【柳生一族、そして宗矩】その17:柳生但馬守宗矩(5)「柳生宗矩のその後、そして…」

 随分長く掛かりましたが、今回で宗矩の生涯についての話は終了です。
やっとこれで、全部の準備が終わるでありますよー。


 さて、家光の剣術指南役となって15年、徳川家に仕えて40年、
遂に大和柳生藩一万石の藩主とまでなった宗矩ですが、
家光は、宗矩を定府大名として、傍に置き続けます。
宗矩もまた、惣目付の役目こそ離れたものの、
相変わらず剣術指南役として家光を支え続けます。


 また、この頃には宗矩の三人の息子、
十兵衛三厳、左門友矩、又十郎宗冬も皆、城へ上がって役目を勤めております。
寛永十三年(1636)に生まれた末子の六丸義仙(後の列堂)も柳生庄で育っており、
宗矩を祖とする江戸柳生家は、この時期が全盛期だったと言えます。
(ちなみに六丸は宗矩66歳の時の子。十兵衛とは29歳差。
 余談ですが、66歳と言えば、石舟斎が「私は高齢でロクに働けませんので
 代わりに息子をお仕えさせたく」とか言ってた時と同い年で砂)


 この頃の宗矩は能を好み、また、煙草をよく吸っていたそうで、
その点に絡めて沢庵より、


 「好き嫌いで人をえこひいきすんな。賄賂とか取るな。
  人んちに押しかけて能踊るな。
  あと、お前の息子(十兵衛)、酒癖悪いぞ。
  親がしっかりしてないから、息子もグレるんだよ(大意)」


 「あんまり煙草吸うな。癌になっても知らんぞ(大意)」


 という手紙を付けられたりしており、
このうち、能と煙草の二つについてはフォローの仕様が無いなあ、というか、
これに絡んで、


 ・ 家光と宗矩が観世太夫の能を見物してた時、
  家光に「観世太夫に斬る隙があったら言ってみよ」と言われ、能が終わって曰く
  「まるで隙がありませんでしたが、隅を取った時、一瞬だけ隙ができたように
   思えましたので、斬りつけるならそこかと」と答えた。
  この時、観世太夫も付き人に「今回、上様の傍におられたのは誰か」と尋ね、
  宗矩であると聞いて、「なるほど。隅を取った時、少し気を抜いたのだが、
  その一瞬、笑みを浮かべられたので何者かと思ったが、流石は柳生殿」と言った。
  これを聞いた家光は「達人と名人、互いが互いを知るとはこのことか」と
  両者を称えたという。


 ・ 宗矩が煙草をあんまり吸っているので部屋が煙くなり、
  これに沢庵が文句を言うと、しこたま長い煙管を用意し、
  部屋の外から従者に煙草を詰めさせてすぱすぱ吸い、
  曰く「これで部屋では煙草は吸っておらぬでござる」


 とかいう、いい話なんだかとんちなんだかわからぬようなエピソードもあって、
あのニートで親の力で就職した又右衛門が面白ぇ爺になったよなー、と
妙にほのぼのさせられるところではあります。
(まあ、事実かどうか限りなく不明なのですけど)


 ちなみに、えこひいきの件と賄賂の件については、
少し思うところがあるので、また別にまとめてみようかと。
キーワードは「金許し」「義理許し」でアリマス。
ああっ、宗矩が虎眼先生フェイスにーッ!?
(つか、調べてみると、この沢庵の手紙、偽造説もあるんですね)


 まあ、そんなスットコ愉快な日々を送っていた爺宗矩ですが、
「やる時はやるよ(by老ジョセフ)」であり、それを象徴する逸話があります。
寛永十四年(1637)の「島原の乱」の一件です。


 時は11月10日、有馬玄藩頭豊氏の家で猿楽が行われており、
例によって宗矩も参加していたのですが、ここに宗矩の家臣がやってきて、
乱の鎮圧の為に、板倉内膳正重昌に命じて軍を出させたことを報告します。


