【柳生一族、そして宗矩】その27:「柳生一門」の人々


 さて、今回は、柳生一族とは異なる「柳生一門」の話をするでアリマス。


■広がる「柳生一門」

 「柳生一門」というのは、大雑把に定義すれば、
石舟斎や宗矩、利厳などの柳生一族の人間によって柳生新陰流を教授された剣士、
及び、その剣士に連なる剣士たちのことになります。


 最初に書いておくと、これを全部紹介するのは無理です。
つか、それができたら、当方今村先生(「史料 柳生新陰流」の編者。
多分柳生研究の第一人者)を越えられるんじゃなかろうかと。
少なくとも今の当方じゃ無理で砂。


 なんでここまで力強く断言できるかと言うと、
はっきり言って、物凄い数になるので砂。
全国にいる柳生一門ってのは。


 前に「各地の大名が、柳生新陰流の剣士を自藩の指南役にした」と
書いたわけですが、その内訳と言うのは、「柳生藩旧記」によると、
以下のようになってるそうです。


 01:江戸徳川将軍家  :柳生宗矩
 02:予州(愛媛)久松家 :松下八郎左衛門、源太夫、小源太
 03:尾州(尾張)徳川家 :柳生利厳
 04:勢州(伊勢)藤堂家 :柳生源太夫、津田武太夫
 05:和州(奈良)狭川村 :狭川甲斐守
 06:越前(福井)前田家 :出淵平右衛門
 07:肥後(熊本)細川家 :田中甚兵衛
 08:会津(福島)保科家 :小瀬源内
 09:下総古河土井家  :萩原栖左衛門
 10:大和高取植村家  :西江織部
 11:山城淀石川家   :野殿定右衛門
 12:筑後柳川立花家  :戸塚治太夫
 13:上野厩橋酒井家  :辻茂右衛門
 14:長州毛利家    :馬木家六
 15:仙台伊達家    :柳生権右衛門、狭川新三郎
 16:紀州(和歌山)徳川家:木村助九郎
 17:阿州(徳島)松平家 :佐々木藤左衛門
 18:加州(石川)前田家 :笠間九兵衛
 19:土州(高知)山内家 :小栗仁右衛門
 20:不明       :柳生内蔵助、汀佐五右衛門


 江戸柳生家を加えると、ちょうど20になりま砂。
そして、これはあくまで分かっている範囲で藩の剣術指南役が
柳生の剣士であるものだけであり、また、時期が聊か不明瞭(おそらく宗矩が
惣目付に就いていた頃)なため、単に柳生新陰流を指南している剣士がいた藩、
柳生新陰流の剣士がいた藩というのであれば、
果たして何処まで膨れ上がるのか、というところでアリマス。
(実際、当方が見てる資料でも、食い違いが出てるとこがありますし喃)


 例えば、上に挙げられているもの以外で、こんなのもありますし喃。
(毛利家系の流派らしいのですが、上記の馬木家六じゃないので砂。ううむぬ)


 【西国柳生新影流】
 

 てなわけで、ここでは柳生一門のうち、代表的な人物のみを取り上げます。
そうなりますと、大体、以下のようになりま砂。


 ・柳生四高弟(木村助九郎、庄田喜左衛門、狭川新左衛門、出淵孫兵衛、村田与三)
 ・金春七郎
 ・荒木又右衛門
 ・鍋島紀伊守元茂
 ・細川越中守忠利


 これらの人物を紹介する事で、柳生一門というのがどういうものであったか、
ご想像頂けると重畳でアリマス。


■「結局誰と誰と誰と誰?」柳生四高弟

 または柳生四天王とも呼ばれ、
石舟斎の直弟子、または宗矩の直弟子とも言われているのですが、
その辺、どっちが正しいか今ひとつ不明でアリマス。
ただ、全員、石舟斎以来の柳生家の家臣のようなので、
家督を引き継いだ宗矩に仕えたことが、ややこしくなった一因では、と。


 まあ、それよりも、お気づきの方もおられるとは思いますが、
上に挙げた柳生四高弟、何気に名前が5つ挙がっているので砂。
これじゃ5人であり戦隊物でアリマス。


 どういうことかといいますと、記録によって、
この四天王のメンバーが違ってることがあるので砂。
具体的に言うと、木村助九郎以外のメンバーが、非常にあやふやなのでアリマス。
更に言えば、名前も文書によって違っていたりするので砂。


