「やる夫で学ぶ柳生一族」開始

 まあ、別段隠すつもりもなかったのですけど、
名前書いて宣伝乙とか言われるのもアレだったので、
名無しでやってみましたが、やっぱすぐバレま砂。


 てなわけで、前にもちょこっと書いてた通り、
今度の柳生話は、やる夫シリーズでやってみることに。


 やる夫観察日記 やる夫で学ぶ柳生一族


 VIPだとスレが流れたら見るまで手間食いますけど、
上記のサイト様のところでまとめてもらえましたので、
そちらから見て頂ければ重畳ー。


 あと、パー速で避難所も用意して頂けたので、
投下告知はそっちでやる予定。
基本的には金曜か土曜の夜にやる所存。
あんなに投下に時間が掛かるとは思いませんでしたし喃。
平日は無理無理。


 ちなみに、予定としては、
こないだの「柳生一族、そして宗矩」
やる夫版でやってみるような塩梅で考えております。
尤も、あれから調べ直してわかったこととかについては、
後から知ったことで上書きするつもりですので、
まったく同じにはならないと思いますが。


 ともあれ、本当に最後まで書ききれるかどうか謎でアリマスが、
やるだけやってみる所存でアリマス。
よろしゅうですー。

荒山本(仮称)について


 そういえばこっちに書くのをさっぱり忘れてましたが、
今回の夏コミで、漫画家の颯田直斗さんのところの新刊に、
荒山ネタで何ページか書かせてもらいました。



>はらぺこ王国2008夏号


>・局地戦闘!まじょ巫女ひそか 16p
>・局地戦闘!4コマひそか7p
>・クラン大尉まんが 7p
>・矩香はエロ尻ご奉仕メイド(言い出したのは神無月さん)
>・柳生新陰流vs妖術師的なサムシング 2p
>・参加すると次第に仲が悪くなっていく、でお馴染みクロスレビュー(柳生入り) 4p
>計44p


>メロンブックス様とらのあな様にて委託予定です。


 基本は颯田さんがMCあくしずにて連載中の
「絶対防空まじょ巫女ひそか」の外伝と、マクロスF話なのですが、
あれこれあって荒山ファンになってしまった颯田さんとの間で、
「荒山本作りたいねえ」という話の末に、今回の荒山ページが
追加されたというわけなのでアリマス。


 荒山スレの方でも、既にお買い上げ頂いた方がおられたようで、
ありがたい限りなのでアリマス。
一応、今回のは予告編というか、サンプル的なものでして、
いずれ、他の要素解説とか全作レビューとか柳生占いとか
「これが柳生宗矩だ!」とかも足しこんだ、
未読者向けの荒山徹ガイドブック」的なものを出せればなあと。


 なんにせよ、「荒山世界をビジュアル化できる荒山ファン」が
来られたことにより、更にあれこれできそうで、
当方としても愉快痛快でアリマス。
もしよろしければ、メロンブックスとらのあなで委託もされるそうなので
ご覧頂ければ重畳ー。



追記(あるいは蛇足)


・矩香のエロ尻メイド絵は、焚きつけたのは当方だけど、
 大喜びで描いたのは颯田さんなんじゃぜ!?
 と醜い責任のなすりつけをしようと思う。
 その様、まさに事実を見ぬ両班の如し。
 (まあ、絵が上がったのを見て、大ウケしてたのも当方ですが)


・解説のアレは、小松崎茂風のをイメージしてみました。
 「イルカがせめてきたぞっ!」みたく。
 いいねえ、小松崎茂


・なんかレビューが怖いとか言われてしまったので
 (まさしく蛇足ながらも)自己弁護も兼ねて解説しますが、
 あれはああいうお約束(=4人目はレビュー無視して暴走する)なので、
 そういうもんだと見て頂ければ。

「わかる」シリーズ2冊と、他にももっと出ればいいという話


 前から話は聞いていたシリーズ物のファンタジー資料本が出たので、
こちらでも紹介をば。



 最近、文庫本サイズのファンタジー資料本が色々出てますけど、
昼、書泉タワー行って、この2冊と、それらをざっと読み比べて感じたのは、


   「これは方向性がハッキリしてるなあ」


 というところでありました。
具体的に言うと、「原典・原著を明確にした上で紹介する」
というのが方針として出てるので砂。


 例えば、堕天使本の場合、個々の説明に際し、
冒頭で、”「○○○○」によれば、×××は〜”という形になってるので砂。
また、何かしら著しい変化が出た場合は、そこも同じく出典を引くと。


 他のシリーズの場合は、
逆に、「広く・浅く」という感じで、まず全体・概要をつかむために、という方針で、
原典が明記されてないことがあったりしました。
その分、多くの話を紹介してるので、単に雑知識を得るってだけなら、
どっちがいいとかいうものでもないところなのでしょうが、
そうでない場合、差が出るのではないかと思うので砂。


 平たく言えば、


 「創作(ゲームなり小説なり漫画なり)に使う場合、
  原典が不明な、もっといえば著作権的・文化的に微妙なネタを峻別できる」


 ということでアリマス。


 実際、特定のネタが、史実・原典ではなく、
他者の創作物を元ネタにして再生産されている、ってのが割とあるわけで砂。
それも、制作者がそうだと気づかずに。
まァ危険。アラ危険。
(平たく言えば鈴木土下座衛門とかそういう話で砂)


 しかし、この本の方向性(まず原典に当たり、どう変わっていったかも当たる)であれば、
そういうのにひっかかる危険性を事前に避けられるわけで、
こういう方向性で書かれた本は、創作の資料としては非常に良いのではないかと。
より深く調べようと思ったら、紹介されてる原典を当たればいいから、二重に便利ですし。


