【柳生一族、そして宗矩】その16:柳生但馬守宗矩(4)「柳生宗矩の兵法家伝書執筆・惣目付就任〜柳生藩の成立」

 さて、坂崎出羽守の一件で、
幕閣に「柳生は単なる剣術使いではない」と認識させることに成功した宗矩は、
元和七年(1621)、新たな役を任じられます。


  次期将軍たる家光の剣術指南役です。


 こうして宗矩は、これに先立つこと2年前、
家光の小姓となっていた嫡男・十兵衛三厳(この時15歳)と共に、
家光に柳生新陰流の剣を教え込みます。
おそらく、この時点で、既に51歳に達していた宗矩の兵法観はほぼ完成しており、
この時の家光への剣術指南が、後の宗矩の出世に大きく影響したものと思われます。


 元和九年(1625)、秀忠は家光へと将軍職を譲って大御所となり、
家光は三代将軍となります。
これに伴い、宗矩は再び将軍家剣術指南役となり、
この後、飛躍的に出世していくのです。
その出世っぷりを年表風にまとめると、以下のようになります。


 年代         年齢  出来事                         宗矩の家禄
 元和七年(1621) :51歳:家光の剣術指南役となる              :三千石
 元和九年(1623) :53歳:家光の将軍就任に伴い、将軍家剣術指南役に :三千石
 寛永六年(1629) :59歳:従五位下但馬守に叙任される            :三千石
 寛永九年(1632) :62歳:三千石を加増され惣目付(大監察)となる     :六千石
 寛永十三年(1636):66歳:四千石加増されて一万石を領し大名となる   :一万石


 宗矩の家禄は、慶長十一年(1606)に家督を継いで以来、
20年以上、三千石のままでしたが、家光が将軍になって以降、
ものの10年で二度の加増があり、石高は一万石に達します。
一万石という石高は、直参の武士にとって、大名と旗本を分ける分岐点であり、
これにより、遂に宗矩は一剣士の身から大名への出世を成し遂げます。
即ち、大和柳生藩の成立であり、初代藩主・柳生但馬守宗矩の誕生です。
なお、"柳生但馬"、"但馬守"など、宗矩のもうひとつの名前といっていい、
"従五位下但馬守"の官位も、この時期、正式に下されています。
(それまでは代々勝手に名乗っていただけで、官位としては無官だった)


 この出世は、他の剣士たちはおろか、一般の旗本達と比べても異常であり、
また、宗矩自身のキャリアから見ても、本来なら考えられないものだと言えます。
事実、様々な功績(大坂夏の陣で秀忠の命を救った件も含む)を立てた
秀忠の剣術指南役時代においても、宗矩には一切加増はありませんでした。
(尤も、大名家からの柳生新陰流への入門者は増えたそうですが)


 にも関わらず、そのような華々しい功績を立てたわけではない時期に、
何故、ここまで出世することができたのか…。
それは、宗矩と家光の関係抜きに語ることはできません。


 三代将軍家光は、武芸好きとして知られていた将軍でした。
歴代将軍の中でも、かなり熱心に剣術稽古をやっていた方に入りますし、
自分でするだけではなく、結構頻繁に上覧試合を催し、
各地の名人を集めては試合見物を楽しんだといいます。


 そんな家光ですので、自然、剣術指南役たる宗矩との接触時間は増えていきます。
そして、宗矩は将軍と直に話を、それも、主君たる家光に対し、
教授をするという形で話をすることができる、このチャンスを逃しませんでした。
宗矩は、剣術指南に絡めて、自分の兵法観を家光に説いていったのです。


     それが「活人剣・治国平天下の剣」です。


 この宗矩の思想(兵法観)については、後に別項を設けて解説しますが、
この時点で宗矩が家光に説いたのは、おそらく、


   「剣術は他のこと−例えば統治−にも応用できる」


 という点であったと思われます。
更に「武家諸法度」の最初にある「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事」を引き、
「これは単に剣の腕を上げればよい、ということではなく、
 ”剣術で得た技術・心得は、統治に応用できるのだから、
 これに修練することは武士たるものの務めである”ということです」
とも説いたのではと。


 そして、これを語る宗矩は、その言葉に説得力を持たせるだけの
「剣の腕前」と「政治手腕」を兼ね備えていました。
つまり、宗矩が上手いこと仕事を処理した場合、
「これは柳生新陰流の極意を応用したのでござる。つまり云々」とやったわけで砂。
単純に考えると、剣の腕と政治の能力って全然関係なくね?というところであり、
(事実、小野家は忠明・忠常揃ってこの手の能力は低かった様子)
それって単にお前が両方できるってだけじゃね?と言われるところなのでしょうが、
宗矩は断固として「いや、これは剣術の応用です」と言い張りました。