 例えば、木村助九郎は友重という名があり、紀州徳川家の剣術指南役として
ほぼ確定しているのですが、他のメンバーの場合ですと、

 庄田喜左衛門:教高という名で、後に「庄田心流」を創始した、とあり、
        仕えた先が越後高田城主・榊原忠次とあるのですが、
        榊原忠次は越後高田城主ではないため、不明瞭。
        また、日本武術神妙記においても、四天王としては出ず、
        単に宗矩の高弟として書かれている。


 狭川助直  :通称が新左衛門なのか新三郎なのか、それとも別人なのか不明。
        仙台伊達家に仕えた。日本武術神妙記では
        四天王として名が挙がっている。


 出淵平八  :名が不明。通称も平右衛門なのか孫兵衛なのか不明。
        越前前田家に仕えた人物と同一人物?
        日本武術神妙記では木村や村田と共に名が挙がっているが、
        こちらでは四天王とは呼ばれていない。


 村田与三  :名は不明。仕えた先も不明。
        ただ、例の村田柳生の祖先である可能性はあり、
        宗矩の直接の家臣であったかもしれない。
        日本武術神妙記では木村や村田と共に名が挙がっているが、
        こちらでも四天王とは呼ばれていない。


 てな具合なのです。
つか、木村助九郎も四天王と呼ばれてると記載はされてないのですが、
日本武術神妙記の小野忠明の逸話において、忠明に向かっていったメンバーに
木村助九郎、出淵平八、村田与三が上がっている都合と、
あとは格付け的なところから、名が挙がっているようで砂。
(つか、御三家の剣術指南ですから、実質、弟子筋ではトップかと)


 つか、そもそも、この四天王という呼称自体が、
実際のものだったかどうか怪しいところがあるので、なんともはや。
元になる日本武術神妙記自体、記述が胡散臭いところが多々ありますし喃。
(宗矩の弟に宗章(むねあきら)なる人物がいるとか、
 さっきの小野忠明の逸話で、三人と一緒に利厳が出てくるとか…)


 てなところで、史実としてはそもそも四天王という呼称自体が胡散臭いため、
あんまりこだわってもなあ、というところではあります。
ただ、なんか惹かれるところがあるのも事実なので、
折を見て調べてみたいところではありま砂。
(あと「柳門十哲」なる呼び名もあって、これには上記5人が全員いるのですが、
 これは山風先生の創作みたいですし喃。どうせなら10人羅列してくれれば…)


■「剣豪能楽者」金春七郎

 柳生と能に縁が深いことは既に書いている通りですが、
その縁を作った一因ともいえるのが、この金春七郎氏勝でアリマス。


 金春七郎の家業である能の「金春流」は、
大和猿楽四座のうち、最古の円満井座の出であり、
春日興福寺の神事能をやっていたそうなので砂。
元々、柳生家自体、春日神社の寺領とされた小柳生庄の地頭として派遣された
菅原永家を家祖としているため、寺社との縁も深く、
そこからの付き合いだったと思われます。
(石舟斎の妹も春日の神人に嫁いで、そこからあの友景が出ているわけですし)


 この金春七郎氏勝、元々親父の八郎安照が大坂の陣に出陣するくらいの人間で、
その影響もあってか、やたら武術熱心だったので砂。
能楽者なのに。しかも宗家なのに。


 で、親父の八郎が石舟斎と付き合いがあったので、
そこから石舟斎に弟子入りした七郎は、何里もある道を歩いて、
柳生の里まで通い弟子してたそうなので砂。
元々、宝蔵院の槍も修めていたというこの七郎、
この熱意と、元々の才能もあってか、石舟斎より免許を受けています。
(この目録は今も残っていま砂)


 なお、柳生新陰流金春流の間の話といえば、秘伝の交換が有名で砂。
金春流からは「一足一見」が、柳生新陰流からは「西江水」が、
それぞれ伝えられた、というのですが、詳細は不明でアリマス。
ただこの際、相弟子になり云々という話もあるので、
石舟斎か、さもなきゃ別の誰か(宗矩か利厳か)が名目上弟子入りしたのかもで砂。
これに絡んで、宗矩自身も自伝に、


 「一足一見の事、理あり。金春流の謡能の心持に有。
  是、兵法に実、面白き事也」


 と書いてるそうなので、交換したかどうかはともかく、
金春流の「一足一見」が柳生に伝わったこと自体は間違いなさそうで砂。


 こうして思うと、宗矩は「能ばっかやってんじゃねぇ」と
沢庵に怒られてるわけですが、その根っ子を辿ると、案外、能好きは
親父の石舟斎の頃からだったんじゃないかという気がしま砂。
そうでもなければ、「秘伝の交換」なんつー考え自体、浮かばないでしょうし。