 現状、まずは2冊、ということなのですが、この調子でシリーズが続けば、
なにくれとよろしいのではないか、と思い、紹介した次第。
まあ、上手いこと順調にシリーズ化した末、この方向性で
剣豪本とか名刀本とか出てくんないかしら、という当方個人の欲求も込みで、
受けたらいいなあ、というところで。
(新紀元社の本なんかも既にありますが、あれはサイズが大きいので若干かさばるので砂)

【柳生一族、そして宗矩】:あとがき、参考資料


■あとがき


         やっと終わりました。


 正直、ここまで続くとは当方自身考えてなかったのですよ。
まあ、柳生がどんな一族で、宗矩がどういう奴なのか、
史実準拠であれこれ書いてみたら面白かろうな、と思ったのがきっかけで、
適当にちゃかぽこ打ってみたのが運の尽き。


  「書いても書いても終わんねぇー」


 いや、正直、まさかここまで書くことがあるとは思ってなかったのですよ。
実際、最初の方のテキストと、後半の方のテキストの分量を見比べて頂ければ、
AAを抜きにしても、そのテキスト量の差がありまくることが一目瞭然でアリマス。


 つか、一つ書くと、
「あー、これ書いたらこっちも書かないとなあ」とか、
「ん?ここの話、これじゃ説明足りんかな?」とか、
つらつら思うままに書いたらこの分量でありますよ。
書いてるこっちが吃驚でアリマス。
最初考えてたのと章だけで倍、文章量で言えば3倍くらいになってたのでは…。


 あと、書いてるうちに柳生一族と宗矩に対する見方が自分でも変わっていって、
これまた吃驚でありました。


 「え?お前(宗矩)って、ただの暗黒スットコ野郎じゃなかったの?」


 というのは、当方の正直な感想ですよ?
まさか、宗矩がここまで大層な人間であろうとは、
当方自身、思ってもいませんでしたし、今でも「ホントかよ?」と半信半疑です。
正直、自分以外の人がこれ書いてたら、


 「いくらなんでも誉め過ぎ。
  山岡先生のホワイティな宗矩だってここまで偉人じゃね−ぞ」


 とかツッこむところで砂。
でも、史料見ながら書いてると、少なくとも当方の場合、こうなるので砂。
うーむ…。


 それと、書いてて痛感したのは、
「分からんことが多いなあ」ということでした。
一応、ある程度の資料を揃えた上で書き始めたつもりだったのですが、
「こっちの記述の裏付けってどこ?」「この部分の話ってホントかよ?」と
わからん部分がワラワラ出てきて参りました。
うーん、やっぱり「史料 柳生新陰流」を買うべきですか喃。
amazonだと上下セットで中古7万5000円…)


 とはいえ、書いてて面白かったのもまた事実で砂。
まあ、そうでもなければ、ここまで書かなかったでしょうし。
いや、やってみるもんで砂。


 また気が向いたら、「剣術の歴史について」とか、
「伝奇世界における柳生一族、そして宗矩」とか、
「やる夫で学ぶ柳生一族、そして宗矩」とかやってみますか喃。


 なんにせよ、毎日毎日、同じ時間に似たようなタイトルで更新して、
お目汚し致しました。
ただ、もし楽しんで頂けたのであれば、当方としてはこれに優る喜びはありません。
お読みくださった方々、ありがとうございました。


 それでは、失礼致します。



■参考資料・サイト


【参考資料】
今村嘉雄     :新人物往来社:定本 大和柳生一族
柳生宗矩/渡辺一郎:岩波文庫  :兵法家伝書―付・新陰流兵法目録事
徳山真一郎    :成美堂出版 :柳生宗矩 物語と史跡をたずねて
草野巧      :新紀元社  :剣豪 剣一筋に生きたアウトローたち
牧秀彦      :光文社新書 :剣豪全史
歴史群像編集部  :学習研究社 :日本剣豪100人伝
相川司/伊藤昭  :新紀元社  :柳生一族―将軍家指南役の野望


【参考先サイト】

【柳生新陰流公式ホームページ】
 

【古武術サイト シュハリ】
 

【不動智神妙録】
 

【日本武術神妙記】
 

【隆慶一郎わーるど−史料目次】
 

【全日本剣道連盟-歴史】
 

【剣道における「基本」という用語に関する研究】
 

【剣法秘訣北辰一刀流 (千葉周作述) 第六節 剣術六十八手】
 

【柳生心眼流】
 

【荒木堂(柳生心眼流)】
 

【柳生心眼流の謎(心眼流中国武術説)】
 

【西国柳生新影流】
 

【海月殻(全剣客入場)】
 

【夢の足跡−沢庵宗彭和尚】
 

【世界最古の入れ歯は日本製?〜今日は入れ歯の日】
 

【柳生一族、そして宗矩】その28(終):過去と現代(いま)と未来と柳生但馬守宗矩

 さて、今まで延々書いてきた、この「柳生一族、そして宗矩」ですが、
今回を以って最終回でアリマス。
てなわけで、この最後のテーマとして、


 「結局、柳生一族と宗矩ってなんだったの?」


 という話をする事で、当初の疑問であった、


 「柳生一族、そして宗矩は何が特異だったのか?」


 に対する結論をまとめて、この長い話を締めくくろうかと思います。


■歴史における柳生一族、そして宗矩

 まず、先にも述べた通り、
柳生一族と宗矩、それぞれの特異性は以下のような塩梅なわけです。


【柳生一族の特異性】
 ・「無刀取り」に象徴される護身を目的にした技法と思想の確立
 ・卓越した剣士を一族・一門から短期間に大量に輩出した


【宗矩の特異性】
 ・一剣士の身から統治者(=惣目付・大名)に出世した
 ・剣と禅、能、政治などを統合して新しい概念を生み出し、剣の意味を変えた
 ・剣を社会体制に組み込んだ


