【柳生一族、そして宗矩】その6:柳生石舟斎宗厳(3)「新陰流の追求〜家康からの誓紙・領地没収」


 今回はちょいと長めで。


 さて、無刀取りの公案を見事に解いたことで、
師・秀綱より新陰流二世にして柳生新陰流の流祖と認められた宗厳は、
この後、またしばらくの間、信長に付いたり、松永弾正に付いたりと、
割と右往左往してたのですが、ある時、一心発起して、
剣にのみ集中せんと、柳生庄に篭ることに。


 とはいえ、実はこの時期、
嫡男の厳勝が鉄砲で腰を撃たれて不具の身に、
自らも拳を射られるやら落馬して重傷を負うやらで、
単に剣に集中するため、で済ますには大き過ぎる災難もあった時期でした。
そのことを踏まえると、自らの武将としての将来に対して見切りをつけた、
即ち、大名を目指すのを諦めた、という面もあったのではないかと思われます。


 ちなみに余談ですが、
今、話に出た松永弾正、何気に柳生と縁がありまして、
宗厳の弟に柳生松吟庵(本名は重厳)という人物がいるのですが
これが松永弾正と茶の湯仲間であり、
信長に攻められた弾正の今際に、個人で加勢したりしてるので砂。
結局、脱出したのですけど、その際、弾正秘蔵の茶器「平蜘蛛の茶釜」を
密かに譲り受けたという話もあったり。
しみじみ伝奇づいた一族でアリマス。


 閑話休題
なんにせよ、この逼塞ともとれる新陰流の追求は、
言ってみれば戦国時代の武将として、小豪族としては
世捨て人となるのとほぼ同義だったのですが、
柳生新陰流、そして柳生一族の後の繁栄を考えると、
まさにその繁栄の礎ともいうべき期間でもありました。


 何故なら、この頃、後の江戸柳生家当主たる宗矩、
尾張柳生家当主たる利厳が生まれており、彼らは、
新陰流の追及を深め、剣にのみ集中した宗厳によって
新陰流の全てを、幼少時から仕込まれることになったからです。
この仕込みこそが、後の宗矩、利厳を生み出した基になったと言えます。


 さて、宗厳が柳生庄に篭っている間も、時代は移り、
かつて仕えた松永弾正も、それを滅ぼした信長もまた滅び、
秀吉によって遂に天下統一が成ります。
戦国時代の終焉です。


 この頃には、師匠にして流祖たる上泉秀綱も亡くなっており、
名実ともに石舟斎が新陰流の当主としての名声を確たるものにしていました。
そのため、彼から教えを請おうと、様々な人々が訪れているのですが、
このうちの一人に黒田長政がいたので砂。
その彼が宗厳に、いや、この頃には剃髪し、
石舟斎を名乗るようになった彼に、ある話を持ちかけます。
これこそが、柳生一族の未来を決する転機でありました。


 そう、徳川家康の前での剣技上覧です。


 この時期、家康は五大老の筆頭であり、
秀吉にすら遠慮させる押しも押されぬ大大名でした。
この時、石舟斎が何を思って家康の前に出向こうとしたのか、
それは謎ですが、ともあれ石舟斎は宗矩を連れて家康のところへ向かいます。
(個人的には、ここで石舟斎が何故宗矩を選んだのか、という話も
 したいところなのですけど、それはまた後に回すとして…)


 そして、これは推測なのですけど、
この話が来た時点で、石舟斎は兄弟子たる疋田豊五郎が既に家康の前で剣を披露し、
「匹夫の剣」呼ばわりされて退けられたことを、聞いていた可能性があります。
ならば、昔、自分を簡単に破った疋田の剣でさえも一蹴した、となると、
単に新陰流の剣を披露するだけでは、自分も同じく一蹴される可能性が高い。
ならばどうするべきか、と対策を考えたとしてもおかしくありません。
この場合、キモになるのは「顧客(家康)の求めるものは何か」という需要を
探ることであり、そして、その答えは、既に家康の言の中にあったわけです。


 「大将に必要なのは、万一の際に生き残るための技術である」と。


 まあ、この話自体、柳生が受け入れられたことによって、
対比として作られたエピソードである可能性もあるわけですが、
ともあれ石舟斎は、家康のニーズに対応したプレゼンとは何ぞや、と思案した結果
家康の前で「無刀取り」、即ち、
「武器がない状態でも、武器を持った相手に対抗できる技術」の披露を
行うことに決めたのではないか、と思うのですよ。


 そして、文禄三年(1594年)五月三日、
家康の前での剣技上覧で、石舟斎は宗矩を打ち太刀に、無刀取りを披露します。
このプレゼンは見事図に当たり、大興奮した家康が「俺も!俺もやる!」と
自ら木刀で打ちかかった(※家康は奥山休賀斎から既に新陰流を学んでます)のを
さっくりと無刀取りしたので家康はもうメロメロ。