 そんな能楽者にして兵法の達人という、なかなか伝奇力強めのこの金春七郎、
しかし、難儀なことに、慶長十五年(1610)、早死にしてしまうので砂。
享年35歳。


 勿体無い話でアリマス。


■「鍵屋の辻の決闘」荒木又右衛門

 まあ、所謂「日本三大仇討」のひとつ、「鍵屋の辻の決闘」の主役の一人、
荒木又右衛門保知でアリマス。
ただ、ここでは件の決闘についてはオールスルーであり、
彼と新陰流の関係についてのみ、話を絞ろうかと。


 彼は大和郡山藩の剣術指南役であり、最初は新当流を修めた後、
新陰流を学んだ、とあるのですが、ここでややこしいのが、
「誰に新陰流を学んだのか」というところなので砂。
で、今の所、候補に上がっているのが、


 ・十兵衛
 ・戸波又兵衛


 この2人なのでアリマス。
なお、2番目の戸波又兵衛が誰に新陰流を学んだか不明ですが、
当初伊賀上野に住んでおり、後に宗矩に随身した、という話があるので、
とりあえず、柳生新陰流の剣士ではあろうと。


 ちなみに、荒木又右衛門には宗矩の弟子説もあるのですが、
これは、戸波又兵衛に免許を貰う際、又兵衛が宗矩から許可を貰って、
又右衛門に目録を渡したらしく、この時、又右衛門も宗矩の弟子列に
名義上挙げられたそうなので、実質、戸波又兵衛説の派生であろうと。
まあ、既に剣術指南役となっていた又右衛門が、定府の宗矩のところまで行くのは
難しいところでしょうし喃。


 ちょいと話がずれましたが、まず、両方の説の論拠をば。


 十兵衛の弟子説ですが、これは「柳生の里」の中に、
「十兵衛の一万三千人の弟子の中には、荒木又右衛門もいた」という
記載があったから、というのが論拠になっております。
この時期、十兵衛は小姓を致仕して柳生庄に戻っていると言われているので、
郡山から柳生庄までの距離などを考えても、それほど不可能というほどでもなく、
まあ、ありえなくはなかろうと。


 ただ、年齢的には、十兵衛と又右衛門は10歳の差があり、
果たして10歳も年下の、それも将軍の勘気を受けて致仕するような人間に、
歴とした一藩の剣術指南役が弟子入りするものか? という疑問もあるわけで砂。
まあ、天下一の流派の当主の嫡男、てな面もあるので、
そこに注視すれば、ありえなくもない、とも言えるのが微妙なところで砂。


 で、もうひとつの戸波又兵衛の説なのですが、
こちらの場合、仇討ちが起きてから弟子入りした、という話なので砂。


 仇討ちの後、裁きを待つために、
又右衛門は4年間、伊賀上野の藤堂家に預けられていたのですが、
ここで、この戸波又兵衛が、件の仇討ちについて、一説ぶったので砂。


 「仇討ちの時、又右衛門の刀が折れたっていうじゃろ?
  重大な仇討ちの時に、そんなへっぽこ刀を使うってどうよ?(大意)」


 これを聞いた又右衛門は「そういやそうだなあ」と反省し、
戸塚又兵衛に弟子入りして、新陰流(と刀の鑑定)を学んだ、という話なので砂。
で、重要なのは、この弟子入りの起請文が残っている、ということなのでアリマス。
この起請文が、戸波又兵衛説の論拠なので砂。


 てなところで、当方の推測としては、
おそらく、荒木又右衛門が新陰流を習ったのは仇討ちの後であり、
学んだのは戸波又兵衛、または藤堂藩の指南役、柳生源太夫か津田武太夫である、
というところではなかろうかなあと。
十兵衛説を載せている「柳生の里」は、仇討ちよりあとに書かれた話なので、
案外、話題作りに載せてみましたー、という可能性も否定できませんし喃。


 そうなると、仇討ちの時は、新陰流剣士じゃなかったってことになるので、
若干どうなのか感が広がるところですが、まあ、時期はともあれ、
荒木又右衛門も柳生新陰流の剣士である、ということは間違いないようなので、
ここに出すには問題ないかな、というとこで砂。