 こうして見ると、それぞれ属人的な要素、
即ち、一族から大量に名剣士が出たとか、大名に出世したとかを除けると、
「柳生一族が歴史において果たした役割」が浮き上がってきます。


 それは、以降の剣術に「剣は護身のための術である」という属性を付与し、
また、社会に「剣の修行は武士として、人としての修養のためのものである」、
「刀は武士の魂であり、剣術は武士に欠かせぬものである」
という価値観と、
それに伴う社会制度の変革(武士の子弟は学問の他に剣術を学ぶことを)を与えた、
ということでアリマス。


 さて、ここに至って結論を言えば、


 「柳生一族、そして宗矩は、日本の剣の歴史にパラダイムシフトを起こした」


 これこそが、柳生一族、そして宗矩の特異性であった、ということなのです。


■剣のパラダイムシフト

 さて、宗矩が日本の剣の歴史にパラダイムシフトを起こした、と書きましたが、
実を言えば、日本の剣の歴史において、パラダイムシフトと呼べるものは
宗矩のものも含めて、少なくとも、3度は起こっているので砂。


 即ち、


 1:剣術の誕生−「関東七流と京八流。そして念流」
 2:剣術の思想化・社会化−「剣禅一如」
 3:剣術の普遍化・スポーツ化−「剣術から剣道へ」


 この3つでアリマス。
これより規模は小さいながらも、無視の出来ない要素も多々ありますが、
歴史規模で見た場合、パラダイムシフトと呼べるものはこの3つだけで砂。


 で、このうち、2の部分については今まで散々書き倒してきたことですから、
ここでは割愛して、この1と3のパラダイムシフトについて簡単に説明をば。



■剣術の誕生−「関東七流と京八流。そして念流」

 そのまんまで砂。
日本において「剣術」と呼ばれる技術・概念が確立した、ということです。


 『それまで個々の人間が経験として得ていたに過ぎなかった剣を使った動きを、
  系統立てて整理し、他者が学ぶことができるようにし、
  更にそれを「剣ノ術」という技術であることの概念を打ち立てた』


 これが、日本の剣の歴史における最初のパラダイムシフトです。
これがなければ、そもそも日本における剣の歴史というものは、
存在しなかった可能性すらあります。


 そして、これを成し得たものとして、最初に挙げられるのが、
「関東七流」「京八流」と呼ばれる謎の流派でアリマス。
「関東七流」は常陸(現在の茨城)の鹿島神宮の祝部(神官)、
国摩真人(くになずのまひと)なる人物が編み出したという「鹿島の太刀」と、
それを受け継いだ七人の祝部の家に端を発し、
京八流」は京の一条堀川にいた陰陽師、鬼一法眼が編み出し、
これを伝授した鞍馬山の八人の僧に端を発す、というのが大まかな説であり、
両流の成立は平安時代後半頃ではないかと言われておりますが、
詳細は不明なのです。


 実際、この「関東七流」「京八流」自体、今に伝わっていない為、
その流祖と言える国摩真人、鬼一法眼ごと、実在したのかどうかわからんのですよ。
特に京八流の場合、この八人の僧の一人が源義経である、なんて話もあって、
何処まで信じていいのやら、というところなので砂。
ただまあ、剣術という技術体系、及び概念自体は、
この頃にはあったであろうという推測自体は、それほど間違ってなさそうで砂。


 そして、時は下って14世紀後半、南北朝時代の頃、念阿弥慈恩を名乗る人物が、
実在が確認できる最古の剣術流派「念流」を打ち立てます。
ここから、「剣術」は確立し、念流を祖とする三大流派、
即ち、天真正伝鹿島神道流、中条流、陰流が生まれ、さらにそこから支流が発生し、
またそれとは別に新たな流派が誕生し…、となっていったので砂。


 てなところで、本来なら次になる「剣禅一如」をスルーして、
一気に3、剣術の普遍化・スポーツ化についての話をば。


■:剣術の普遍化・スポーツ化−「剣術から剣道へ」

 こちらは少し話が込み入りますが、
平たく言えば、


 『剣術が誰でも学べるものとなり、
  剣術をすること自体が目的化した』


 ということで砂。
これが3番目のパラダイムシフトであり、剣術の現状でもアリマス。


 さて、時代は一気に飛んで、幕末からの話になります。
宗矩が起こしたパラダイムシフトにより、剣は武士の学ぶ"道"と化し、
弓馬刀槍の四芸のうちでも、別格といっていい扱いを受けるようになったわけですが
時代が流れ、武士の困窮と商人の隆盛が進み、
武士の身分そのものが売買されるようになってくると、
当然のことながら、剣術もその影響を受けることになります。


 まず、武士が学ぶものであった剣術を、町人や農民も学び出すようになります。
これに伴い、昔ながらの剛直な流派や、逆に、平和な時代が続いたことによって、
秘伝が増えたことで複雑怪奇な技術体系を持つようになった流派は、
その人気を落とし、誰でも気軽に学ぶことができる流派が人気を博すようになります。


 それは、直心影流の長沼四郎左衛門国郷、中西派一刀流の中西忠蔵子武が発明した
竹刀や胴、面、小手の防具の発明に伴う試合稽古中心の流派であり、
そのような流派の隆盛の中で、ひときわ目立っていたのが、
北辰一刀流千葉秀作でした。


