【柳生一族、そして宗矩】その8:柳生兵庫助利厳(1)「兵庫助利厳とは」


 またぞろタイトルには宗矩って書いてるのに、別の人の話を書く私。
まあ、今回は柳生一族と宗矩の特異性について書くのがテーマなので、
宗矩の対比となる”普通”の柳生一族を書くのが必要なのですけど、
それはそれとして、早いとこ宗矩くんの話が書きたいところで砂。
「俺に宗矩の話をさせろーっ!」と当方のゴーストが囁くのです。


 てなところで、前回で石舟際の話は終わったので、
今回からは新陰流の正統を継いだ新陰流三世にして柳生新陰流第三代、
尾張柳生の祖、柳生兵庫助利厳についてあれこれと。


 利厳についての話をするに際し,
キモとなるのは以下の4点でアリマス。


 1:兵庫助利厳とはどういう人物なのか。何をやったのか
 2:何故、利厳が新陰流正統を継いだのか
 3:「刀法の尾張柳生」について
 4:江戸柳生と尾張柳生の仲は実際どうだったのか


 この4点を中心に、あれこれ書いていこうかとー。
てなわけで、今回は、まず、兵庫助利厳という人物について
まとめていく所存でアリマス。


 柳生兵庫助利厳は、石舟斎宗厳の嫡男、厳勝の次男として生まれました。
兄は朝鮮で死亡した久三郎純厳、弟は伊達家兵法指南となる権右衛門です。
父親が不具の身(若い頃、腰を銃で撃たれて半身不随に)であったこともあり、
利厳は剣を石舟斎直々に習います。
その結果、多分に才能もあったのも相まって、めきめき腕を上げ、
石舟斎の秘蔵っ子として知られていきます。


 そして関が原の合戦も過ぎ、慶長八年(1603)、
叔父の宗矩が徳川秀忠の剣術指南役を勤めている頃、加藤清正に請われて、
五百石(内実は三千石とも)で加藤家へ仕官することに。
この時、「この子は短気なんで、三度まではなんかやっても
切腹は勘弁してやってください」と石舟斎が仕官の条件をつけた逸話もあり、
短気というか、揉め事を起こしやすい性格をしてたのではないかと言われてま砂。
しかし、それを受け入れた上、更に宗矩の最初の石高二百石の倍以上にもなる
五百石を最初から積んだ、というのは、清正の性格的なものもあるとはいえ、
既に利厳の腕前、そして柳生新陰流自体の評価が相当なものであったことの
証左だともいえます。
(これはこの年、将軍となった徳川家お抱えの流派である、というのも一因かと)


 その後、石舟斎の危惧通り、諍いから加藤家の古参の士を斬ってしまった利厳は
用(一揆の鎮圧)を済ませた後、説明をしに帰って、そのまま加藤家を退散します。
ちなみにこの後、そのまま廻国修行を行った、と言われているのですが、
新陰流の伝書によれば、慶長九年(1604)には柳生庄で石舟斎より
新陰流の正統を継ぐための更なる鍛錬を積んでいた、という話もあるので、
ひとまずは、退散してすぐ帰ったのであろうと。


 ともかく、そんな利厳に対し、石舟斎は新陰流の正統を継がせます。
こうして、新陰流三世にして柳生新陰流第三代、柳生利厳が立ったのでアリマス。


 ちなみに、新陰流と柳生新陰流を分けて書いてる件を説明しますと、
ここでいう柳生新陰流ってのは、石舟斎を祖とする「柳生の」新陰流のことで、
継承という面において、新陰流とはまた別の扱いにすることがあるので砂。
つまり、新陰流の正統だけど、柳生の人間じゃないとか、
尾張柳生の当主だけど、新陰流の正統は継いでないとか、
そういうことがあるためです。


 故に、新陰流の正統は姓が変わることもあるため「世」、
柳生新陰流の場合は柳生の道統でもあるため「代」で数えます。
ここで挙げた利厳の「柳生新陰流第三代」というのは、
尾張柳生系の」柳生新陰流の道統のことであり、
江戸柳生も同じように道統が存在します。


 で、利厳が新陰流の正統三世であることは、今までのものをお読み頂ければ、
「秀綱(流祖)→石舟斎(二世)→利厳(三世)」とわかる通りではありますが、
何故、石舟斎が流祖である柳生新陰流まで第三代になるのか、
という点について説明をば。