         / ̄\
        | 家康 |
         \_/
          |
       /  ̄  ̄ \
     /  \ /  \
    /   ⌒   ⌒   \      「よくぞワシに必要な技を見せてくれた。
    |    (__人__)     |     褒美として新陰流入門の誓紙を入れよう」
    \    ` ⌒´    /   ☆
    /ヽ、--ー、__,-‐´ \─/
   / >   ヽ▼●▼<\  ||ー、.
  / ヽ、   \ i |。| |/  ヽ (ニ、`ヽ.
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 l     |    |ー─ |  ̄ l   `~ヽ_ノ_
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 てな塩梅で、その場で家康を柳生新陰流に入門させることに成功します。
まあ、家康を入門させることを目的にしていたわけではないので、
成功、というのもおかしな書き方なのですけど。


 あと、実際には家康が新陰流に入門したのは、
石舟斎へ弟子入りする態をとることで、自分の傍にいるように求めたのが
真実である、などという説もあるのですが、
石舟斎がこれを高齢を理由に辞退し、代わりに宗矩を推挙しました。
そして家康はこれを受け、宗矩は近習として傍に置かれることになります。


 と、まあ、これが徳川家と柳生の縁のはじめであり、
以降の柳生新陰流、及び柳生一族の繁栄のきっかけなのでアリマス。
尤も、この時は、そんな風に考えてなかったとは思いますが。


 そんなわけで、末っ子の宗矩の仕官も決まり、
これで後は利厳を育てて…と考えてたであろう石舟斎に、大難儀が。


  太閤検地と、隠し田発覚による所領没収でアリマス。


 代々伝わる領地である柳生二千石を全部没収され、
いきなり一族は所領を失う羽目になります。即ち超ピンチ。
(その後、羽柴秀次から知行百石が与えられたおかげで、
 柳生を離れることだけは避けられましたが…)


 困ったことに、秀吉は全然剣術に興味ナッシングなため、
いくら新陰流を極めた石舟斎といえどアピールの仕様がなく、途方に暮れました。
既に小早川家に仕官していた四男の宗章にせよ、家康に近侍していた宗矩にせよ、
己の主君の近くにいざるを得ず、遠くの本家を支援することもままなりません。
ちなみに、石舟斎には息子が5人、娘が6人いますが、
このうち、嫡男の厳勝は銃で腰を撃たれて不具の身、
次男久斎、三男徳斎はそれぞれ出家、利厳も16歳で、まだ若干微妙であり、
もう仕官できる人間がいなかったので砂。


 そうして、収入が大幅減してしまった上、
先祖代々の領地が復活する目処もなく、流石の石舟斎もへこみます。


 ちなみに、この頃の石舟斎のへこみっぷりを表すエピソードとして、


・ワシが死んだら茶器とか売って葬式代に当ててくれ。
 あー、でも、足りなかったらどうしよう…。


 とか嫁さん(春桃御前)宛に手紙書いたり、


・いくら兵法が使えても全然世の中渡れないね。
 さながら沈みっぱなしの石の舟の如く。まさにダメ人間!


 とかいう自嘲をわざわざ詩にして自虐したとか、
割とロクでもない話ばかり出てきます。
ちなみに、この詩こそが石舟斎の名の由来であるという話もありますが、
この詩が詠まれる以前から石舟斎を名乗っていたので、
むしろ逆で、自分の名前を自虐解釈した、ってところでしょうな。
どれだけヘコんでたのかと。


 ちなみに、この領地没収と家康の前での剣技上覧は順番が逆で、
領地没収を喰らった後、とことん貧乏になった時に剣技上覧の話が来た、
という展開もよく言われており、確かに、領地没収が先であれば、
家康のところに行く理由は明確になるわけなのですが、
その場合、ひとつ、問題が出るのです。


 「なんで家康に領地の回復を申し出なかったの?」


 という話でアリマス。
当時の家康が五大老の筆頭で、実質、秀吉に次ぐ権勢を誇っていたわけで、
そのような相手から激賞され、臣従ではなく、師として請われたならば、
「では、没収された領地を回復して頂けないか」という申し出のひとつも
するのが普通でしょう。
あれだけヘコんでたのですから。


 ところが、石舟斎は自らは高齢を理由に固辞し、
宗矩を二百石で仕官させるだけで済ませます。
仮に高齢で出ることが叶わなかったにせよ、それならば、
己の代わりとなれると推した息子の石高について、
もう少し折衝することもあったと思われます。
しかし、そういう記録もありません。


 そうなると、


 当時の石舟斎は、収入について特に不安を感じておらず、
  まずは息子宗矩の仕官だけが目当てであった。


 という方が状況的に合ってるような気がするので砂。
実を言うと、当方自身も最初は「領地没収→家康上覧」だと思っていたので、
調べてみて、どうやら逆らしいとわかって、ちょっと吃驚しました。
でも、考えてみると、こちらの方が自然なんじゃなかろうかなあと。


 さて、話がそれましたが、そんなドへこみの石舟斎と、
貧乏真っ只中の柳生一族の行方について、次に続くでアリマス。