 千葉秀作の、そして北辰一刀流の特徴は、その合理性にありました。
簡単に言えば、従来ややこしかった部分を簡略化したり、再編したりしたので砂。
前者の場合、(北辰一刀流の祖となる中西派一刀流では)八段階あった段位を三段にし、
後者の場合、従来の技法を「剣術六十八手」としてまとめ直し、
簡単明瞭に教授した、という具合に、


 「誰でも簡単に学べて上達できる剣術(無論、従来と比較しての話ですが)」


 を編み出したので砂。
この簡単明瞭さは、以下をお読み頂ければ納得頂けるかと。


【剣法秘訣北辰一刀流 (千葉周作述) 第六節 剣術六十八手】
 

 これにより、北辰一刀流は江戸の三大道場の一つに数えられ、
また、ここから幕末の名剣士が数多く輩出されたことも知られている通りですが、
ここで打ち立てられた合理性は、後の大難から剣術を救うことに繋がります。


     そう、廃刀令です。


 元々、四民平等や国民皆兵に伴う武士階級の凋落によって、
当然、剣術流派の担い手(学ぶ方はともかく、教える方は大部分が武士)も
困窮していたところに、「刀を持ち歩くな」という直接的この上ない令であり、
維新の影響による西洋文化に比しての日本文化(即ち剣術含む)への蔑視を加速し、
剣術は従来無いまでに危機的状況に陥ります。


 これに対し、直新陰流の榊原健吉などは撃剣興行を行い、
生き残りの道を模索しますが、どうにも蟷螂の斧、という具合であり、
(それでも糊口をしのぐ一助にはなったようですが)
このままでは、というところで、思わぬ事態が発生します。


     そう、西南戦争です。


 この際の、西郷軍・政府軍両方の抜刀隊の活躍によって、結果論ながら、
剣術の有用性が証明される形になり、剣術は再評価されることになります。
そして、更に時を経て、明治二十八年(1895)には大日本武徳会が設立され、
更に明治四十一年(1908)、「体育に関する建議案」が帝国議会で可決、
学校において、剣術を学習項目の一つとなることで、剣術は一気に普遍化します。
この際、学習の基になったものこそ、北辰一刀流の「剣術六十八手」でした。


【全日本剣道連盟-歴史】


【剣道における「基本」という用語に関する研究】


 そして、大正八年(1920)、剣術は剣道として名を統合され、
更に敗戦を経て、GHQによる武道禁止令、刀狩を潜り抜ける為、
スポーツとしての側面を強調したこと、及び、戦後の日本において、
剣術の実戦における有用性に対する必要が薄れたことにより、
「剣術」は「剣道」となり、そしてまた、スポーツとして再度普遍化します。


 つまり、


 「何か(戦闘、統治、心の修養など)のためではなく、好きだからやる」


 となったわけで砂。
かつて、必要(戦闘での実用性、統治)があるからこそ修めていた剣術を、
「剣術がやりたいから剣術をやる」となったこと、及び、それが当たり前となったこと
これこそが、第3のパラダイムシフトなのでアリマス。


 てなところで、宗矩の起こした第2のパラダイムシフトの前後となる、
第1、第3のパラダイムシフトの説明をしたところで、
長かったこの話の最終結論、


    「柳生一族、そして宗矩は剣の特異点である」


 について語る時がやって参りました。


■「剣の特異点」柳生一族、そして宗矩

 さて、唐突に出たこの「柳生一族、そして宗矩は剣の特異点である」という話、
今までも、柳生一族と宗矩の特異性などについては散々語ってきたことではありますが
なおかつ、ここで更に持ち上げるのは何故なのか、


 それは、この第2のパラダイムシフトが、
第1、第3のパラダイムシフトと比較しても、なお特異だからです。


 上に述べた第1、第3のパラダイムシフトと比較し、
この第2のパラダイムシフトには、他には無い特徴が2つあります。


 1:社会的価値観そのものを変革した
 2:パラダイムシフトの中心点が明確である


 ということです。


 つまり、第1、第3は、あくまでも剣術に限定されたパラダイムシフトであり、
剣術を越えた社会全体や歴史そのものへの影響はほぼありませんでした。
そして、そのパラダイムシフトを起こした中心点はなにか、という点においても、
第1は謎であり、第3も「特定の誰が中心か?」となると議論百般するでしょう。


 しかし、第2のパラダイムシフト、
即ち、宗矩の起こした「剣術の思想化・社会化」は、
剣術そのものの変質のみならず、当時の幕藩体制化における武士の在り方を規定し、
また、「葉隠」「武士道」に繋がる武士の思想の一つとしても、
大きな影響を与えています。


 そして、この第2のパラダイムシフトは、
誰が中心にいたのかが、あまりにも明確なのです。
そう、


    柳生但馬主宗矩」


 彼をおいて他にありません。
即ち、


 「柳生一族、そして宗矩の起こしたパラダイムシフトは、
  剣のみならず、日本の歴史にも影響を与えた」


 ということであり、
宗矩が剣の歴史において、


    「宗矩以前」
    「宗矩以降」


 という基準点、あるいは特異点となった、ということで砂。
これこそが、柳生一族、そしてその中でも更に特異である宗矩の、
真の特異性である、ということなのです。


 まさに「剣の特異点でアリマス。


 そりゃー目も引くわ、と。


 てなわけで、この結論に至ったところで、
長かったこの話も、これにて終了とさせて頂きます。
ありがとうございました。




                   「柳生一族、そして宗矩」 完

【柳生一族、そして宗矩】その27:「柳生一門」の人々


 さて、今回は、柳生一族とは異なる「柳生一門」の話をするでアリマス。


■広がる「柳生一門」

 「柳生一門」というのは、大雑把に定義すれば、
石舟斎や宗矩、利厳などの柳生一族の人間によって柳生新陰流を教授された剣士、
及び、その剣士に連なる剣士たちのことになります。


