【柳生一族、そして宗矩】その9:柳生兵庫助利厳(2)「何故、利厳が新陰流正統を継いだのか」


 利厳について語る際、よく挙げられるネタとして、


 「何故石舟斎は宗矩ではなく、利厳に新陰流の正統を継がせたのか」


 という話があります。
逆にいえば、「何故宗矩は正統を継げなかったのか」ともいえま砂。


 既に書いておりますが、
新陰流の正統を継いでいるのは、宗矩の江戸柳生ではなく、
利厳の尾張柳生の方である、というのは存外に知られてないので砂。


 まず、この話のややこしいのは、
「柳生家(柳生藩)の当主と、新陰流の正統は別物である」というところでアリマス。
つまり、柳生家=新陰流(柳生新陰流)、というはずなのに、
その剣の正統を受け継いでいる者は、柳生一族の当主ではない、
逆に、柳生家の当主であるにも関わらず、新陰流の正統ではない、
という「ねじれ」の存在であります。


 つまりこんな感じで砂。


 【柳生家(柳生藩)の視点で見た場合】
  本家 : 江戸柳生(宗矩)
  分家 : 尾張柳生(利厳)


 【新陰流の視点で見た場合】
  正統 : 尾張柳生(利厳)
  分派 : 江戸柳生(宗矩)


 なぜ斯様にややこしい事態が発生したのか、と言いますと、
石舟斎が、柳生本家の家督は五男宗矩に、
新陰流の正統は孫の利厳に、と、分けて継がせたからで砂。


 何故に石舟際はこんなややこしいことをしたのか。
これについては諸説あるのですが、このうち、よく挙げられるのは、


 1:利厳の方が新陰流を継がせるに際して宗矩より優れていたから
 2:血筋の上での順序を守るため(宗矩は五男、利厳は(本来ならば)嫡孫)
 3:宗矩が嫌いだったから
 4:新陰流を守るため


 というところでしょうか。
さて、ここからは愉快な超主観推測タイムなわけですが、
当方個人としては、最後の「新陰流を守るため」というのが
一番真相に近いのではないかと考えております。
(1も併立してるかもしれませんが)


 これが伝奇ものなら、
裏柳生による汚れ仕事によって新陰流が闇の剣になることを恐れて、
というところであり、なんという影武者徳川家康(or柳生外道剣)!なのですが、
まあ、裏柳生は小池先生一流の捏造であるので、それはないとして、
ならばどういうことか。


 おそらく、


 「石舟斎・宗矩・利厳の三名、あるいは石舟斎と宗矩の合意納得の上で、
  家を宗矩が、新陰流を利厳が継いだ」


 というところではないかあなと。


 どういうことかといいますと、石舟斎は、宗矩の才を認めつつも、
というより、むしろ認めていたし、理解していたからこそ、
彼に新陰流の正統を継がせてしまうことによって、
新陰流が剣術ではない別のなにかになってしまうかもしれないことを
一人の剣士として、師・上泉秀綱より受け継いだ新陰流の後継者として、
何よりも危惧し、耐え切れなかったのではなかろうかと。


 おそらくですが、柳生新陰流が単に柳生家に伝わる新陰流である、
というだけであれば、もしかしたら宗矩が跡を継いだ可能性があります。
しかし、柳生新陰流は一方で師・上泉秀綱より受け継いだ新陰流でもある訳です。
平たく言えば、柳生家だけの新陰流ではない、と石舟斎は考えた末、
剣術としての新陰流を残すべく、敢えて利厳に正統を継がせたのではないかと。


 つまり、既にこの時点(秀忠の兵法指南役就任の頃?)で、
政治への関心が、というより心法への傾倒が強まっていたであろう宗矩を見て、
「この子は政治もやるつもりっぽいし、なら、剣法だけやるつもりの兵庫助の方に
 新陰流を継がせた方がいいんじゃね?」と考えたのかもで砂。


 だからこそ、剣を政に応用しようとする宗矩には柳生家の当主の地位を、
剣術一本に集中しようとする利厳には新陰流の正統を、てな具合に、
それぞれに必要なものを継がせたのではないかなあと。


