【柳生一族、そして宗矩】その20:柳生但馬守宗矩(8)「心法の江戸柳生:その二つの源流(2):沢庵宗彭「不動智神妙録」」


 「心法の江戸柳生」の「心法」とはなんぞや、というこのお話、
元々は1回で済ますつもりだったのですけど、書いてるうちに矢鱈に増えたので、
3分割(今書いてる「兵法家伝書」の話次第では4分割になるかも)したうち2回目、
今回は家光の師僧にして宗矩の友人、禅僧・沢庵宗彭という人物についてと、
その著作たる「不動智神妙録」についてあれこれをば。


 まず、この沢庵宗彭という禅僧が何者であるか、ということですが、
32歳で大悟し、37歳で京の名刹大徳寺の第154世住持になったが、
わずか3日で大徳寺を去ってしまった、というなかなか破天荒な人物であり、
寛永四年(1629)の紫衣事件で幕府に抗議したことにより出羽に流罪となり、
その後、赦免されて、今度は家光の師僧となるという、
なかなかダイナミックな人生を送っております。


 性格の方も経歴相応で、一言で言えばフリーダムであり、
例えば、上述の大徳寺の住持を3日で辞めた際にも、


 『由来 吾はこれ水雲の身 吻(みだり)に名藍(めいらん)を董(ただ)す
  紫陌(しはく)の春 耐えにがたし 明朝南海の上
  白鴎 ついに紅鹿に走らず』


 という一文を残したり、花魁の絵に一筆を頼まれて、


 『仏は法を売り、祖師は仏を売り、末法の僧は始祖を売る。
  汝その身を売って衆生の煩悩を安んず。
  色即是空、色即是空


 とかさらさら書いたという逸話もあったりします。
おまけに、死ぬ間際の絶筆は、


             『夢』


 の一文字ですよ。
まったくもってファンキーでロックな坊主と言わざるを得ませんな。


 なお、世間的に名の通っている方の沢庵、つまり沢庵漬との関連ですが、
元は沢庵が住職をやっていた東海禅寺にて作っていた名もない漬物で、
これを食べた家光が「名前がないなら沢庵漬にすればいいじゃない」と
言ったので、この名が付いた、などという説もあるのですが、
まあ、この辺は詳細が不明なので謎でアリマス。


 ところで少し話が反れますが、
沢庵といえば、武蔵との絡みで名前が上げられる事が多いのですけど、
少なくとも史実の上では接触はないわけなのですよ。
でも、「沢庵」でぐぐると、「武蔵の師匠として云々」とか
書いてあるのが多くて、当方としては見るたびにウンザリしてくるのでアリマス。
(つか、剣禅一如を語るに際して、毎度武蔵の名前が出てくるのも…)
まったく、吉川先生も罪作りであるよなあと思う次第。


 だってこれ、言ってみれば、韓国に朝鮮柳生を名乗る一派が出てきて、
その流派の起こりとして「その昔、柳三厳と呼ばれる武芸者が云々」とか
言い張った挙句、それがいつの間にやら定着しちゃうようなもんですよ?
韓国の宮殿敷地内に「柳生武芸庁跡」とかいう看板が立つようなもんでアリマス。


 歴史小説作家最大の勲は、己の作り出したフィクションを
デファクトスタンダードにしてしまうこと
だと当方勝手に思っておりますが、
そういう意味では、やはり吉川先生は稀代の歴史小説作家であったなあと。
(無論、その是非はともかく、という留保がつきますが)
人間、やはり法螺を吹くならこれくらいやりたいもので砂。


 閑話休題
さて、そんなアウトロー坊主であるところの沢庵が宗矩と出会ったのは、
まだ二人が若い時、京の禅寺にて、というヒキで前回は終わらせたわけですが、
その後、宗矩と沢庵の縁が次に歴史の表に出たのは、
沢庵が紫衣事件において出羽に配流となった際、その赦免嘆願に、
"黒衣の宰相"天海と共に宗矩が名を連ねたところになります。
(ちなみに当の沢庵は、配流先の出羽上山で土岐山城守頼行に厚遇されて、
 「春雨庵」という庵まで建てられ、下にも置かぬ扱われ方だったそうな。
 おまけに向こうでも禅を説いたりしてて、全然刑罰になってねぇ有様で砂
 参考→【シリーズ夢の足跡:沢庵宗彭和尚】ここでも武蔵ネタが…)