 最初に書いておくと、これを全部紹介するのは無理です。
つか、それができたら、当方今村先生(「史料 柳生新陰流」の編者。
多分柳生研究の第一人者)を越えられるんじゃなかろうかと。
少なくとも今の当方じゃ無理で砂。


 なんでここまで力強く断言できるかと言うと、
はっきり言って、物凄い数になるので砂。
全国にいる柳生一門ってのは。


 前に「各地の大名が、柳生新陰流の剣士を自藩の指南役にした」と
書いたわけですが、その内訳と言うのは、「柳生藩旧記」によると、
以下のようになってるそうです。


 01:江戸徳川将軍家  :柳生宗矩
 02:予州(愛媛)久松家 :松下八郎左衛門、源太夫、小源太
 03:尾州(尾張)徳川家 :柳生利厳
 04:勢州(伊勢)藤堂家 :柳生源太夫、津田武太夫
 05:和州(奈良)狭川村 :狭川甲斐守
 06:越前(福井)前田家 :出淵平右衛門
 07:肥後(熊本)細川家 :田中甚兵衛
 08:会津(福島)保科家 :小瀬源内
 09:下総古河土井家  :萩原栖左衛門
 10:大和高取植村家  :西江織部
 11:山城淀石川家   :野殿定右衛門
 12:筑後柳川立花家  :戸塚治太夫
 13:上野厩橋酒井家  :辻茂右衛門
 14:長州毛利家    :馬木家六
 15:仙台伊達家    :柳生権右衛門、狭川新三郎
 16:紀州(和歌山)徳川家:木村助九郎
 17:阿州(徳島)松平家 :佐々木藤左衛門
 18:加州(石川)前田家 :笠間九兵衛
 19:土州(高知)山内家 :小栗仁右衛門
 20:不明       :柳生内蔵助、汀佐五右衛門


 江戸柳生家を加えると、ちょうど20になりま砂。
そして、これはあくまで分かっている範囲で藩の剣術指南役が
柳生の剣士であるものだけであり、また、時期が聊か不明瞭(おそらく宗矩が
惣目付に就いていた頃)なため、単に柳生新陰流を指南している剣士がいた藩、
柳生新陰流の剣士がいた藩というのであれば、
果たして何処まで膨れ上がるのか、というところでアリマス。
(実際、当方が見てる資料でも、食い違いが出てるとこがありますし喃)


 例えば、上に挙げられているもの以外で、こんなのもありますし喃。
(毛利家系の流派らしいのですが、上記の馬木家六じゃないので砂。ううむぬ)


 【西国柳生新影流】
 

 てなわけで、ここでは柳生一門のうち、代表的な人物のみを取り上げます。
そうなりますと、大体、以下のようになりま砂。


 ・柳生四高弟(木村助九郎、庄田喜左衛門、狭川新左衛門、出淵孫兵衛、村田与三)
 ・金春七郎
 ・荒木又右衛門
 ・鍋島紀伊守元茂
 ・細川越中守忠利


 これらの人物を紹介する事で、柳生一門というのがどういうものであったか、
ご想像頂けると重畳でアリマス。


■「結局誰と誰と誰と誰?」柳生四高弟

 または柳生四天王とも呼ばれ、
石舟斎の直弟子、または宗矩の直弟子とも言われているのですが、
その辺、どっちが正しいか今ひとつ不明でアリマス。
ただ、全員、石舟斎以来の柳生家の家臣のようなので、
家督を引き継いだ宗矩に仕えたことが、ややこしくなった一因では、と。


 まあ、それよりも、お気づきの方もおられるとは思いますが、
上に挙げた柳生四高弟、何気に名前が5つ挙がっているので砂。
これじゃ5人であり戦隊物でアリマス。


 どういうことかといいますと、記録によって、
この四天王のメンバーが違ってることがあるので砂。
具体的に言うと、木村助九郎以外のメンバーが、非常にあやふやなのでアリマス。
更に言えば、名前も文書によって違っていたりするので砂。


 例えば、木村助九郎は友重という名があり、紀州徳川家の剣術指南役として
ほぼ確定しているのですが、他のメンバーの場合ですと、

 庄田喜左衛門:教高という名で、後に「庄田心流」を創始した、とあり、
        仕えた先が越後高田城主・榊原忠次とあるのですが、
        榊原忠次は越後高田城主ではないため、不明瞭。
        また、日本武術神妙記においても、四天王としては出ず、
        単に宗矩の高弟として書かれている。


 狭川助直  :通称が新左衛門なのか新三郎なのか、それとも別人なのか不明。
        仙台伊達家に仕えた。日本武術神妙記では
        四天王として名が挙がっている。


 出淵平八  :名が不明。通称も平右衛門なのか孫兵衛なのか不明。
        越前前田家に仕えた人物と同一人物?
        日本武術神妙記では木村や村田と共に名が挙がっているが、
        こちらでは四天王とは呼ばれていない。


 村田与三  :名は不明。仕えた先も不明。
        ただ、例の村田柳生の祖先である可能性はあり、
        宗矩の直接の家臣であったかもしれない。
        日本武術神妙記では木村や村田と共に名が挙がっているが、
        こちらでも四天王とは呼ばれていない。