 これを聞いた宗矩は、あくまで表情を変えぬまま、主の主氏に早馬を借りると、
一気に品川まで向かいます。そこでもまだ板倉の姿は見えず、
仕方が無いので更に川崎まで駆け、そこで問うたところ、
「もう二・三里は先であろう」と聞き、日も暮れるため、
諦めて城まで引き返し、早速家光に謁見を求めます。


 こんな時間になんじゃいな、と出てきた家光に対し、宗矩は威儀を正し、


 「板倉殿が(島原の)乱の鎮圧を命ぜられ、出発したと聞いたので、
  これをなんとか止めようと思い、川崎まで追いかけましたが、
  追いつけなかったので、このことを申し上げるため参上致しました」


 と言い、これに対し、家光が何故にそのようなことを?と問うたところ、


 「上様は考えがお甘い。今回の乱はただの一揆ではありません。
  宗教系の乱は、どれも大事になるのです。
  このまま行かせたら板倉殿は必ずや討ち死にするので、
  その前に何とか止めようと思ったのです」


 と答えたので、面と向かって「考えが甘い」と言われた家光は
そのまま不機嫌面になり、席を立ってしまいます。
しかし、宗矩は退去せず、そのままずっと次の間で控え続けたので、
根負けした家光が再び顔を出し、理由を言え、理由を、と求めてきたので、


 「そもそも宗教系の敵は、兵士を来世とか天国とかで煽るので
  どいつもこいつも死兵になって厄介千万。
  信長様だって一向一揆とか本願寺とかでエラい苦労してましたし。
  で、そんなの相手に戦うだけに、苦戦は必至なわけですが、
  そうなってくると、板倉殿の三河深溝一万二千石の格では
  どうしたって九州の大藩の連中は従ってくれません。
  そうなれば、幕府としてはもっと格上の人を増援に出す必要が
  出てくるわけですが、そんなことをしたら、板倉殿は面目を完全になくすので、
  確実に自滅的行動に出るでしょう。
  板倉殿はこんなところで亡くすにはいかにも惜しい人物ですし、
  "上様のご命令でござる"とか言って騙してでも引き止めるつもり
  だったのですけど、如何しますか?
  お許し頂けるなら、すぐまた追いかけて連れ帰りますが」


 と、ここぞとばかりに長文の大説教モードに。
流石に家光も自分の命令がマズかったことに気づいて後悔するのですが、
今更追いかけても無理だし、と思い、結局、宗矩を下がらせます。

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 `ヽ、      i       | ─────────. `ー' ー‐─────────‐ |
、   `ヽ、   |        | 板倉重昌:面目を失って自滅 :               |
、`ヽ、   \  |       | ──────────‐ :. ──────────‐ |
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   ヽ ヽ   |  \      | ──────────‐ :. ──────────‐ |


 で、斯様なロクでもない予言をされてしまった板倉殿ですが、
この宗矩の大予言は当たってしまい、結論を言うと、


 「ボロ負けしたせいで、老中・松平"知恵伊豆"信綱が増援に来ると聞いたので、
  その前に城を落とそうと正月に特攻かけたら誰もついてこなくて人生オワタ\(^o^)/」


 という結末に。
ちなみにこの正月特攻には、利厳の長男、清厳も参加しており、討ち死にしてます。
かくして、予言通りに死んでしまった板倉殿の後釜としてやって来た知恵伊豆は、
諸藩の協力を仰ぎ、12万の軍勢&外国船の砲撃などで追い込んで総攻撃、
一揆衆は悉く討ち死にし、総大将・天草四郎時貞も死にます。
(後に四郎が復活して現人鬼になったかどうかは不明)


 このエピソードについて、後に勝海舟が「氷川清話」の中で、


柳生但馬はたいしたものだ、と密かに驚いている。
 将軍がすでに命を下して江戸を発たせたものを、
 わずか剣術指南くらいの身分でありながら、
 独断をもって引きとめようと言うなどは、とても尋常のものではない。
 俺はこの一事で、柳生が将軍に対して非常な権力を持っていたことを見抜いたのだ。
 およそ歴史を読むには、こんな処に注意しなければ真相はわからない。
 いわゆる”眼光紙背に徹する”ということは、つまりこういうことなんだよ」