 これ、実は石舟斎と利厳の間に、厳勝が第二代として入っているので砂。
そう、石舟斎の長男で、利厳の父、半身不随の不遇の剣士、柳生新次郎厳勝です。
石舟斎が何故に不具の身の厳勝に第二代を継がせたのか、それはわかりませんが、
あえて推測するならば、これは石舟斎の、不遇の身の上の長男に対する
せめてもの思いやりだったのかもなあと。
三国志で言えば、結局登極しなかった曹操の謚が武帝になってるようなもんで砂。
ややこしい話で砂。


 まあ、この辺については、柳生新陰流兵法の公式サイトに、
わかりやすい表が載ってるので、そちらをご覧頂ければー。


 【柳生新陰流公式HP-柳生新陰流道統】


 閑話休題
さて、石舟斎の死後、利厳はしばらく誰にも仕えず、剣の追求に励みます。
ここでは新陰流だけではなく、新当流の長刀や槍の習得もやっています。
そして元和元年(1615)、尾張藩家老・成瀬隼人正正典の推挙で
尾張徳川家へ剣術指南役として五百石で仕えることになり、
ここに尾張柳生が成立するのです。


 その後、利厳はあくまで剣術指南としてのみ振舞います。
実際、仕官の際、


 「自分は(叔父・宗矩と違って)政に関わりません。
  自分がするのは剣術指南のみ」


 と言い切り、その言葉の通り、
あくまでも剣術指南役として尾張藩に仕え続けます。
そしてそれは、利厳の後を継ぐ尾張柳生家代々の伝統となります。
その後、「心法の江戸柳生、刀法の尾張柳生」と謳われた通り、
尾張柳生はあくまで剣術としての新陰流を守り続けました。
その正統は現在、平成の世まで続いています。
(現在の新陰流正統二十二世は、柳生新陰流第十六代でもある柳生耕一氏)


 そんな利厳が新陰流三世として成しえた物事として、
新陰流の「沈なる身の兵法」から「直立たる身の兵法」への切り替えがあります。


 これはどういうことかといいますと、
戦場での剣(鎧を着けた場合の剣術・介者剣術)から、
平時の剣(素肌=平服時の剣術)への切り替え、ということでアリマス。
戦場にて、重い鎧を着、鎧の隙間をつくことを前提にした剣術から、
平時・平服で斬り合うことを前提にした剣術へ対応できるように、
新陰流を改良したので砂。
「兵法は時代によって、恒に新たなるべし」という流祖上泉秀綱以来の訓示が
あったとはいえ、こういう大胆なことができた事が、
利厳が天才と呼ばれる所以のひとつであり、
また、「刀法の尾張柳生」の面目躍如と言えましょう。
(では江戸柳生は、宗矩はどうなの、という件については、後でまとめて)


 そして、利厳は新陰流の正統を主君・徳川義直に、
柳生新陰流の道統を次男利方(長男清厳は島原の乱に参加し、討ち死に)に譲り、
後に、如雲斎を名乗って隠居、慶安三年(1650)、その生涯を閉じます。
享年71歳。


 ちなみに、これ以降、新陰流の正統は、
尾張徳川家の当主と尾張柳生家の当主が交互に相伝しあうという形式になります。
そして、この義直から正統を継いだのが、天才の名高い利厳の三男、
柳生厳包こと連也斎でアリマス。
あと、余談ですが、彼の母、お珠は、父が島左近なので、
石舟斎の曾孫で島左近の孫でもあるので砂。
この厳包も面白いのですけど、とりあえず、それもまた後ということで。


 少し話がそれましたが、
これが新陰流三世、尾張柳生の祖、柳生兵庫助利厳という人物でアリマス。
世評として「宗矩より強い」と言われており、その真否は不明なれど、
少なくとも、そう言われるだけの人物であることは間違いないですよ。
実際、単純に剣士としての面のみで比較した場合、
利厳の方が宗矩よりも実績を残してますし喃。
(含みのある言い方でナンですが、まあ、それは後ほど)


 というところで、次回は2つめのポイント
「何故、利厳が新陰流正統を継いだのか」へ話を移すですよ。