 てな具合なのです。
つか、木村助九郎も四天王と呼ばれてると記載はされてないのですが、
日本武術神妙記の小野忠明の逸話において、忠明に向かっていったメンバーに
木村助九郎、出淵平八、村田与三が上がっている都合と、
あとは格付け的なところから、名が挙がっているようで砂。
(つか、御三家の剣術指南ですから、実質、弟子筋ではトップかと)


 つか、そもそも、この四天王という呼称自体が、
実際のものだったかどうか怪しいところがあるので、なんともはや。
元になる日本武術神妙記自体、記述が胡散臭いところが多々ありますし喃。
(宗矩の弟に宗章(むねあきら)なる人物がいるとか、
 さっきの小野忠明の逸話で、三人と一緒に利厳が出てくるとか…)


 てなところで、史実としてはそもそも四天王という呼称自体が胡散臭いため、
あんまりこだわってもなあ、というところではあります。
ただ、なんか惹かれるところがあるのも事実なので、
折を見て調べてみたいところではありま砂。
(あと「柳門十哲」なる呼び名もあって、これには上記5人が全員いるのですが、
 これは山風先生の創作みたいですし喃。どうせなら10人羅列してくれれば…)


■「剣豪能楽者」金春七郎

 柳生と能に縁が深いことは既に書いている通りですが、
その縁を作った一因ともいえるのが、この金春七郎氏勝でアリマス。


 金春七郎の家業である能の「金春流」は、
大和猿楽四座のうち、最古の円満井座の出であり、
春日興福寺の神事能をやっていたそうなので砂。
元々、柳生家自体、春日神社の寺領とされた小柳生庄の地頭として派遣された
菅原永家を家祖としているため、寺社との縁も深く、
そこからの付き合いだったと思われます。
(石舟斎の妹も春日の神人に嫁いで、そこからあの友景が出ているわけですし)


 この金春七郎氏勝、元々親父の八郎安照が大坂の陣に出陣するくらいの人間で、
その影響もあってか、やたら武術熱心だったので砂。
能楽者なのに。しかも宗家なのに。


 で、親父の八郎が石舟斎と付き合いがあったので、
そこから石舟斎に弟子入りした七郎は、何里もある道を歩いて、
柳生の里まで通い弟子してたそうなので砂。
元々、宝蔵院の槍も修めていたというこの七郎、
この熱意と、元々の才能もあってか、石舟斎より免許を受けています。
(この目録は今も残っていま砂)


 なお、柳生新陰流金春流の間の話といえば、秘伝の交換が有名で砂。
金春流からは「一足一見」が、柳生新陰流からは「西江水」が、
それぞれ伝えられた、というのですが、詳細は不明でアリマス。
ただこの際、相弟子になり云々という話もあるので、
石舟斎か、さもなきゃ別の誰か(宗矩か利厳か)が名目上弟子入りしたのかもで砂。
これに絡んで、宗矩自身も自伝に、


 「一足一見の事、理あり。金春流の謡能の心持に有。
  是、兵法に実、面白き事也」


 と書いてるそうなので、交換したかどうかはともかく、
金春流の「一足一見」が柳生に伝わったこと自体は間違いなさそうで砂。


 こうして思うと、宗矩は「能ばっかやってんじゃねぇ」と
沢庵に怒られてるわけですが、その根っ子を辿ると、案外、能好きは
親父の石舟斎の頃からだったんじゃないかという気がしま砂。
そうでもなければ、「秘伝の交換」なんつー考え自体、浮かばないでしょうし。


 そんな能楽者にして兵法の達人という、なかなか伝奇力強めのこの金春七郎、
しかし、難儀なことに、慶長十五年(1610)、早死にしてしまうので砂。
享年35歳。


 勿体無い話でアリマス。


■「鍵屋の辻の決闘」荒木又右衛門

 まあ、所謂「日本三大仇討」のひとつ、「鍵屋の辻の決闘」の主役の一人、
荒木又右衛門保知でアリマス。
ただ、ここでは件の決闘についてはオールスルーであり、
彼と新陰流の関係についてのみ、話を絞ろうかと。


 彼は大和郡山藩の剣術指南役であり、最初は新当流を修めた後、
新陰流を学んだ、とあるのですが、ここでややこしいのが、
「誰に新陰流を学んだのか」というところなので砂。
で、今の所、候補に上がっているのが、


 ・十兵衛
 ・戸波又兵衛


 この2人なのでアリマス。
なお、2番目の戸波又兵衛が誰に新陰流を学んだか不明ですが、
当初伊賀上野に住んでおり、後に宗矩に随身した、という話があるので、
とりあえず、柳生新陰流の剣士ではあろうと。


 ちなみに、荒木又右衛門には宗矩の弟子説もあるのですが、
これは、戸波又兵衛に免許を貰う際、又兵衛が宗矩から許可を貰って、
又右衛門に目録を渡したらしく、この時、又右衛門も宗矩の弟子列に
名義上挙げられたそうなので、実質、戸波又兵衛説の派生であろうと。
まあ、既に剣術指南役となっていた又右衛門が、定府の宗矩のところまで行くのは
難しいところでしょうし喃。


 ちょいと話がずれましたが、まず、両方の説の論拠をば。


 十兵衛の弟子説ですが、これは「柳生の里」の中に、
「十兵衛の一万三千人の弟子の中には、荒木又右衛門もいた」という
記載があったから、というのが論拠になっております。
この時期、十兵衛は小姓を致仕して柳生庄に戻っていると言われているので、
郡山から柳生庄までの距離などを考えても、それほど不可能というほどでもなく、
まあ、ありえなくはなかろうと。


