【柳生一族、そして宗矩】その9.5:石舟斎「問題ない。たった今予備を作った」


 前述の「利厳が何故新陰流の正統を継いだか」について、
知人より面白い意見を頂けたので、まとめてみることに。


>全くの無知を棚に上げて与太をとばさせていただきますと、
>当時の武家にとっては、リスクヘッジのために分散投資することが当然の行動であったかと。

>現代の我々は徳川の世が長く続くことを知っていますが、
>当時の感覚で言えば、天下人など一代の泡沫。
>徳川にベッタリ癒着してしまうと、徳川とともに滅びるリスクがあったのではないかと。


 石舟斎が小豪族であるが故に、強大な勢力の中で、
如何に柳生家を生き残らせるかで苦心していたことを考えると、
この意見は、相当真を突いているのではないか、と思ったり。


 つまり、複数の相対する勢力に新陰流免許を持った人間、
それも石舟斎の直接の血縁者を同時に送り込むことで、
どの勢力が勝っても、新陰流が、そして柳生がその保護の下で
生き残れるようにしたのではないか、ということでアリマス。


 言うなれば、前に挙げた項目でいう「1:新陰流を守るため」を、
単なる剣術上や、感傷的な問題ではなく、リアルに流儀そのものの消滅を避ける、
また、同時に己の一族である柳生家自体の存続も守る、という意味で、
流派の正統にして一族の長たる「柳生石舟斎最後の戦い」だったでは、と。


 それを裏付けるかもしれないものとして、
宗矩が仕官した文禄三年(1594年)以降、石舟斎直系の血を引いた新陰流剣士の仕官状況を
大まかな事件も入れた上で、年代順に挙げてみましょう。


時期            柳生   仕官先   勢力
文禄三年(1594)     :宗矩  :徳川家  :豊臣(当時は五奉行筆頭)
文禄三年(1594)頃?  :宗章  :小早川家 :豊臣(当主秀秋は秀吉の元養子)
慶長二年(1597)以前  :純厳  :浅野家  :豊臣(当時は五奉行の一人)

慶長二年(1597)       :純厳、討死


慶長五年(1600)      :     =ここで関が原の合戦=


慶長八年(1603)      :宗章、小早川家の消滅により浪人
慶長八年(1603)      :宗章   :中村家(未):徳川(東軍に加勢)
慶長八年(1603)      :宗章、討死
慶長八年(1603)     :利厳   :加藤家  :徳川(当主清正は秀吉の子飼)
慶長八年(1603)     :権右衛門:伊達家  :徳川(天下の野望は捨てず)

慶長九年(1604)頃?   :利厳、加藤家を退去


慶長二十年(1615)     : =ここで大阪夏の陣・豊臣家滅亡=


元和元年(1615)     :利厳  :尾張徳川家:徳川(御三家筆頭)


 概ねの世の中の大勢に合わせつつ(豊臣→徳川)も、
それなりにどちらにも振れそうな勢力(加藤家)にも直系の剣士を送り込み、
どこかが滅びても、何とかなるようにしているのが浮き出てるかと。
つか、どこもそれなりの規模の大名家ばかりってのは流石であるなあと。


 ここで特に気になるのは、利厳が加藤家を退去して、
柳生庄に戻り、慶長九年(1604)に新陰流正統を継承して以降、
福島家などからも仕官の誘いがあった(と言われている)にも関わらず、
柳生庄を中心に剣術修行に執心した、ということと、
豊臣家が滅んだ同年に、尾張徳川家に仕官した、ということで砂。


 つまり、利厳が新陰流の正統を受け継いだにも関わらず、
12年にわたって柳生庄に留まり、仕官を断っていたのは、


 「万一、徳川家が破れ、当主たる宗矩が死ぬことがあっても、
  新陰流正統を受け、本来の嫡流でもある利厳がいれば
  柳生家も新陰流も再興できる」


 という、石舟斎、または宗矩の思惑があったのではないかと。
利厳はそのために12年間の浪人生活を余儀なくされ、
だからこそ、大勢が完全に決した時、将軍家指南役に次ぐ地位、
即ち、御三家筆頭・尾張徳川家の剣術指南役に就いたのではないかと。


 露骨な言い方をすれば、「利厳は宗矩の予備」であり、
予備にするにしても、それなりの箔はいるからこそ、
利厳に新陰流正統を継がせた、という推測が成り立つのでは。


 そして、既に宗矩は将軍家指南役であり、柳生家当主でもあったので、
これ以上の箔付けは不要、というのが、宗矩が新陰流正統を継げなかった理由なのでは、と。
(まあ、ここまでくると、「継がなかった」ですかね)


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      _rイ  i|  l !/  _, イ´` ┐
      ノ_,,.、 、| { i|  イ'´  _ニ二ス
     ノ _ \ヽ { i} /Z _∠r√¨`ハ
     厂 _ソ´`` ヾハノ/-‐'´   ヾ=弌  宗矩「父上…。
    ン_,イ!    イ|{ヽ     r/二ニ〉     某に万一のことがあれば
     ヾ、j _ __」{ ノ _,,,,、、_! 〉孑/     どうされるおつもりで?」
      {ヽ'"フュッキ< `^、''エi'ヽ-,ハr‐}
        lrハ   '′{   ``    j彳ソ
      ヾハ、   r'}  > 、 /ノミj/
        `ヘ} /_ `ー' __,ヽ /|`´
         _|ヾ  ̄、、  ゙/ | 、
        i(人ヘ       /-‐'ノ |
       ノ \ 'ー--‐ ', - '′ ヽ、
     _//    `ヽ、/´       > 、_
  _/´   ヽ、    |     _,、‐'´   `\_
        宗矩(イメージ図)



  ノ     ∧     /) ∧
  彡  ノW \从/V  W \   ミ
  (  ノ        |      ノ \)
  ∩V      、、 |       >V7  石舟斎「問題ない。
  (eLL/ ̄ ̄\/  L/ ̄ ̄\┘/3)       たった今、予備(利厳)を
  (┗(      )⌒(      )┛/       作った(新陰流正統相伝)」
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    爻     < |  ;     爻    
    ~爻     \_/  _, 爻~     
     ~爻__/⌒ ̄ ̄ ̄~~ヽ_ 爻~
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  _一‘     < ̄ ̄\\\J
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  __/~    V \_|     ~\_
       石舟斎(イメージ図)


 こうなると、この件(利厳に新陰流の正統を相伝した)については、
石舟斎個人の好悪とか、利厳と宗矩の剣の腕前云々とかは瑣末事で、
如何に家を、流派を絶やさないか、という石舟斎の苦心が、
この結果を生んだ、となるわけで、そりゃこんなもん、後世に残せないよな、と。
万が一、利厳の正統相伝の理由を問われた際、


 「もし徳川家が滅んだ時、ウチ(柳生)も道連れになったら困るんで、
  保険に利厳は残してたんですよ」


 とかいう話が出たら洒落になりませんし喃。
ま、この辺の妄想があれこれできるのは柳生の面白いところで砂。