■「思無邪」鍋島紀伊守元茂

 さて、今度は大名柳生二連続でありますよ。
まずは、宗矩の直弟子の一人、鍋島元茂のお話をば。


 佐賀鍋島家自体の歴史については割愛しますが、
この元茂、元は当主勝茂の嫡男だったのですが、
関が原において鍋島藩が西軍に味方したことによって、
徳川家の養女を受け入れ、その子供を嫡男にしなければならなくなった都合、
廃嫡されてしまった悲劇の人、というところなので砂。


 そして、しばらくの間、江戸に人質として住んでいたのですが、
何故かここで宗矩に弟子入りし、柳生新陰流を学ぶことになるので砂。
時に元和二年(1616)。元茂15歳。


 元茂はかなり熱心だったようで、その後、わずか2年で目録を与えられ、
元和六年(1620)には、家光の前での宗矩の剣技上覧において、
木村助九郎と共に、この元茂が打太刀を勤めているので砂。
ここからも、相当な腕前になっていることが伺えるかと。
(ただ、この話は鍋島藩の元茂の記録に依っているのですが、
 年代が怪しく、本当かどうか微妙なところもあったり)


 そして、元茂が印可を受け、例の「兵法家伝書」を与えられたのは、 
宗矩が亡くなる直前、正保三年(1646)であり、この時、宗矩はかなり無理をして
これを書き上げたらしく、花押がかなり乱れてるので砂。
ちなみに、この兵法家伝書は、それまで書いた兵法家伝書の内容を踏まえた上で
最終的にまとめなおした決定版とも言うべきシロモノだそうで、
「史料 柳生新陰流」には全編収録されてるそうなので、ちょいと興味ありま砂。
(当方が参考にしてる兵法家伝書は岩波版で、これは元が江戸柳生家本なので)


 ちなみに、この元茂との縁を通じて、柳生家と鍋島家の関係は深まり、
その後、十兵衛、宗冬、更に宗春の代まで鍋島家との交友は続いているので砂。
実際、元茂だけではなく、その親の勝茂とも交流を持ち、
兵法家伝書も、勝茂の方に先に渡してたりしてる(おそらく義理許し)ので、
かなり深い交流だったのであろうな、と。


 あと、元茂と言えば外せない話としては、
寛永四年(1627)、宗矩に宛てられた「兵法者以思無邪為本」の論があります。


 この「兵法者以思無邪為本」の論は、
「ひそかに意ふに、兵は思無邪を以って本となす」を書き出しとする、
元茂自身の兵法観を述べたものであり、元茂自身が相当深く兵法を
学んでいたことを示す証しとなっています。
詳細は省略しますが(岩波版兵法家伝書に全文が載ってます)、
ここで示された兵法観に対し、宗矩は、


 『嗚呼、太守に非れば之を知らず、余に非ざれば之を証せず。
  思はざるべけんや』

 (意訳:アンタでなきゃここまで書けないし、
     これのスゲェことは俺しかわかんねーよ。わかる?俺のこの気持ち)


 と書くくらい感銘を受けていることからも察して頂ければ。
息子の十兵衛が「昔、飛衛と云ふものあり」を書いてきた時の反応と比べると、
天と地の差があるで砂(まあ、立場の差ってのもあるとは思いますが)。
こうして思うと、臨終の際の兵法家伝書伝授は、
義理許しでもなんでもなく、ガチの伝授だったのかもなあと。


 ちなみに、鍋島藩と言えば、例の「葉隠」の藩であり、
葉隠の成立した時期(享保元年(1716))を考えると、
なにかしらの影響があったのでは、と思うのも愉快かもで砂。
そのうち、読み比べて調べるのも一興かもです喃。


■「白紙印可」細川越中守忠利

 さて、今度はもう一人の大名柳生であるところの細川忠利の話でアリマス。
この細川忠利、家系を辿れば、父・細川忠興と母・お玉の息子なのですが、
このお玉さん、別名がありまして、その名も「ガラシャ」でございます。
そう、あの明智光秀の娘の細川ガラシャ


 まあ、伝奇脳的に考えれば、
ガラシャの息子で天海の孫(光秀=天海説ならそうなる)で、
 それが柳生新陰流を学んで、後に武蔵を客人に招いた」とかなると、
この忠利って何者?と思うのが人情というものでありますよ。


 ちなみに伝奇ついでの余談ですが、
忠興の父、つまり祖父の藤考は、あの剣豪将軍義輝の側近であり、
塚原ト伝から剣術を学んでいたり、松永弾正の焼き討ちに際し、
後の義昭を救出したりと、まあ、三代揃って伝奇力強めの一族であるなあと。


