そもそも荒山小説とは


 先日、様々な因果が巡り巡った末、とある方のご好意により、
「密書「しのぶもじずり」」「金髪くノ一絶頂作戦」の両短編を
読む機会に恵まれたので、読む読む。



 結論:「荒山先生はやっぱりひどいなあ(褒め言葉)」


 毎度のことながら脳がとろけるかと思うくらい、
清々しいほどの同じ話でアリマス。
故に、個別の感想(と高橋メソッド)はまたいずれ。
今回は、荒山小説そのものの話をば。


 「短編にこそ、その作家の真髄が顕れる」


 とは巷間に広く言われるところですが、
荒山先生の場合、真髄というより、
本性とか正体とか言った方がいいんじゃなかろうかと。


 その昔、大衆娯楽について古人曰く、


 「大衆の好みは三つに要約される。新奇、新奇、新奇だ」


 その伝に従えば、荒山先生の書く話はこれ全て、


 「朝鮮、朝鮮、朝鮮」


 であり、とどのつまりが、
荒山先生は同じ話しか書かない人なのだと。
また別の作家が己の新作に問われて曰く、


 「新作について何か語れと言われても、
  私の書くものはみんな同じであって、
  要するに男が女と寝るのである」


 これも荒山先生に当てはめれば、


 「新作について何か語れと言われても、
  私の書くものはみんな同じであって、
  要するに朝鮮と日本で伝奇なのである」


 というところで砂。
で、この「伝奇」の主要要素として「柳生」「妖術」が存在し、
「怪獣」「妖怪」「ロボ」なんかもあったりするわけで砂。


 実際問題、荒山先生が書く話は、
見事なほどにテンプレの嵐です。
即ち、起承転結にまとめれば以下の通り。


 起:「朝鮮絡みで問題が起こった」
 承:「おのれ朝鮮、許すまじ」
 転:「実は○○は朝鮮が絡んでいた」
 結:「その後、朝鮮はどうなったか」


 なお、これは主人公が日本側である場合の話であり、
これが朝鮮側になった場合、「朝鮮」が「日本」に
切り替わるわけで砂。
そして結論も定型テンプレを応用すれば以下の通り。


 1: ハンサムな主人公は良い結末を迎える
 2: 仲間が来て助けてくれる
 3: どうしようもない。現実は非情である


 このテンプレを構成する個別の要素を
あれこれ入れ替えすることで荒山小説は完成するわけですが、
では、斯様なシロモノを我々が喜んで読むのかと言えば、
それはもう満面の笑みを浮かべて摂取するばかりなので砂。


 何故ならば、そこで入れ込まれる「個別要素」が
明らかに常人の発想の域を超えているからであり、
古典的な言い回しをすれば、


 「なあ、そこで一杯おごってやるから、
  何故そこで”朝鮮柳生”という単語が出てきたのか
  じっくりと聞かせてくれないか」


 なのであり、
「想定外の個別要素」と「美しきテンプレ」、
この組み合わせこそが荒山小説の真髄であり、
これによって我々は「驚愕」と「安心」の両方を
同時に手に入れることができるという
贅沢極まりない体験をできるわけでアリマス。


 かくして、今日も荒山先生の朝鮮力はとどまるところを知らず、
伝奇小説の世界に朝鮮の嵐が吹き荒れるわけでアリマス。
これに対し、我々が取れるリアクションがあるとすれば、
次の唄の精神に応じるくらいじゃないでしょうか喃。


  「ヤイサホー!」


  月夜の晩に 錨を上げろ
  嵐の夜に 帆を上げろ
  星を標に 宝に向かえ
  ラム酒はおあずけ 鉄を焼け
  慎み深くをハネ返し 耐えて忍を退けろ
  満ち足りることに 屈するな
  満ち足りないと なおも言え


 とりあえず、「柳生大戦争」の第二部にて、
荒山先生の御力によって宗矩にファックされた
韓使の群れが如何なる憤怒の川を渡って大逆襲し、
その後、友景に蹂躙されるのを楽しみに待ちたいところで砂。