 そして、これは両者とも承知済みだったのでは、という根拠としては、
もし承知していないのであれば、このことに対し、どちらかから
何かしらの抗議があったであろうことで砂。
宗矩について言えば、将軍家指南役が流儀の正統を受けていない、というのは
大問題であると言えますし、利厳についても、新陰流の正統で、本来の嫡流の自分が
何故柳生の当主でないのか、という不満もあったことでしょうし。
(実際、石舟斎の死後、柳生二千石は宗矩が継いでいます。
 宗矩自身、別に家を立てるために千石が出ているので、
 石舟斎が宗矩に家を継がせる気でないならば、これはおかしいので砂)


 その影響力、及び、宗矩自身の政治の才による説得力を考えると、
少なくとも、これは宗矩自身が納得して、自らそのように動いていない限り、
こうすんなりいかなかっただろう、と思うので砂。
利厳は当時浪人だったので発言力低かったでしょうし。


 実際、こんなおかしな事態が発生したことについて、
騒動が起こらなかったわけがないんじゃないの、と思うのですよ。
にも関わらず、この一件について、江戸・尾張共に何も述べてないので砂。
例えば、江戸柳生側に意趣があれば、どこかに自らの正統性を語るアピールが
あるはずなのに、そんなものはないわけですよ。


 つまり、少なくとも江戸柳生側、即ち宗矩はこの分割の正当性を認め、
納得した上で、揉め事になりそうな話を残さず、かつ、穏当にこの分割を進めた、
ということなんじゃなかろうかと。
そして、だからこそ利厳は、あくまで一剣術指南役としてのみ
あり続けたのではないかと。
(元々の性格もあったとは思いますが)


 まあ、あれこれ書いてみましたが、実際のところは、
単に宗矩より利厳の方が新陰流の後継者として優れていたから、という
実も蓋もない理由である可能性の方が高そうなのですけどね。
実際、後に利厳が新陰流正統三世として成した功績(剣士としての強さ、
流派の進歩、後進の育成)を考えると、石舟斎が利厳を選んだのは、
上泉秀綱が宗厳を選んだのと同じ理由、すなわち、


 「利厳の方が新陰流をより発展させることができると見込んだから」


 という方が説得力ありますし喃。
(同時に、石舟斎自身が秀綱の子を差し置いて新陰流の正統を相伝したことを
 考えると、2の血筋の上での序列説は一番なさそうで砂)


 ちなみに余談ですが、石舟斎と宗矩の不仲説については、
当方は無理があるんじゃなかろうかと。
仮に石舟斎が宗矩を嫌っていたのであれば、
そもそも家康の前に連れて行かなかったでしょうし、
無理矢理ついてきたとしても、家康に推挙することも無かったであろうと。
(一旦引き受けて、後で利厳を引き合わせれば済む話ですし)
徳川との縁は、あくまで石舟斎の「無刀取り」あってこそなのですから、
石舟斎と宗矩の仲が悪い、というのであれば、宗矩が家康に仕えることは
できなかったでしょう。
つまり、端っから家康に認められたら、宗矩を推挙しよう、というつもりで
連れて行ったんじゃなかろうかと当方思うわけで砂。
なんか面倒見のいいパパさん像が浮かぶです喃。


 つか、個人的には宗矩の方が石舟斎を引っ張り出したんじゃなかろうかと
推測してるのですけど、まあ、その辺は後ほど。


 最後、ちょいと話がズレましたけど、
利厳の新陰流正統継承については、そんなとこではないかなあと。


 でなところで、次は3つめのポイント、
その利厳を流祖とする尾張柳生の話に移ろうかとー。



追記:
 書き終わってから思いついたので追記なのですが、
もしかすると、新陰流の継承の件は宗矩自身が断ったんじゃなかろうか、
とか思ったり。


 「自分より利厳の方が剣士として優れているし、
  何より、自分はそれ以上のことをやるつもりなので、正統の相伝は不要です」


 とか。
腕前そのものは石舟斎直々の推挙と免許貰ってるわけですし、
日々のお勤めの中で、既に実力を認められていると確信したから、
今更正統を貰う必要は感じてなかったかもしれませんし喃。
(まあ、これは流石に思いつき過ぎるので、ネタ程度にお考え頂ければ)