 そして恐るべきことに、殆ど牽強付会と言っていいこの話を、
宗矩は友人・沢庵(家光の師僧)の助言による禅の思想で補強し、
とうとう理論化してしまいます。
これが宗矩の兵法の集大成「兵法家伝書」でアリマス。


兵法家伝書―付・新陰流兵法目録事 (岩波文庫)

兵法家伝書―付・新陰流兵法目録事 (岩波文庫)


 この兵法家伝書の詳細については、また後ほど説明を行いますが、
ここでわかるのは、形は違えど、流祖上泉秀綱、父石舟斎、甥の利厳と同じく、
宗矩もまた、己の流派を広め、弟子を指導する能力に長けていた、ということで砂。
それは、家光がすっかり宗矩の兵法観に染まってしまったことからも
明らかと言えます。
(後の話になりますが、宗矩の今際の際にも、家光は兵法上の質問を投げています)


 かくして「剣術=統治」を真に受けるようになったらしい家光は、
ならば、この剣術指南役の剣の腕を、政治の世界に活かせるようにしてやろうと
次々と宗矩に出世の階段を上らせます。
その最たるものが、新たに設置された役職惣目付(大監察)」への就任です。


 この惣目付という役職は、
「大名・旗本の統治状況を監察し、これに問題があれば将軍へ報告する」という
ある意味「政治指南役」とも言える役職(秘密警察呼ばわりもされますが)であり
これを新たに設置し、初代として宗矩を就けたのは、
家光の宗矩に対する情の表れであると同時に、
「そこまで言うなら(お前の兵法観を政治の世界で)実証してみせろ」という
ある種の「試し」ではなかったか、と思われます。


 そして、宗矩がこの役職に就いて、如何にして職務を果たしたか、
それは具体的には不明でありますが、宗矩がこの職務を4年間務めた後、
寛永十三年(1636)、四千石の加増によって大名に名を連ねたことを考えると、
家光に対し、己の兵法観の正しさを政治の場において実証してみせたのではないか、
と推測するのも、そう的外れでもなかろうかと。


 なんにせよ、幕閣としての宗矩について回るイメージは、
この惣目付時のものが多い為、
宗矩といえば惣目付惣目付といえば隠密、隠密といえば忍者、てな具合に、
イメージが走った結果、


    ,ィィr--  ..__、j
   ル! {       `ヽ,       ∧
  N { l `    ,、   i _|\/ ∨ ∨
  ゝヽ   _,,ィjjハ、   | \
  `ニr‐tミ-rr‐tュ<≧rヘ   > 各地の柳生新陰流の門弟は実は忍者だったんだよ!
     {___,リ ヽ二´ノ  }ソ ∠ つまり、裏柳生は実在した!!
    '、 `,-_-ュ  u /|   ∠
      ヽ`┴ ' //l\  |/\∧  /

    • ─‐ァ'| `ニ--‐'´ /  |`ー ..__   `´

    く__レ1;';';';>、  / __ |  ,=、 ___
   「 ∧ 7;';';'| ヽ/ _,|‐、|」 |L..! {L..l ))
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 とか言われたりしがちですが、まあ、その辺は謎で砂。
とはいえ、実際、将軍家の憶えめでたい柳生新陰流を、
自藩の剣術指南役として招きたい、という藩は多く、
柳生一族を含め、柳生新陰流の剣士が指南役となった藩は20近くあります。
その中には、尾張紀州、伊達、鍋島、細川などの大藩が名を連ねており、
彼らによって、その藩、または近隣の藩の内実を調べていたのではないか、と
言われるのも、むべなるかな。
まあ、信憑性を考えると、調査の為に送り込んだ、というよりも、
調べたい先に門弟がいたら話を聞いてみる、というところが
実態ではなかろうかな、と。


 ちなみに余談ですが、宗矩が惣目付に着任したのは寛永九年の12月なのですが、
この年、二つの大大名がそれぞれ改易と没収を受けています。
そう、熊本五十一万石の加藤家と、駿河五十五万石、家光の実弟、大納言忠長です。
信憑性はかなり微妙ですが、一説によると、この二家の始末についても
宗矩の意見がかなり反映されていた、と言われており、もしそうなのであれば、
上の話はまったく逆で、この二家の始末に関する評価こそが、
惣目付の設置と宗矩の就任に繋がったのでは、と考えることもできま砂。


 こうして、己の兵法で以って、剣だけではなく、政においても将軍を指南し、
一介の剣士から大名へと出世した宗矩ですが、流石の宗矩も歳には勝てません。
というわけで、次が柳生但馬守宗矩という人物の物語のラスト、
晩年の宗矩について語る所存でアリマス。