 ちなみに、宗矩と沢庵はかなり仲が良かったらしく、
今でも十数通、やり取りの手紙が残っているそうで、その中には、


沢庵「とにかく宗矩殿に逢いたいよ…。身体に気をつけてね?
   煙草吸い過ぎたらガンになるよ?
   あと、こっち(但馬)が大雪になったら、柳生庄の陣屋にお邪魔するかも」


 とか書いてあるのもあって、どうなの、これ。
実際、東海禅寺ができるまで、江戸ではずっと柳生邸に泊まってたそうですし喃。
つまりアレだ。「宗×沢」とか「沢×宗」とか。
あるいは「宗×沢×光」か「宗×沢×光×天」なのか。
ううむぬ。(というか表記はこれでいいんじゃろか…)


 …なんか話が反れましたが、
ともかく、天海や宗矩の働きかけもあり、赦免成って京に戻った沢庵は、
今度は、家光の命により、江戸へ向かうことになります。
この呼び出しには、宗矩の口添えがあったそうなのですが、
ここに至る話もなかなか愉快なのでアリマス。


 家光が武芸に熱心であったことは既に書いた通りですが、
当たり前ながら、宗矩には全然勝てないわけで、これに家光は大いに不満を持ち、
寛永十年(1633)ごろ、宗矩にその旨伝える手紙を出します。
原文は長い上にひらがなが多くて読みづらいので、
大意をまとめると、大体こんな塩梅で砂。


 「自分はちゃんと修行してるし、遊び半分でなんかやってないんだが、
  でも、なんかもひとつ強くなれてない。
  お前(宗矩)、毎度「Exactly(結構でございます)」とか言うけど、
  もしかして…本気(マジ)で教えてなかったんじゃね?
  あんだけ目ぇかけてやったのに、
  もし手ぇ抜いて教えてたってンなら…「覚悟」しとけよ?
  でもこれからちゃんと教えてくれるなら、お前だけじゃなくて、
  友矩とか友矩とか友矩とか、あと名前忘れけど他の連中のことも
  これからも気にかけてやるから安心すれ。
  わかるか?オレの言ってる事…え?
  「罷免する」と心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだッ!」


 まー若干超訳ですが、なんつーか完全に脅し入ってま砂。
あと、この時点で友矩の名前だけ出ててワロタ。十兵衛…。


 そんなこんなで癇癪起こした家光に対し、
宗矩は一策を案じて、家光に提案します。


            , '´  ̄ ̄ ` 、
          i r-ー-┬-‐、i
           | |,,_   _,{|
          N| "゚'` {"゚`lリ    (禅を) や ら な い か
             ト.i   ,__''_  !
          /i/ l\ ー .イ|、
    ,.、-  ̄/  | l   ̄ / | |` ┬-、
    /  ヽ. /    ト-` 、ノ- |  l  l  ヽ.
  /    ∨     l   |!  |   `> |  i
  /     |`二^>  l.  |  | <__,|  |
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__{   ___|└―ー/  ̄´ |ヽ |___ノ____________|
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        禅を学ぶことを提案する柳生宗矩(イメージ図)


 まあ、柳生新陰流自体、禅の影響を受けた流派ではあったのですが、
宗矩の思想では、今よりも更に禅の理念を強める必要から、
家光自身が禅を学ぶ必要があると判断したので砂。
で、これ幸いと「上様がイマイチなのは禅をやってないからでございます」
とか言って、そこで、その禅の師として沢庵を推挙したので砂。


 こうして、宗矩の推挙により家光と引き合わされた沢庵は、
抜群のトークで一気に家光のお気に入りとなり、将軍家の師僧として抜擢されます。
(これに対し、当人は「これはとんだ繋がれ猿だ。山に帰りたい」とか言って
 大層迷惑がってたそうですが)


 こうして江戸に居着く羽目になった沢庵は、
家光に禅の思想を指導すると共に、宗矩に対しても、
禅の観点から見た剣術への見解をひとつの書に記し、伝えます。


    これが「不動智神妙録」です。


 この不動智神妙録で述べられている要点をまとめると、
以下の2点になります。


   1:「心をとどめぬが肝要にて候」
   2:「剣禅一如」


 1は「一つの物事に心(意識)を留めるな」というところで砂。
所謂「無心」の状態であり、「不動智」と呼ばれるものでアリマス。
あれこれの例を挙げたり、説明したりしているのですが、
一言でまとめれば、これに収まります。