 ただ、年齢的には、十兵衛と又右衛門は10歳の差があり、
果たして10歳も年下の、それも将軍の勘気を受けて致仕するような人間に、
歴とした一藩の剣術指南役が弟子入りするものか? という疑問もあるわけで砂。
まあ、天下一の流派の当主の嫡男、てな面もあるので、
そこに注視すれば、ありえなくもない、とも言えるのが微妙なところで砂。


 で、もうひとつの戸波又兵衛の説なのですが、
こちらの場合、仇討ちが起きてから弟子入りした、という話なので砂。


 仇討ちの後、裁きを待つために、
又右衛門は4年間、伊賀上野の藤堂家に預けられていたのですが、
ここで、この戸波又兵衛が、件の仇討ちについて、一説ぶったので砂。


 「仇討ちの時、又右衛門の刀が折れたっていうじゃろ?
  重大な仇討ちの時に、そんなへっぽこ刀を使うってどうよ?(大意)」


 これを聞いた又右衛門は「そういやそうだなあ」と反省し、
戸塚又兵衛に弟子入りして、新陰流(と刀の鑑定)を学んだ、という話なので砂。
で、重要なのは、この弟子入りの起請文が残っている、ということなのでアリマス。
この起請文が、戸波又兵衛説の論拠なので砂。


 てなところで、当方の推測としては、
おそらく、荒木又右衛門が新陰流を習ったのは仇討ちの後であり、
学んだのは戸波又兵衛、または藤堂藩の指南役、柳生源太夫か津田武太夫である、
というところではなかろうかなあと。
十兵衛説を載せている「柳生の里」は、仇討ちよりあとに書かれた話なので、
案外、話題作りに載せてみましたー、という可能性も否定できませんし喃。


 そうなると、仇討ちの時は、新陰流剣士じゃなかったってことになるので、
若干どうなのか感が広がるところですが、まあ、時期はともあれ、
荒木又右衛門も柳生新陰流の剣士である、ということは間違いないようなので、
ここに出すには問題ないかな、というとこで砂。


■「思無邪」鍋島紀伊守元茂

 さて、今度は大名柳生二連続でありますよ。
まずは、宗矩の直弟子の一人、鍋島元茂のお話をば。


 佐賀鍋島家自体の歴史については割愛しますが、
この元茂、元は当主勝茂の嫡男だったのですが、
関が原において鍋島藩が西軍に味方したことによって、
徳川家の養女を受け入れ、その子供を嫡男にしなければならなくなった都合、
廃嫡されてしまった悲劇の人、というところなので砂。


 そして、しばらくの間、江戸に人質として住んでいたのですが、
何故かここで宗矩に弟子入りし、柳生新陰流を学ぶことになるので砂。
時に元和二年(1616)。元茂15歳。


 元茂はかなり熱心だったようで、その後、わずか2年で目録を与えられ、
元和六年(1620)には、家光の前での宗矩の剣技上覧において、
木村助九郎と共に、この元茂が打太刀を勤めているので砂。
ここからも、相当な腕前になっていることが伺えるかと。
(ただ、この話は鍋島藩の元茂の記録に依っているのですが、
 年代が怪しく、本当かどうか微妙なところもあったり)


 そして、元茂が印可を受け、例の「兵法家伝書」を与えられたのは、 
宗矩が亡くなる直前、正保三年(1646)であり、この時、宗矩はかなり無理をして
これを書き上げたらしく、花押がかなり乱れてるので砂。
ちなみに、この兵法家伝書は、それまで書いた兵法家伝書の内容を踏まえた上で
最終的にまとめなおした決定版とも言うべきシロモノだそうで、
「史料 柳生新陰流」には全編収録されてるそうなので、ちょいと興味ありま砂。
(当方が参考にしてる兵法家伝書は岩波版で、これは元が江戸柳生家本なので)


 ちなみに、この元茂との縁を通じて、柳生家と鍋島家の関係は深まり、
その後、十兵衛、宗冬、更に宗春の代まで鍋島家との交友は続いているので砂。
実際、元茂だけではなく、その親の勝茂とも交流を持ち、
兵法家伝書も、勝茂の方に先に渡してたりしてる(おそらく義理許し)ので、
かなり深い交流だったのであろうな、と。


 あと、元茂と言えば外せない話としては、
寛永四年(1627)、宗矩に宛てられた「兵法者以思無邪為本」の論があります。


 この「兵法者以思無邪為本」の論は、
「ひそかに意ふに、兵は思無邪を以って本となす」を書き出しとする、
元茂自身の兵法観を述べたものであり、元茂自身が相当深く兵法を
学んでいたことを示す証しとなっています。
詳細は省略しますが(岩波版兵法家伝書に全文が載ってます)、
ここで示された兵法観に対し、宗矩は、


 『嗚呼、太守に非れば之を知らず、余に非ざれば之を証せず。
  思はざるべけんや』

 (意訳:アンタでなきゃここまで書けないし、
     これのスゲェことは俺しかわかんねーよ。わかる?俺のこの気持ち)


 と書くくらい感銘を受けていることからも察して頂ければ。
息子の十兵衛が「昔、飛衛と云ふものあり」を書いてきた時の反応と比べると、
天と地の差があるで砂(まあ、立場の差ってのもあるとは思いますが)。
こうして思うと、臨終の際の兵法家伝書伝授は、
義理許しでもなんでもなく、ガチの伝授だったのかもなあと。