 ま、その辺の話はともかく、史実における細川忠利と柳生の関係は、
忠利が鍋島元茂と同じく、人質として江戸にいた慶長五年(1600)、
15歳の頃からであり、目録を与えられた厳密な年は不明ですが、
遅くとも35歳頃までには目録を与えられてたのでは、と言われてま砂。


 で、それから更に時が流れ、寛永十四年(1637)、
忠利が細川家当主となり、熊本五十四万石に移ってからになりますが、
宗矩より「兵法家伝書」を伝授されます。
ここで特徴的なのは、この時一緒に渡された印可でして、
これがなんと白紙なので砂。


 ただ、流石にそれじゃ意味不明なので、年と署名と花押はあるのですが、
後ひとつ、こういう言葉が付け加えられているので砂。


 「以白紙伝兵法心」


 これだけでも相当妙なのですが、
これに更に、沢庵が補足追記をしていたりして、
かなり特異な印可であるので砂。


 どうも意図したところによると、


『そもそも兵法の心というものは文字や言葉じゃ伝えきれないものである。
 あなたには既に今まで長いことかけて「以心伝心」してある。
 だから、あれこれ書いても意味がないので、敢えて白紙で渡す』


 ということだそうなのですが、まあ、ややこしい話で砂。
ちなみに、忠利は宗矩だけではなく、沢庵ともかなり付き合いが深かったらしく、
沢庵から6年間で四十六通の手紙が送られていたりもします。


 あと、忠利も、元茂と同じく、己の兵法観を論じて、
これを宗矩に送っていたりします。
曰く、


 『第一 大信の心を具す。
  第二 放心の心を具す。
  第三 不退転の心を具す。
  (中略)
  太刀を離れて習い消え、はじめて兵法に至る』


 とのことで、今まで新陰流を学んだ上で、己なりに兵法とはこれである、
というものであり、これを読んだ宗矩は、


 『心をもとめ、心をはなつ事仰れ下され候間、その名御覚え候様にて候』


 などという具合に返事を返しており、
忠利の兵法観に満足している様子が伺えま砂。


 こんな具合に、兵法熱心であった忠利を縁に、
鍋島家と同じく、細川家とも柳生は縁を深め、藩主は新陰流を修め、
また、藩の流派として柳生新陰流を取り立てていたようです。


 あと、忠利と言えば、宮本武蔵を招き、
「兵法三十五箇条」を書かせたりしてま砂。
実際、七人扶持十八石に合力米三百石に屋敷付き、しかも藩主の客人待遇と、
一浪人としての身を考えれば、まさに破格の待遇といっていい待遇であり、
忠利の兵法熱心が伺えるでアリマス。
(実際、普通の藩士はあれこれ持ち出しがいるわけですけど、武蔵は客人待遇なので、
 その辺一切無しの三百石ですし喃。額面と手取みたいなもんで砂。
 あと、どーでもいいですが、三百石だと虎眼先生と同じです喃)


 ちなみに、忠利が武蔵に「兵法三十五箇条」を書かせたのは寛永十八年(1641)、
「兵法家伝書」と白紙印可を受け取ったのは、その4年前なので、
実際の所、己が学んだ柳生新陰流の兵法観に対して、
武蔵の兵法観とはどんなもんかね、というのが、
武蔵を呼んだ動機のひとつだったのかもで砂。
(実際、「兵法三十五箇条」は忠利個人へ出すためのものですし)
つか、もしかしたら、忠利が伝えられた「兵法家伝書」を
武蔵に見せているかもしれません喃。


 ただ、この「兵法三十五箇条」がまとまる前、
忠利は同年3月に亡くなってしまいます。
享年55歳。


 こうして思うと、忠利が武蔵の兵法観に対して、
どのような感想を抱いたのか、興味がありま砂。
実際、兵法家伝書を受けるほどの人間が、武蔵の兵法観をどのように評価したか、
それは、宗矩の武蔵の兵法観に対する感想にかなり近いものであろうと
推測できますし喃。惜しいところで砂。


 さて、このあたりが、柳生一門の人物の有名どころでアリマス。
実際、こうして見ると、どれだけ柳生新陰流って広まってるのか、と思いま砂。
こりゃ確かに本格的に研究でもしないと、全貌は探りきれません喃。


 てなところで、次はいよいよ最終回、
やたら伸びたこの話も、次で終了でアリマス。
よろしゅうー。