 と語ってま砂。
なんか後半は勝海舟の自慢も入ってるような気もしますが。
(ちなみに、ここを見ても、普通、剣術指南役は、そう大した役職ではないこと、
 そこから大名に出世した宗矩がどれだけ異常かがわかりま砂)


 そんな老いてなお衰えず、といったような宗矩ですが、
その後、75歳を越えると流石に無理も効かなくなってきて、
更に、四兄弟の中で最も家光に重んじられた次男友矩、
家光の師僧となり、また禅について助言もしてくれた友人沢庵と、
次々に身近な人物が亡くなっていくことで、気も落ち込んできたのかもしれません。


 正保三年(1646)3月、宗矩は病に倒れます。


 宗矩の様態を心配した家光は、医者を送り、
見舞い(&剣術上の質問)の手紙を届けたりしますが、
いよいよ、というところになり、3月20日、宗矩の屋敷へ自ら見舞いに訪れます。
ここに至り、家光は宗矩の長年の働きを称え、何か願いがあれば
遠慮なく申せ、といいます。
それに対し、宗矩は、


 「願わくば、柳生庄に寺を造立し、
  亡父宗厳の霊を弔い、末子の六丸を住職にさせて頂きたい」


 と答えたといいます。
やはり末の子の行く末は気になる、ということなんでしょうか喃。
(この時、六丸は10歳)


 なお、この際、それまで受け取った所領を全て返上し、
もし、息子たち(十兵衛、宗冬)を引き続き使ってもらえるのであれば、
それぞれに対し、働きに見合う家禄を与えてください、と言ったという話も
ありますが、この辺りの話は本当かどうか謎でアリマス。


 そうして、身の回りの整理を全てつけた後、
3月26日、宗矩は遂にその生涯を終えます。
享年76歳。


 葬儀後、初七日のうちに宗矩が家光に願い出た通りに、
宗厳の菩提寺・芳徳寺の建立許可の内示があり、
4月には上使として阿部豊後守正武はじめ4名が寺に訪れ、
家光よりの贈位書と、香資料として白銀50枚を霊前に供えた、となっております。


 贈位書には、


従五位下柳生但馬守宗矩、剣術無雙、
 東照大権現(家康)、台徳院殿(秀忠)二奉仕スルコト久シ。
 命ニヨツテ常ニ幕下ニ侍シ、剣術ヲ談シテツイニコレヲコトゴトク伝授ス。
 今宗矩既ニ没ス、哀惜ヤマズ。故ニ従四以下ヲ贈ル。家族モツテ栄トナスベシ。
 正保3年4月6日  従一位朝臣家光〕


 とあり、宗矩は、死して従四位下を贈られます。
これもまた通常考えられない厚遇と言えます。
(通常、従四位下は十万石以上の国を30年以上治めた大名か、
 さもなくば幕閣の中でも老中クラスにならないと出ない官位)


 また、その真否の問われる宗矩の所領返上の遺言ですが、
この後、大和柳生藩一万二千五百石(友矩の死後、二千五百石加増)は、
十兵衛に八千三百石、宗冬に四千石、そして芳徳寺の寺領として
二百石に分けられます。
(これはかなり珍しい処置で、この結果、柳生家は大名から旗本に戻るが、
 後に宗冬が加増を受けて柳生藩は復活する)


 ともあれ、これが日本の剣術史上、唯一人、
「一剣士から大名になった男」柳生但馬守宗矩の生き様でアリマス。


 この宗矩の人生に対し、どのような評価を下すかは、
無論、ここまで読まれた方次第ではあるのですが、
最後に一つ、宗矩について語られた言葉を以って、
彼の人生の物語を締めようかと思います。


     「吾、天下統御の道は宗矩に学びたり」

               −徳川家光