活用する)剣」に変換し、
剣術を


   「禅に繋がる精神性があり、統治にも活用できる、
    武士たる者の修めるべき平法である」


 と言い張った訳なので砂。
(ちなみに、「剣禅一如」という単語は、後に考え出されたもののようで、
 少なくとも、沢庵の不動智神妙録にも宗矩の兵法家伝書にも使われてない
 単語なのですが、概念が伝わりやすいので使用しました)


 それまでの新陰流における「活人剣」、
即ち、上泉秀綱、及び、石舟斎の言うところの「活人剣」は、
先にも述べた通り、


 1:相手を動かしてそこを打つ、という「技法」
 2:人を殺さない剣、という「思想」


 という二つの意味をもっていたわけですが、
宗矩は、これを文字通りの「活人剣」に変えることで、
第三の意味となる、


 3:武士たる者の活きるための剣=「道」


 を作り出してしまったので砂。
殆ど「はしを渡っちゃダメなら真ん中を渡ればいいじゃない」の世界であり、
どちらの一休さんですか、でアリマス。
とんちにもほどがあるだろうと。


 こうした宗矩必死の訴え、というか一世一代のとんちにより、
剣術は単なる戦場での実戦技術を越えた「深遠たる深みを持った精神的なもの」、
「武士が修めるべき道たるもの」として認識されていきます。
これが尾張柳生の刀法と並べて称される「江戸柳生の心法」です。


 ここで利厳と宗矩を比較してみますと、


利厳は新陰流を「沈なる身の兵法」から「直立たる身の兵法」へ変換させたが、
宗矩は新陰流を「実戦の剣」から「活人剣・治国平天下の剣」へ変換させた。


 というわけで砂。


 無論、これを非難する人たちは多数いました。
たとえば小野忠明は「口先の兵法などは畳の上の水練と同じで、
何の役にも立ちません」と言い切り、新陰流の正統を継いだ兵庫助利厳にしても、
刀法の尾張柳生、と呼ばれた通り、あくまで実戦剣術としての新陰流の継承発展に
こだわり、宗矩が言う心法としての新陰流には立ち入らぬようにしていました。


 それでも、この宗矩の「活人剣・治国平天下の剣」は江戸時代を通じて広まり、
徳川三百年−剣を抜かないまま一生を終えた武士が大半を占めた時代−において、
剣術は武士の嗜みとして修められることになります。


 即ち「戦乱の時代の剣術」から「太平の時代の剣術」へのシフトであり、
宗矩は剣術を生き残らせることに成功したのです。


 そして、心法という意味において、
剣は後続の人々によって、"道"としての意味を更に深め、
これが「葉隠」などと融合することにより、
最終的に「武士道」として収束することになります。
単なる術が、倫理・道徳へ昇華したわけで砂。


 これは、柳生但馬守宗矩という人物、その周りの環境、過ごした人生の各条件が
全てが揃っていなければ達成できなかったであろう偉業であり、
まさに他の誰にも代替できない、宗矩だからこそできたことでアリマス。


 仮に、宗矩が「活人剣・治国平天下の剣」を提唱する前のいずれかの時点で、
誰かを宗矩にとって変わらせたとしても、宗矩と同じことは出来なかったでしょう。
それは、入れ替わるのが武蔵であろうと、利厳であろうと、
あるいは石舟斎、または上泉秀綱であろうと一緒です。
また、その場合、剣術というものは、確実に今とは異なったものに
なっていたでしょう。
(それがどういうものになるかはわかりませんし、
 その是非も不明ではありますが)


  剣を概念の次元で変えた、ただ一人の男。


  剣の為に世界と戦った男。


  あらゆる剣士、あらゆる柳生一族に比して、特異極まりない存在。


  それこそが柳生但馬守宗矩という人物なのです。


 なお、ここからはまた当方の主観的推測なのですが、
石舟斎が、新陰流が剣術以外のものになるのを恐れて
敢えて宗矩に正統を継がせなかったのでは、というのは既に書いた通りですが、
逆に言えば、石舟斎は、宗矩が、新陰流を剣術以外のもの、
もっと言ってしまえば、剣術以上のものに変えようとしていたのを知っていた、
あるいは、その変化をこそ目指そうとしていた石舟斎が、
その高齢故に、宗矩にそれを託した、という考え方もできるんじゃないか、と。
(まあ、宗矩自身が石舟斎に説明した可能性もありますが)


 そして、これは推測に更に推測を重ねるような話ですが、
案外、石舟斎が利厳に新陰流正統を継がせたのは、
「だってそっち継がせなかったら、利厳何すんの?」という
あくまで剣士以外にはなり得ない利厳の限界を見た上で、
それでも可愛い孫に何かを遺してやりたい、という祖父の愛なのでは、と思ったり。
(かなりアレな書き方ですが、利厳を貶める意図は当方にはないです。ご勘弁)


 つか、更に言ってしまうと、
宗矩は実際には戦っていない、だから強くない、大した事ない、という批判は、
当時からあったようですが、宗矩自身はそれを心底軽蔑してたんじゃなかろうかと。


        / ̄ ̄\ 
      /       \   宗矩「剣術そのものが消え去りかねないこの状況で、
      |::::::        |     強いだの弱いだのにこだわってる場合じゃねぇだろ…。
     . |:::::::::::     |     常識的に考えて…」
       |::::::::::::::    |          ....,:::´, .  
     .  |::::::::::::::    }          ....:::,,  ..
     .  ヽ::::::::::::::    }         ,):::::::ノ .
        ヽ::::::::::  ノ        (:::::ソ: .
        /:::::::::::: く         ,ふ´..
・―――――|:::::::::::::::: \ -―,――ノ::ノ――  
         |:::::::::::::::|ヽ、二⌒)━~~'´


 てな感じで。
その辺の、宗矩と他の武芸者との価値観のズレは、宗矩の兵法家伝書において、
武芸書によくある「我、生涯において○○回仕合い、その全てに勝利を収め…」
という話が、まったく出てこないことからも見えてくるのではと。


 逆に言えば、宗矩以外の目から見れば、宗矩のやっていることは
剣術と無関係であり、にも関わらず、剣士として最高の地位にいる、と
見えるからこそ、物語において宗矩が陰謀家、または悪役扱いされるのでしょうな。
まあ、そう思うと、これも或る意味、陰謀史観なのかしらんと。


 てなとこで、最後は少し蛇足だったかもしれませんが、
柳生但馬守宗矩という人物の特異性についての話は概ねこんなところでアリマス。


 自分で書いておいて言うのもなんですが、なんかエラい結論が出たです喃。
去年の頭、NHKの「その歴」で宗矩が取り上げられた時の結論が、
「宗矩がいたから徳川三百年は成立したんだよ!」になってたのに
匹敵するくらいの勢いで砂。
まさに宗矩ハイパー化。


 実際、こうやってまとめてみるまで、宗矩がここまで大層な人間だとは
当方自身も思ってなかったので、なんとも意外というか新鮮でアリマス。
「お前、ただの暗黒ドジっ子な陰謀野郎じゃなかったのかよ!」と。
まあ、些か持ち上げ過ぎな気もしますけど、でも、書いてよかった。楽しかった。


 てなとこで、一番書きたかったことは書けたので、
ここで終わらせてもいいのですけど、せっかくなので江戸柳生の話とか、
兵法家伝書の話とか、あれこれ書いておこうかなー、と思うですよ。
ふむん。