 ちなみに、鍋島藩と言えば、例の「葉隠」の藩であり、
葉隠の成立した時期(享保元年(1716))を考えると、
なにかしらの影響があったのでは、と思うのも愉快かもで砂。
そのうち、読み比べて調べるのも一興かもです喃。


■「白紙印可」細川越中守忠利

 さて、今度はもう一人の大名柳生であるところの細川忠利の話でアリマス。
この細川忠利、家系を辿れば、父・細川忠興と母・お玉の息子なのですが、
このお玉さん、別名がありまして、その名も「ガラシャ」でございます。
そう、あの明智光秀の娘の細川ガラシャ


 まあ、伝奇脳的に考えれば、
ガラシャの息子で天海の孫(光秀=天海説ならそうなる)で、
 それが柳生新陰流を学んで、後に武蔵を客人に招いた」とかなると、
この忠利って何者?と思うのが人情というものでありますよ。


 ちなみに伝奇ついでの余談ですが、
忠興の父、つまり祖父の藤考は、あの剣豪将軍義輝の側近であり、
塚原ト伝から剣術を学んでいたり、松永弾正の焼き討ちに際し、
後の義昭を救出したりと、まあ、三代揃って伝奇力強めの一族であるなあと。


 ま、その辺の話はともかく、史実における細川忠利と柳生の関係は、
忠利が鍋島元茂と同じく、人質として江戸にいた慶長五年(1600)、
15歳の頃からであり、目録を与えられた厳密な年は不明ですが、
遅くとも35歳頃までには目録を与えられてたのでは、と言われてま砂。


 で、それから更に時が流れ、寛永十四年(1637)、
忠利が細川家当主となり、熊本五十四万石に移ってからになりますが、
宗矩より「兵法家伝書」を伝授されます。
ここで特徴的なのは、この時一緒に渡された印可でして、
これがなんと白紙なので砂。


 ただ、流石にそれじゃ意味不明なので、年と署名と花押はあるのですが、
後ひとつ、こういう言葉が付け加えられているので砂。


 「以白紙伝兵法心」


 これだけでも相当妙なのですが、
これに更に、沢庵が補足追記をしていたりして、
かなり特異な印可であるので砂。


 どうも意図したところによると、


『そもそも兵法の心というものは文字や言葉じゃ伝えきれないものである。
 あなたには既に今まで長いことかけて「以心伝心」してある。
 だから、あれこれ書いても意味がないので、敢えて白紙で渡す』


 ということだそうなのですが、まあ、ややこしい話で砂。
ちなみに、忠利は宗矩だけではなく、沢庵ともかなり付き合いが深かったらしく、
沢庵から6年間で四十六通の手紙が送られていたりもします。


 あと、忠利も、元茂と同じく、己の兵法観を論じて、
これを宗矩に送っていたりします。
曰く、


 『第一 大信の心を具す。
  第二 放心の心を具す。
  第三 不退転の心を具す。
  (中略)
  太刀を離れて習い消え、はじめて兵法に至る』


 とのことで、今まで新陰流を学んだ上で、己なりに兵法とはこれである、
というものであり、これを読んだ宗矩は、


 『心をもとめ、心をはなつ事仰れ下され候間、その名御覚え候様にて候』


 などという具合に返事を返しており、
忠利の兵法観に満足している様子が伺えま砂。


 こんな具合に、兵法熱心であった忠利を縁に、
鍋島家と同じく、細川家とも柳生は縁を深め、藩主は新陰流を修め、
また、藩の流派として柳生新陰流を取り立てていたようです。


 あと、忠利と言えば、宮本武蔵を招き、
「兵法三十五箇条」を書かせたりしてま砂。
実際、七人扶持十八石に合力米三百石に屋敷付き、しかも藩主の客人待遇と、
一浪人としての身を考えれば、まさに破格の待遇といっていい待遇であり、
忠利の兵法熱心が伺えるでアリマス。
(実際、普通の藩士はあれこれ持ち出しがいるわけですけど、武蔵は客人待遇なので、
 その辺一切無しの三百石ですし喃。額面と手取みたいなもんで砂。
 あと、どーでもいいですが、三百石だと虎眼先生と同じです喃)


 ちなみに、忠利が武蔵に「兵法三十五箇条」を書かせたのは寛永十八年(1641)、
「兵法家伝書」と白紙印可を受け取ったのは、その4年前なので、
実際の所、己が学んだ柳生新陰流の兵法観に対して、
武蔵の兵法観とはどんなもんかね、というのが、
武蔵を呼んだ動機のひとつだったのかもで砂。
(実際、「兵法三十五箇条」は忠利個人へ出すためのものですし)
つか、もしかしたら、忠利が伝えられた「兵法家伝書」を
武蔵に見せているかもしれません喃。


 ただ、この「兵法三十五箇条」がまとまる前、
忠利は同年3月に亡くなってしまいます。
享年55歳。


 こうして思うと、忠利が武蔵の兵法観に対して、
どのような感想を抱いたのか、興味がありま砂。
実際、兵法家伝書を受けるほどの人間が、武蔵の兵法観をどのように評価したか、
それは、宗矩の武蔵の兵法観に対する感想にかなり近いものであろうと
推測できますし喃。惜しいところで砂。


 さて、このあたりが、柳生一門の人物の有名どころでアリマス。
実際、こうして見ると、どれだけ柳生新陰流って広まってるのか、と思いま砂。
こりゃ確かに本格的に研究でもしないと、全貌は探りきれません喃。


 てなところで、次はいよいよ最終回、
やたら伸びたこの話も、次で終了でアリマス。
よろしゅうー。