【柳生一族、そして宗矩】その2:「天下一の流派」柳生新陰流

 史実における柳生一族について書くに際し、
まずは「柳生一族とは何ぞや?」「柳生新陰流とはなんぞや?」
というところから、つらつら書いていこうかと。


 まず、簡単に言えば、
柳生一族というのは、徳川幕府における、
将軍家剣術指南役を代々受け継いだ一族のことなわけで砂。
要するに、徳川将軍に剣術を教えるのがお役目であると。


 無論、一族全員で、というわけではなく、
一族から将軍に剣術を教える人物を出している、ということなのですが、
なにせ武門の棟梁たる征夷大将軍が天下を治めていた時代、
その将軍に剣術を教える、という立場なわけですから、
その係累たる柳生一族は、剣士のエリート、という扱いになるわけで砂。
当然、その流派は御流儀(将軍の使う流儀)となり、
「天下一の流派」と称されることになります。


 この「天下一の流派」こそが「柳生新陰流」でアリマス。


 しかし、柳生一族は、柳生新陰流は、
そこまで称されるほど強かったのか、というと、
「わからない」というのが正直なところなんで砂。
実際、将軍家指南役は柳生以外にもう一つあり、
その名は「小野」、流派は「一刀流」と言い、
こちらの方が強い、とする人もいるからです。
また、宮本武蔵も柳生一族と同じ時代に生きていたため、
武蔵の方が遥かに強い、という人もいます。


 そういう訳で、他にも強いと言われてる流派や剣士が結構いたわけですが、
困ったことに、柳生一族は、そして宗矩は、
史実においては他流試合をしたことがないので砂。
(厳密に言えば、将軍家指南役たる江戸柳生は、ですが)
つまり、他流と柳生新陰流が戦って、どっちが強いのか、
もっと直裁的に言えば、柳生新陰流の最強は証明されてないわけで砂。
だから、「わからない」としか書きようがない、と。


 では、最強であるともわからないのに、
何故、柳生新陰流が、その使い手たる柳生一族が、
御流儀として、「天下一の流派」として、在り続けられたのか…。
その理由こそ、柳生新陰流の「特異性」たるひとつの技、
より正確に言えば、ひとつの思想にあります。


        「無刀取り」


 俗に「真剣白刃取り」として認識されがちですが、
柳生新陰流の無刀取りとは、


 「武器(刀)が無い状態で、武器を持った敵に相対しても、
  うろたえず、生き延びるための行動を取ること」


 という考え方、及び、そのための技術(行動)のことを指します。
平たく言えば、万が一の際、生き残るための術、ということで砂。
極論すれば、「無刀取りをするぞ」と言って、相手が警戒した隙に
さっさと逃げてしまうことで斬られずに済むなら、それもまた無刀取りなのです。


 このような考え方自体は他の流派にも、
特に言えば、柳生新陰流の祖流たる新陰流にも存在していました。
(他にも、中条流が"中条流平法"と名乗り、平時の剣・平和の剣を謳ってま砂)
しかし、これを確固たる思想・及び技法として確立していたのが、
(少なくとも江戸時代初期においては)柳生新陰流のみであったことが、
柳生新陰流が御流儀として在り続けた要因だといえます。


 そして、これについては、以下のエピソードが
「御流儀」とはどういうものであるかを理解頂くのに役立つかと。


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 その昔、秀吉がまだ存命の頃、
柳生石舟斎の兄弟子・疋田豊五郎(若き日の石舟斎を簡単に破った剣豪)が
家康の前で剣を披露したが、家康はこれを退け、曰く、


「疋田は自分(家康)が求めている剣のことをわかっていない。
 大将は自ら剣を振るう必要などなく、危機の際に生き延びられれば良いのだ。
 敵を倒すのは、生き延びた後、部下に任せればよい。
 疋田の剣は、一人強ければいいという匹夫(士卒)の剣に過ぎぬ」


 その後、今度は石舟斎が宗矩と共に家康の前に赴き、
宗矩相手に無刀取りを披露したところ、家康はいたく興奮し、
自ら木刀を持って石舟斎に打ちかかった。
そして、その攻撃を無手で制してみせた石舟斎に対し、


 「これこそわしが求めていた剣じゃ」


 と激賞し、その場で石舟斎に誓紙を入れ、柳生新陰流に入門した。


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 このエピソードの続きとして、
家康に臣従を求められた石舟斎が、高齢を理由に断り、
かわりに宗矩を推挙した、という話に続くのですが、
「御流儀」に求められる要素とは何か、ということを表す
エピソードだといえます。


 つまり、ただ単に己の剣で目の前の相手を倒すための技ではなく、
危機に際し生き残るための技、それこそが大将に必要な剣術であり、
それを求めていた家康の前に現れたのが石舟斎であり、宗矩だったのです。
端的に言えば、需要と供給が一致した、ということで砂。


 ただ、では早い者勝ちだったのか、というとそういうわけでもなく、
同時代の剣士を見渡す限り、家康に対し、無刀取りを実践し、
その思想・技法を説明することができた剣士は、石舟斎ただ一人だったでしょう。
(新陰流の流祖たる上泉秀綱(石舟斎の師)がいれば話は別ですが、既に死去)


 だからこそ、「最強であるかどうかわからない」ことは、
柳生新陰流が「天下一の流派」と呼ばれることの支障にはならなかったので砂。
御流儀において、強い弱いは問題ではなく、そもそも求められているものが違う、
ということなのです。


 まあ、若干古いネタですが、


 「強いとか弱いとかはいい。無刀取りを極めるんだ」


 てなとこですか喃。


 そういう意味において、
柳生新陰流が御流儀(=天下一の流派)となったのは必然であり、
その必然を生み出したものこそ、「無刀取り」に代表される
柳生新陰流の特異性であった、というところで、次は、
あらためて、この柳生新陰流を遣う「柳生一族」についての話に移ります。