 そして、2は「剣も至れば禅に通ず」ということで砂。
心法を修行するについては仏法も兵法も変わりはなく、
これを転じて、1で挙げた「無心」こそ勝負の要諦なり、と言い、
これにより、剣と禅を橋渡しする下地が作られたわけでアリマス。
実際、禅の観点から剣を語った最初の書、ということで、
「剣禅一如」の話が出る時、この本はよく引き合いに出されま砂。
(尤も、この本には「剣禅一如」の単語は載ってませんのでご注意)


 その上で、少し、不動智神妙禄をまとめてみました。
こちらは兵法百首と違って、原文併記で意訳するときりがないのでご勘弁をば。


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 まず、剣だけに限らず肝心なのは、
「ひとつのことに心を留めるな」ということである。


 例えば、立ち合った時、自分の剣や相手の剣に、
あるいは相手の動きや、周りの様子などに心を留めていれば、
その留めているところ以外が見えなくなる。
これでは十全な働きなどできない。


 また、迷いやこだわりも心を留める物事である。
迷いに囚われていれば、それ以外のことに意識が向かなくなる。
そもそも、迷いに限らず、何くれと考える事自体が執着である。
「迷わないぞ」と考えることすら、既に迷いであり、執着である。

それ即ち、一つの物事に心を留めているということなのだ。
実に不自由である。


 それら一つの物事に心を留めずあれば、
逆に全てがまとめて把握できる。
もし、千手観音が己の一つの腕に意識を集中すれば、
他の九九九本の腕は不自由であろうが、
何も意識しないまま、ただ無為に動かすのであれば、
たちまち千本の腕は全て自在に、即座に、動くであろう。
これが自由な心、即ち「不動智」の状態である。


 このような境地に達すれば、
目の前の一事に心を留めず、全体を把握できるようになるので、
たとえ一人でも十人を相手にすることも可能である。


 そのような自由な心を得る為には、
まず、迷いやこだわりをなくさねばならぬ。
しかし、人は何も知らない時であれば、
自由な心をもっているのだが、
学び、経験を積むに従い、
迷いやこだわりが生まれてきてしまうものだ。


 この迷いやこだわりを解くために、理を得、事を得よ。
つまり、よく学び、よく修行せよ(=経験を積め)。
理、事を得ることで、更なるこだわりや迷いも湧こうが、
理、事を極めれば、こだわりや迷いもない、
初心の時のような自由な心を持つことができるだろう。
それ即ち「無心」である。


 そのような境地に至れば、
「これをするぞ」などと意識することもなく、自然に物事を為す事ができる。
これが至極の境地であり、これを目指す為に修行するのだ。


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 大体、斯様なところでしょうか。
果たして本当にこれでいいのか、ちゃんと理解できているのか、
自分でも謎というか、即ち、迷いのある状態でありますので、
できれば、以下の本文もお読み頂ければ重畳。


 【不動智神妙録(全文)】
 

 あと、この不動智神妙録の最後には、
沢庵が宗矩に宛てた例の説教なんかも載ってるのですが、
最後の最後に、面白い歌が載ってるので砂。
こんなの。


 『心こそ心まよはす心なれ 心に心 心ゆるすな』


 なんだか謎かけのような歌ですけど、
この歌、字を足すと、意味が通じるようになります。


 妄心こそ本心をまよわす妄心なれ
 妄心に本心(よ) 本心ゆるすな


 つまり、心を「妄心=迷い」と「本心」とに分け、
妄心に本心を惑わされること無かれ、ということになります。
まあ、物凄く端折れば「迷うな」と言ってる訳で砂。
不動智神妙禄の最後に相応しい歌でアリマス。


 こうして、父・石舟斎から柳生新陰流の兵法観を、
友人・沢庵から「無心」の思想と「剣禅一如」の概念を学び取った宗矩は、
これに、自らが得た官僚・政治家としての経験や、
孫子や大学などの中国の古書、更には柳生家と親密な付き合いのあった
能の大家、金春家より得た能についての教養など、
己の学びえたものを全て合成・再構成することで、
自らの、即ち「江戸柳生の心法」を説いた理論書を書き上げます。


   それこそが「兵法家伝書」です。


 てなところで、前振りは終了。
次こそ「兵法家伝書」をベースに、
宗矩自身の思想たる「活人剣・治国平天下の剣」について
解説をしていくですよー。